第58話 大湖の巫女を訪ね




 もう五百年も昔、鬼とつがった女の物語である。

 女が生まれる少し前、京の南と東の山に二匹の鬼が棲んでおり、二匹の鬼は食った人間の数をいつも競い合っていた。


 多くの人や家畜が二匹の鬼に食われ、旅人も鬼を恐れて通行できない。頭を悩ませた帝は、陰陽師の頭に鬼退治を命じた。

 陰陽師頭は鬼を退治できなかったが、東の山の鬼が二八一年の周期で生まれ変わり、近いうちにその転生の時期が訪れることを突き止めた。

 そこで陰陽師頭は東の山に武士もののふを送り、鬼の生まれ変わりである赤子を探させることにした。


 帝の命によって東の山へ移り住んだ武士の中に、弓埼くざきという男がいた。

 男は妻を娶り、妻は娘を産んだ。


 弓埼の娘は山で育ち、年頃になった頃、山で出会った不思議な少年と恋に落ちた。

 少年はほとんど口を利かず、生の魚や鹿を食い、狼のように早く走り、熊のように大力だった。

 山に一人で住む老婆に育てられたというこの少年は、東の山の鬼の生まれ変わりだった。


 娘は少年を愛し、少年は娘を愛したが、娘には許婚いいなずけがあった。

 許婚の男は娘に想い人がいると知り、刀を提げて少年を殺しに行く。


 しかし少年は、彼を殺しに来た人間を殺して食ってしまった。


 少年が東の鬼の生まれ変わりと知った人間たちは、東の山へ兵を送り込む。

 少年は迫る追手を倒そうとしたが、追手の中には娘の父である弓埼がいた。


 東の鬼は愛する人の父を殺せず、娘を連れて山奥へ逃げる。

 冬のこととあって娘は凍え、凍った両足が腐り落ちてしまう。

 嘆いた鬼は娘を背負って山を下り、東の湖で水神すいじんに祈った。


 水神は鬼の願いを聞き入れた。

 鬼の片腕を二本の足に変じて娘に与え、鬼の残りをきじくちばしへと変えたのである。

 娘は再び歩くことができるようになり、湖のほとりに嘴を埋めて塚を作った。

 それ以来、娘は魔物や神霊の声を聞くようになったという。


 湖のほとりに住み着いた娘を、人々は大湖の巫女と呼ぶようになった。







 西からの斜陽が眩しい。

 すすきに覆われた野原、その中にたたずむ小さな村の向こうに、広々とした湖と山々の峰が見える。

 宋十郎そうじゅうろう孔蔵くぞう昂輝のぶてるの案内で、扇沢うのさわという村へやってきた。

 扇沢は穣芭じょうばのほとりにある村である。昂輝が知る話によると、この付近に大湖おおうみ巫女みこの住まいがあったはずだという。

 彼らは、二日前に樫津たてづを出た時から、昂輝が買った馬で移動している。

 この時も細い通りを馬で進んでいると、前方から農民の老婆とその息子らしい男が歩いてきた。

 昂輝が言った。

「そこを行くお主、大湖の巫女をとやらを探しているのだが、聞いたことはないか」

 呼び止められた老婆は立ち止まり、馬上のお大尽を見上げた。

「へえ。巫女なら、この近所におわしましたけど、十年ほど前に亡くなりました」

「巫女の家はどこか知らぬか。もうその家には、誰も住んどらんのか」

「家は、ちょっと行ったとこで、この辺の者は皆知っとります。今は巫女のせがれと孫が、二人で住んどりますが」

「なるほど。では、その倅と孫に会いたいのだが、道案内を頼めぬか」

 日暮れ前のことで親子はいい顔をしなかったが、昂輝が駄賃を払うと言ったところ、息子のほうが案内してくれることになった。

 巫女の家は村から少し離れているらしい。

 息子の案内に従い、村外れへ進んでゆくと、湖のほとりに立つ小さな家があった。

 家は林とすすきに隠れており、ともすると見過ごしてしまいそうである。

 老婆の息子は昂輝から駄賃を受け取ると、上機嫌に去っていった。

 三人の男は小さな家の前で馬を降り、手近な木へ繋いだ。

 馬を繋ぎ終えて他の二人が見つめる中、孔蔵は進み出て、家の戸を叩いた。

「ごめんください」

