第57話 黒い鬼を眠らせたのは
やはり
しかし茂十が十馬に会うのは至難だった。茂十は
そうして手をこまねいているうちに、守十が死んだ。
守十はいつものように
籠原の家は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。実質深渓を統治していた主が消えてしまったのである。またこの時も十馬は屋敷を出ており、数日不在だった。
そしてこの混乱の
手紙には十馬の字で、自分には放蕩癖があり当主の座は荷が重く、籠原家を宋十郎へ渡したいと綴られていた。
これを見た家人たちは驚いたが、一部の者たちは納得もしたようだった。
宋十郎は三蕊から嫁入した正室の子だが、十馬は元は遊女であった側室の生まれである。十馬が当主となる以前から籠原の家内には、当主には宋十郎が相応しいと考える者たちがいた。この者たちは手紙を掴むと、宋十郎のもとへ持ってきた。
家宰が死んだこの非常時に居所もわからぬ当主は廃し、宋十郎がその座を継ぐべしとその者たちは言った。
しかし宋十郎は言った。
十馬が当主の交代を守十に相談したことは間違いなさそうだが、それでも守十はそれを受け付けずに手紙を隠していたのである。十馬を当主としたのは先代の遺志であり、それを覆すことがあるとしても、まず自分は兄と話したい。
流石に、宋十郎のこの言葉に抗弁する者はいなかった。宋十郎は大叔父に当たる
葬儀の日の朝になって、十馬が現れた。
出掛けていった時と同様馬に乗っていたが、戻って来た十馬は体中、特に左半身に包帯を巻いていた。
狩りの最中に崖から転がり落ちたのだと言う十馬は、守十の死を知らされても悲しみも驚きも見せず、葬儀を宋十郎と十士郎に任せて自分の部屋に籠ってしまった。
自分が呪いを受けていると、獣であると知った日から、宋十郎がそのことを考えぬ日はなかった。
彼には時折、強い怒りや暴力的ともいえる衝動が起こることがあり、それは何か嘘や不正を見聞きした時であることもあれば何もない時に起こることもあり、他人に向いたものであることも自分に向いていることもあった。
では、十馬の身に起きている呪いとはどんなものだろうか。
宋十郎は、幼い頃の十馬が明朗な少年であったことを憶えている。宋十郎が大人の目を気にする神経質さを持っていたのに対して兄は自由奔放で、宋十郎にとっては何より恐ろしかった母の言い付けですら時々破った。悪戯をすることもあったが、相手と内容を選んだごくかわいらしいものだった。
兄は素直で優しい少年であり、宋十郎は家の中の誰よりも、兄のことが好きだった。
今の兄は本当の意味で微笑むことすらなくなってしまった。兄を変えてしまったものは何だろうか。家督も放棄し家の者たちを避ける兄は、何を守ろうとしているのだろうか。
守十の葬儀を終えた夜、宋十郎は再び兄の部屋を訪ねた。
傷を負ったと言いながらその手当ても自分ですると言い張った十馬は、朝から一人で自室に籠っている。
彼は戸の前に立つと、声をあげた。
「兄上、話があります。入ってよろしいですか」
間もなく返事があった。
「駄目。そこで話しな」
もちろんこのくらいでは、宋十郎は引き下がらない。
「今朝は、後でと仰られたではありませんか」
「今は話せるよ。でも部屋には入るな」
「重要な話です。
「もし盲目だったら、戸の有る無しなんて気にしないだろ。話しなよ」
兄は何としても姿を現さない気である。宋十郎は諦め、話し始めた。
「明日、伯父上、茂十どのを訪ねます。共に来てはいただけませんか。そのお怪我では、難しいですか」
「
「そうです」
「お前自身が行くことでもないんじゃない?」
「……私はそうは考えませんでした」