 しばらくして小さく戸が開き、若い男が顔を覗かせた。

「はい、どちらさまでしょう」

 大人しそうな男は彼を見上げつつ、細い声で言った。

「大湖の巫女の家を探しておってな、ここだと聞いたんだが」

 孔蔵の言葉に、男が目を見開いた。

「み、巫女はおりませんが」

「知っている。十年ほど前に亡くなったと聞いた」

「そうです。あの、巫女がいないのに、何のご用ですか」

「汝は、巫女の孫か」

「はい、そうです」

「御母堂は」

「母は祖母より早く死にました。ですから、巫女はおりません」

 そう言って男が戸を閉じようとしたので、孔蔵は素早くその戸を掴んだ。男はひゃっと声をあげる。

「ちょっと待て、舎雉鬼しゃじきという鬼を探しておるのだ。大湖の巫女が知っているはずだった。汝は聞いたことはないか」

 その時、背後で砂を踏む足音を聞き、三人の男は振り返った。

 そこには、村人らしい女が立っていた。質素な小袖を着て、野菜の桶を抱えている。

 女は三人のよそ者を見回すと、言った。

「あんたら今、雉庵ちあんの名前を呼ばなかった?」







 巫女の孫は、名を㮈吉だいきちといった。

 女のほうは名を枝野しのといって村に住んでいるが、祖父母の代から巫女の一家と親しいという。

 㮈吉は巫女の家系にも関わらず、鬼も妖物も見たことがない。しかし不思議なことに、枝野はそれらのものと話すということだった。

 枝野は、雉庵ちあんあるいは舎雉鬼しゃじきと呼ばれる鬼との出会いについて語ってくれた。


 枝野が十二歳の時、兄と一緒に山菜取りに出掛け、道に迷ってしまった。夜が更けても、兄妹は山を出ることができなかった。

 やむなく兄妹は大木の根元に隠れるようにして眠ったが、そこで枝野は夢を見た。

 灰色の肌をした隻腕せきわんの青年が現れ、枝野を山から連れ出してくれるのである。

 夢の中で枝野が青年の名を訊ねたところで目が覚め、同時に兄が寝言に「雉庵」と呟くのを聞いた。

 夜が明け、枝野は夢で見た通りに山を下り、果たして兄と共に村へ帰り着くことができた。


 二度目は枝野が十五歳の時、戦に出た兄に代わって、母の薬を買いに隣町へ行った帰りのことだった。

 枝野は道中盗賊に遭い、山の中へ逃げ込んだ。

 山に入った途端天は黒い雲に覆われ、枝野を追っていた盗賊の一人に雷が落ちた。

 それだけでも吃驚きっきょうしたのに、落雷の稲光の中から隻腕の青年が現れた。青年は手にしていた棍棒を振り回し、たちまち盗賊たちを殴り殺してしまった。

 恐ろしかったが、青年の肌が灰色であるのを見、枝野は思わず訊ねた。

「あんた、雉庵でしょ」

 青年は振り返って頷くと、再び走った稲光と共に消えてしまった。


 三度目は、枝野の兄が戦へ出たまま帰らぬ人となってしまった時だった。

 枝野が一人湖畔で座り涙を流していると、いつの間にか彼女の背後に、雉庵が立っていた。

 振り返った枝野に、雉庵は弓と矢筒を渡した。

 なぜか枝野には、それが遠く離れた地で死んだ兄のものだとわかった。

 枝野は弓と矢筒を抱き、礼を言った。

 すると、鬼は言った。

『これから代わりに、俺が守る』

 以来雉庵は、度々枝野の前に現れるようになった。


「雉庵の本当の名前は舎雉鬼っていうらしいんだけど、やかましいからそっちの名前は知られたくないんだって。力があると、遠くで名前を呼ばれただけでもそれが聞こえちゃうからって」

 長々と話し終えた末に、枝野はそう締め括った。

 宋十郎、孔蔵、昂輝の三人は、㮈吉と枝野と共に囲炉裏を囲んでいた。

 ここは㮈吉の家であり、部屋の隅では病気がちだという㮈吉の父がこちらに背を向けて寝転んでいる。

 話を聞き終え、孔蔵が感心したように言った。

「しかし、巫女の家系じゃない枝野さんのところに鬼が出るってのは、面白いな。まあ何も縁てやつぁ、血縁ばかりとは限らねぇからなあ。そりゃ、枝野さんが次の巫女ってことか」