「それ、俺が行くよ。ちょうど明日、あの人のところに行こうと思ってたから。お前は家のことで忙しいだろ」
想像していなかった言葉に、彼は一度口を閉じた。
今更茂十に会いに行く気になった理由とは何だろうか。
また、まるでもう宋十郎が当主となったかのような言い様も、彼には気になった。兄は、守十の部屋にあった手紙を家の者たちが見つけたことを知っているのだろうか。
「家のことは
「だから、俺はあの人に用があるから出掛けるって」
「では、私も共に参ります」
戸の向こうの声が黙った。沈黙の間に、彼は言葉を継ぎ足していた。
「兄上、先日仰っていた、手遅れとはどういうことですか」
沈黙が長引き、やがて、声が返ってきた。
「何の話? 聞き間違いじゃないの」
宋十郎は、まるで頬を殴られたように感じた。
彼が黙っている間に、十馬が喋る。
「宋、明日俺は出掛けるけど、お前は来なくていいから。伊奈に面倒掛けるなよ」
それは会話への終止符であるように感じられた。
彼は衝動を感じた。
薄い戸を蹴破って部屋に押し入り、兄の胸倉を掴んで大声で叫びたかった。また一方では、この場で伏せて泣き喚きたかった。あるいは兄の手を取り、謝罪の言葉を呟きたかった。
恐らく彼は、何が手遅れであるのか、何が兄を変えてしまったのか、本当は、知っている。
しかしそのいずれも叶わない彼は、ただ兄の部屋の戸を見遣り拳を握ると、踵を返してその場を後にした。
結局宋十郎は、翌日の早朝に屋敷を抜け出す十馬を尾けることにした。
宋十郎は剣を握っても屁理屈をこねても兄に勝てなかったが、そこは生まれた時から同じ家に住む兄弟の強みで、十馬の行動をいくらか予測することならできた。
どうやら誰とも顔を合わせたくないらしい十馬が、夜明け前に一人で屋敷を出るであろうことは、彼には想像がついた。
もちろん十馬の背を見ながら追うわけにはいかないが、真っ直ぐに茂十のもとへ向かうならば行き先はわかっている。
彼が
僧侶によると、十馬は先ほど到着し、茂十の居所を聞くなり伯父の庵に直行していったとのことだった。
「あの全身の包帯は、どうされたのですか」
どこか怯えたような声で、僧侶は訊ねた。
「崖から落ちたのだと、兄は言っていた。しかし嘘ではないかと私は思っている」
彼が答えると、僧侶は青い顔で頷いた。
「私もそう思います」
僧侶にそう思わせたものは何か。宋十郎は馬を僧侶に託すと、悪い予感を募らせながら、茂十の庵へ急いだ。
十馬は僧侶たちに、庵には近付くなと言い置いていったとのことだったが、もちろん彼に従うつもりはない。
境内を早足に進み、草庵に近付くにつれて、宋十郎は異臭を嗅いだ。過去に何度か経験して知っていた。魔物の臭いである。
全身の毛が逆立つように感じ、心臓が駆け始めた。実際、彼は走りだした。
庵が見えた。
裏庭に飛び込み、彼はそこで、魔物の姿を見た。
庭に二つの横顔が見える。一つは茂十であり、もう一つは真っ黒な皮膚と赤い目をした鬼だった。
茂十は鬼を見つめたまま後退り、鬼は茂十に歩み寄りながら、腰にあった刀を抜いた。
このまま走っていては間に合わない。宋十郎は変化して、四つ足で駆けた。
鬼が彼を振り返ったのと、彼が鬼に跳びかかったのとは同時だった。
顧みた顔の左半面が黒い鬼であったのに対し、右半面が彼の知る十馬の顔をしていた。赤と黒の瞳が、獣の彼を見返している。
地面に突き倒された十馬が、彼の体の下で言った。
「やっと出したね」
獣の口では、人間の言葉で答えることができない。驚愕している彼を見上げたまま、半分鬼の兄は喋る。
「宋、守十を殺したのは俺だよ。昔から嫌いだったんだ。おじさんも俺を嫌いだった。これで二度と顔を見ずに済む。お互いに清々したと思うよ」
宋十郎は、目の前が点滅するのを見た。今兄は、何と言った?
一方で十馬は、まだ喋る。
「宋、俺を殺せ。守十の仇を取りたいだろ。でなきゃお前を殺すかもしれない。俺はいかれてるんだよ」
そう言われて、びくりとした彼は兄の体から跳び退いた。
十馬は苦笑すると溜息を吐き、ゆっくりと身を起こす。
立ち上がった十馬は刀を左手で逆さに握ると、茂十に向かって差し出した。
「頼むよ。俺はもう、自分じゃどうやったら消えられるのかわからないんだ。後片付けくらいならあんたにもできるだろ?」
言葉を発せない宋十郎は、思わず茂十を見た。伯父は青褪めており、小さく首を振った。
皺の多い顔に、苦痛が溢れていた。絞るような声が言った。
「すまない……」
その瞬間、十馬の目がぎらりと光った。
鬼は突然刀を握り変えると、目にも止まらぬ速さで伯父に斬りかかった。宋十郎は咄嗟に飛び出していた。刀の刃は伯父の袈裟ではなく、彼の毛皮の上に振り下ろされる。現世の刃は、獣の体を傷付けることはできなかった。
毛皮に沈んだ刃がそれを断てないと気付いた十馬は、瞬時に刃を翻し、器用に彼の目を狙うように突いた。
切っ先を額で受けたが、やはり傷にはならなかった。考えるより先に、彼は十馬の体に跳びかかっていた。
先ほどから纏わりついて離れない魔物の臭いが鼻孔を突く。その瘴気を振り払うように、彼の衝動は獣の顎を開くと、鬼の左肩に食らいついた。
叫んだ悲鳴が兄の声だったことに驚き、彼は我に返った。兄の体から退いた彼が、しかし気配を感じて振り返ると、そこに十馬の刀を振り上げた茂十があった。
茂十が振り下ろした刃が、鬼の体を斜めに裂いた。
黒い血が迸り、よろめいた体が倒れた。
茂十が唸り、もう一度振り上げた刀を、今度は鬼の胸に突き立てた。
赤と黒の瞳が見開かれる。宋十郎が傷つけた肩と茂十が裂いた胴から真っ黒な泡が溢れ出し、傷を覆い隠してゆく。
鬼の体が痙攣し、両目から意識の光が消えてゆく。
茂十はいつの間にか全身に汗をかいており、涙をこぼすかのように、顎から雫を滴らせた。
掠れて消え入りそうな声で、茂十は言った。
「宋十郎、鬼を、お前の兄と共に封じる。手伝ってくれるか」
彼は頷いた。
老人は震える手を刀から離すと、開いていた十馬の両目を静かに閉じた。
*
「そうして茂十どのは十馬を封じ、千峰寺に匿っていた。十馬は怪我から病を発したという話にして、手紙を根拠に、寝たきりの兄に代わって私が家を継いだ。茂十どのが亡くなってからも十馬の身柄はやむなく寺に預けていたが、その後目覚めて篭となっていたくだりは、以前話した通りだ」
長い話を締めくくるように、宋十郎は唇を閉じた。
宋十郎と孔蔵は、
立って水面を見つめていた孔蔵は、やがて言葉を選び終えたらしく、言った。
「十馬どのを斬ったのは、おじさんだったんですね」
何のことかと宋十郎は考え、思い至り、頷いた。
「実は、そうだった。伯父上を慕っていた篭の手前、本当のことは言えなかった。私も兄上を傷付けはしたが、伯父上が鬼を斬り、眠らせた」
「その話、……十馬どのが、あんたがあの人を斬ったって言ったんですよ」
宋十郎は、孔蔵を顧みた。坊主は付け足す。
「自分で自分を嘘吐きだとも言ってましたけど」
海面を睨んでいるような坊主の顔を見、宋十郎は、同じように海へ目を遣った。
「……そうだったのか。兄は、昔からそうだった。私が嘘を嫌いだと知っていたから、嘘を吐く時は嘘を吐くと知らせてから吐いた。貴殿に対しても、その処方を守ったのだろう」
孔蔵は難しそうに、眉を歪めた。
「でも、なんでそんな嘘吐いたんですかね」
「恐らく、貴殿を私から遠ざけようとしたのではないか。兄は、私が兄の呪いに関わることを避けようとしているように思える」
「すると、あれも嘘ってことになりますかね」
「何がだ」
「あんたがいると、
そう答え、孔蔵は彼を振り返った。宋十郎は少し考え、首を振った。