 すると、黙って聞いていた㮈吉が、恐る恐る口を開いた。

「あの……、ところで貴方さま方は、どうして雉庵をお探しなんでしたっけ」

 孔蔵は、背後の壁に立て掛けていた槍を目で指した。

「俺たちは、凶鬼まがおにって鬼を退治したいんだ。凶鬼を退治するのには雉庵の力を借りろと、ある人から言われてな。なあ、雉庵にはどうやったら会えるんだ」

 応えたのは、枝野である。

「ええと、五日くらい前だったかな。久々に雉庵が来て、人が訪ねてくるって言ったんだよ。そんなこと言いに来たの初めてだったから、きっと大事なことなんだろうなと思っててさ。その、ある人って誰? 凶鬼ってどんな奴?」

 顎を掻きながら、孔蔵が答えた。

「俺が一度だけ見た凶鬼は、でかくてな、金色をしてた。立派な着物姿で、顔は、本物の顔なのか面を着けてるのかよくわからなかったが、奇相ってやつだ。恐ろしい姿だったよ。ある人ってのは、その凶鬼に憑かれてる俺の知り合いなんだが」

 枝野はそれを頷きながら聞いていた。

「それ、金色の鬼ってきっと、巫女の物語に登場する南の山の鬼だよ。雉庵とその鬼は、昔は悪友だったらしいんだ。でも雉庵が巫女に惚れてしまって、巫女のために片腕を捧げて封印されたでしょ。南の山の鬼はそれに腹を立ててるらしくて、それ以来雉庵のところに来ると、嫌がらせばっかりするんだってさ」

 それを聞いて、孔蔵が呆れたような声を出した。

「何だそりゃ、友達だち相手に、つまんねえ男の嫉妬みたいだな」

 枝野は声を低くする。

「そうなんだけど、たかが嫉妬でも、鬼の嫉妬だからね。だってうちの兄貴を死なせたのはその南の山の鬼だって、雉庵が言ってたもん。

 南の山の鬼は人間を食べるけど、特に人間に殺させた人間を食べるのが好きなんだって。だから人の憎しみや欲を煽って、喧嘩や戦をするようにそそのかすって。雉庵はあいつを止めようとしたけど、片腕しかない今はもうあいつに勝てないんだって」

 話すうちに感情が蘇ったのか、枝野の声色が、段々と強くなった。

「あいつはうちのことが嫌いだから、うちが苦しむように親父と兄貴を殺したんだって。本当に嫉妬なんかだとしたら、ふざけんじゃないよ。あいつこそ、封印されるべきだよ」

 そう言い終えると枝野は、唇を噛んだ。

 宋十郎は黙って話を聞いていたが、沈黙の合間に口を開いた。

「では、凶鬼はそなたにとって、仇のようなものか」

 枝野は気を落ちつけようとするように息を吸い、答えた。

「うん。……あんたは、どうして凶鬼を退治したいの?」

「凶鬼に憑かれているのは、私の兄だ。なぜ憑いたのかは私にはわからないが、元を断てば兄と鬼との繋がりも断てるのではと考えている」

 茶色の瞳を、枝野は瞬きさせた。

「兄ちゃんも、あんたみたいなもんなの?」

 一瞬、枝野が何を言っているのか宋十郎にはわからなかった。しかし、すぐに思い至る。巫女の素質を持つ枝野には、宋十郎の正体が見えているのかもしれない。

 反射的に、孔蔵と昂輝を見た。しかし二人とも何ということのない顔をしている。宋十郎は小さく咳払いをすると、枝野の方を向いて答えた。

「兄は、私とは違う。呪いを受けているために鬼になりかけているが、人間だ。兄にはいくつも悪いものが憑いており、凶鬼はその一つだ」

 なるほどと、枝野は頷いた。

「あんたが何かよくわからないけど、あんたの色、水神に似てる。もしかしたらあんた、兄ちゃん以外に、鬼を見たことないんじゃない。ほとんどの鬼は、あんたに近付けなさそうだもん。あの、これ、うちの勝手な想像なんだけど、あんたももしかしたら、凶鬼に嫌われてるのかも。あいつはあんたを苦しめたくて、あんたの兄ちゃんに憑いてるのかもしれないよ。うちに嫌がらせしたみたいに」