「それは信じてよさそうに思える。なぜなら、篭も似たようなことを言っていた。凶鬼は私……獣のある所には現れないのかもしれない。魔物同士には相性のようなものがある」
「似たようなこと、十馬どのも言ってました」
その時舟が大きく揺れ、ざぶんと水飛沫が上がった。彼らは吹き付ける海水に目を細める。
坊主は鼻から長い溜息を吐きながら、大きな手の平で顔を拭った。
その横顔を眺めつつ、宋十郎は問うた。
「……貴殿は驚かないのか」
孔蔵は眉を寄せると、問い返した。
「何にですか」
「……私は、人間ではない」
ああと、坊主は頷いた。
「ちょっと前から、そんな気がしてたんで」
確かにそうだろうと、宋十郎は思う。それでも、訊かずにはいられなかった。
「いつから」
「いつからって言われると……そういや最初に見た時から、どっか妙な兄ちゃんだと思ったんですよね。変わりもんの侍なのかなとも思ってたんですけど。決定的だったのは、
「……騙していて、すまなかった」
彼がそう言うと、坊主の顔が振り返った。濡れた皮膚が、西日を返して光っている。
「騙したってほどでも、ねえでしょう。俺こそ、物分かりの悪い餓鬼みたいな態度取って、すんませんでした」
孔蔵は頭を下げる。
それに倣い、宋十郎も頭を下げた。
「……孔蔵どの、十馬の鬼を落とすために、手を貸してほしい」
「そりゃ、盟いましたから」
頭を上げると、励ますように笑っている孔蔵の顔があった。
「あんたの兄貴と篭どのを、連れ戻しに行きましょう」
そう言い、坊主は手にしていた槍の尻で、甲板を叩いた。
鉄の重い音が、体の芯に響いた。
*
夏納の舟は無事彼らを伊勢まで運び、三人は
離れた布団では孔蔵が寝ており、先日までなら篭が埋めていた場所が空白になっている。
宋十郎は、眠る孔蔵の横顔を見つめた。
昼の舟上でした話には、続きがあった。
彼と茂十は、十馬を殺すはずだった。
あの日、千峰寺で茂十は十馬を眠らせた。しかし彼らはその後十馬が眠り続けた一年の間に、十馬を救う方法を見つけることができなかった。
茂十は、眠っている十馬には恐ろしい妖魔が封じ込められており、もしそれらが目覚めることがあれば
それらの禍を避け、苦痛に苛まれている十馬を解放するには、手始めに
伯父がそれを軽々しく決断したわけではないと、宋十郎にはわかっていた。
茂十には、宋十郎には見えないものが見える。眠りを得られずに此岸と彼岸の狭間で苦しむ十馬が、茂十には見えたのであろう。
それだから宋十郎は、十馬を殺すと言った茂十に同意した。
その一方で、彼はそう言った自分を信じられなかった。
彼の目に見えているのは、兄の残骸だった。
布に覆われて横たわり、生きているのか死んでいるのか、人であるのか何なのかもわからない。
それだから彼は、
封印を解かれた十馬に何か奇跡が起き、悪夢も呪いも全て消え去って、十馬は彼の兄に戻る。そして実は、これは彼が自身に対して毎夕毎晩、夢見ていることでもあった。
明日この夜が明けたら、呪いは消え、彼は獣ではなく人になっている。一夜明けて獣に変わっていた彼は、また別の一夜を経て人に変わるのである。
起こりえないと、絶対に変えられないと知っている。断崖絶壁のような理性の裏側で、風前の灯火が幻想を囁く。
しかし彼の惨めな幻想が幻想であると証される前に、茂十が死んだ。
十馬を燃やそうと彼らが決めていた夏の日を目前にして、茂十は急な病に罹り逝ってしまった。
彼は兄を殺さなかった。
そして篭がやってきたのである。
ふと、視線を感じ、宋十郎は枕の上で首と目を動かした。
暗闇の中、格子窓の向こうに見える小さな影は、樹の上の梟に見えた。
樫津のような人里に珍しいものだと思って目を凝らした時には、鳥は飛び立っていた。
*
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