 宋十郎は眉を寄せた。

「凶鬼は、私に近付けないと私を嫌うのか」

「きっとそうだと思うよ。あんたに近付けないし勝てないから、悔しいんだよ。だから代わりに兄ちゃんに近付いて、意地悪してるんだと思う」

 すると、孔蔵が声を発した。

「なあ、宋どのが鬼に近付けないとすると、凶鬼だけじゃなく雉庵にも近付けねえってことか?」

 枝野は頷いた。

「うん、そんな気がするよ。あんたらを雉庵のところへ連れていこうと思ってたけど、あんた……宋さんは無理だろうって考えてたところ」

 やはり、十馬が孔蔵に言ったことも篭が想像したことも、正しかったということだろう。

 宋十郎が鬼退治に加わるどころか見守ることもできないとなると、全て孔蔵に任せるしかない。

 彼が坊主を見遣ると、当の孔蔵は気にした様子もなく、枝野に向かって言った。

「おお、枝野さん、俺らを案内してくれるんですか!」

「もちろんだよ。うちも、凶鬼をやっつけたいもん。きっと今日みたいな日が来るかもって、ずっと思ってたんだ」

 熱っぽく言葉を吐いた枝野の隣で、㮈吉が不安そうな顔をしている。

「大丈夫、うち、おばさんの仇も取るからな」

 そう枝野が言ったということは、凶鬼が害したのは枝野の家族だけではないのだろう。

 枝野は㮈吉の手を取り、励ますように握った。







 その晩、宋十郎、孔蔵、昂輝の三人は、一度㮈吉だいきちの家を出て、扇沢うのさわに一軒しかない宿で部屋を借りた。

 翌朝、枝野しのが孔蔵を迎えに来ることになっている。

 連日の遠駆けに草臥れ果てている様子の昂輝は、薄い布団を敷くと、早々にその上に横になった。

「すまんが、今日は先に休ませてもらうぞ。誰も期待などしとらんだろうが、私には鬼退治は無理だ。軍議などするなら、気にせずやってくれ」

 それに孔蔵が応えた。

「凶鬼退治は俺の仕事ですから、心配ご無用ですよ。また走れるよう、よく休んどいてください」

 礼を呟きながら布団に潜り込む昂輝を横目に見つつ、宋十郎は孔蔵に向かって言った。

「孔蔵どの、明日は何が起こるかわからないが……」

 一人で大丈夫か。覚悟はできているか。言いかけた途端、どれも今更頓珍漢とんちんかんな言葉であるように思え、宋十郎の問いは尻すぼみになった。

「大丈夫ですよ。枝野さんが一緒ですし、舎……雉庵ちあんて鬼も味方になってくれそうですし。もし凶鬼まがおにとやりあうことになっても、あいつもありますし」

 孔蔵は、壁際に寝かせていた槍を指した。

 黒く錆びてもなお美しい蛾叉がしゃを、宋十郎は見つめた。しかし視る目を持たない彼には、いくら美しかろうと鉄の棒にしか見えない。

「これが、どんな力を持つのだろうか」

「こいつが錆丸さびまるを……ばかでかい怨霊を封じてたんですよ。こいつで凶鬼を刺すのか何なのかわかりませんけど、まあ、雉庵に訊くか、何とかなりますよ」

 それを聞いて、宋十郎は密かに溜息を吐いた。

 以前にも似たことがあった。孔蔵の言葉は根拠はなくとも、不思議な説得力があり、聞く者を安心させる。

 それでも念を押すように、宋十郎は言った。

「明日の朝、貴殿と枝野どのが山へ出て、日暮れ前になっても戻らぬようなら追ってゆく。凶鬼や雉庵が出ているところへ私が入ってゆくとどうなるのかわからないが」

「わかりました。あんたを心配させないように、できるだけ早く戻りますよ」

 孔蔵はそう言うと、彼を励ますように胸を叩いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る