第56話 双子の呪い




 秋は赤の季節だった。

 夏の終わりとともに、渓谷の景色を彼岸花が彩る。

 夏が過ぎ冬が遠目に見える頃、深渓みたにを囲む山々は赤く色付く。


 幼い宋十郎は、中庭で一人木剣を振っていた。

 先ほどまで彼の相手をしていた藤柾ふじまさは家人に呼ばれ、どこかへ行ってしまった。

 風が吹き、木の葉を運んで舞い上がらせる。

 彼が振り下ろした木剣の先を、赤い葉が踊るように過ぎていった。

 ふと、剣を振る手を止めた。

 笑い声を聞いた気がした。

 風を追うように、彼は屋敷の裏庭に歩いていった。


 柱の陰から覗くと、まりで遊んでいる兄と、それを縁側から見つめる父の姿があった。

 兄の十馬は、紅葉のように真っ赤な着物を着て、赤い紐で髪を括っていた。

 父に言われ、兄は毬を投げた。

 膝の上で弾ませ、弾ませ、高く蹴り上げる。

 おお、高いなあ――

 嬉しそうに、父が笑った。

 声が風に乗って空へ上がる。

 どんな鬼にも、届くまいよ――







 宋十郎そうじゅうろうは宵の座敷に座り、頭を抱える寺本昂輝の頭頂部を見つめている。

 人が鬼を攫った。

 夏納かのう飛梁ひばり御前ごぜん試合の間に、影貫かげぬきろうを連れ出しどこかへ消えた。

 御前試合が終わった時に、昂輝のぶてるは影貫の不在に気付いた。

 また、宋十郎との問答を終えた飛梁が篭を釈放しようとして、既に影貫が来て囚人を連れ出したという報告を受けた。

 飛梁が昂輝に問い質したところ、若殿は素直に告白した。昂輝は何の指示も出しておらず、影貫がどこへ消えたのか想像もつかない。

 結論は出ず、昂輝は遁辞とんじを打って夏納屋敷を逃げ出した。その際に若殿は、宋十郎を招いた。飛梁の前では洗いざらい打ち明けるわけにいかなかったことを話すためである。

 こうして今、宋十郎は孔蔵くぞうと共に、昂輝が逗留する旅籠の座敷部屋にいる。


 昂輝は頭を上げると、溜息交じりに言った。

「私が訊くのもおかしな話だが、陣明の行先に心当たりなどあるまいか」

 宋十郎は答えた。

「影貫どのは、主を使って夏納の大公を狙いました。まだ同じことを窺っているということはございませんか」

 それに対し、昂輝は眉を寄せ、首を捻った。

「そうならば事は単純だが、夏納氏の調べによると汝の主を連れた陣明じんめいは北西へ抜けていったようだ。我々の目を避けつつ京へ向かう道筋のようにも見える。五尾いおどの、汝は姫川岳の手前まで陣明と同行したのだろう。あ奴から何か聞きはせんかったか」

 訊ねられた宋十郎は、どう答えたものか迷った。

「私は何も……ただ影貫どのは、将軍の思惑があるとすれば、それは私が想像する通りだと言ったのみです。それは夏納の大公の暗殺だったのでしょうが、影貫どのがその任を捨てたとすれば、つまり他に将軍家が命じていることがあるとすれば、それは何でしょうか」

 すると、今まで黙って二人のやり取りを聞いていた孔蔵が、突然声を発した。

「あの人らが京に行ったかもしれねえなら、俺らも京に行きゃあいいんじゃないですか。それにそうじゃなくても、俺は一人で西へ行きますよ」

 宋十郎は孔蔵を見た。

 畳の上で胡坐をかいて肘を張った格好のまま、孔蔵は続ける。

「俺ぁ、篭どのかあんたの兄貴、この際どっちでもいいですけど、あの人に憑いた鬼を落とすためにお供してきたわけですから。鬼落とすのに本人がいなきゃなんねえのか知りませんけど、とにかく俺は言われた通り大湖おおうみの巫女ってのを探しに行きますよ。鬼を落としてやりゃあ篭どのと十馬どのは人か鳥に戻るんじゃないですか。鬼じゃなくなりゃ影貫に操られることもねえでしょう」

 長口上を吐いた坊主の口調はまるで怒っているかのようであり、おまけに坊主は昂輝の前で、篭が十馬であり、十馬が彼の兄だと言い切ってしまった。

 戸惑いを抑えつつ、宋十郎は言った。

「確かにその通りかもしれない。本人がおらずとも鬼を落とせるのなら話は早いのだが……、しかし昂輝どの、影貫どのがもし京に向かったとすれば、まことに思い当たる節はないでしょうか。西国にある寺本氏の政敵などは」

 すると昂輝が答える前に、またも孔蔵の声があがった。

「俺ぁ影貫を見ましたけど、ありゃ、人殺しの目をしてましたよ。和尚の言葉を借りりゃあ、人のなりをしてる鬼の目ですよ。そんな連中が何を企んでんのかなんて、人間の俺らにはわかりっこありませんよ。まあ宋どのは人じゃねえみてえですから、影貫の考えてることもいくらかわかるってなら話は別ですけど」

 とうとう宋十郎は閉口して、見開いた瞳を孔蔵に向けた。

 顔を白くした昂輝は、口を開きかけたが何も言わず、彼と坊主を交互に見遣る。

 孔蔵はどこか明後日の方向へ顔を反らしたまま、喋り続けた。

「もうここまで来ちまったんです。あんた、本気であんたの兄貴をどうこうしたいなら、よくわかんねえ取り繕いはやめにしましょうよ。五尾藤柾ふじまさって誰なんですか。あんたら揃いも揃って天邪鬼あまのじゃくだから、何の病も治せねえんですよ。俺だってどうしようもねえ甘ったれのなり損ない坊主ですけど、その俺が見ても我慢できねえくらい、あんたら兄弟は捻くれすぎなんですよ」

 宋十郎は、完全に言葉を失った。

 失い、沈黙を聞いた。

 昂輝は彼と坊主の間で、石のようになっている。

 何か言わなければ。

 そう思い、言葉を探した。

「……十馬は、貴殿に、何を言った」

 孔蔵は答えた。

「別に、大したことじゃありませんよ。ですけど、篭どのは賊に襲われた時、俺が殺そうとした賊を庇って俺に刺されたんですよ、自分は死なねえからって。で、十馬どの、あんたの兄貴は錆丸さびまるを倒すために俺にあの人を刺せって言ったんですよ。そうすりゃ白鬼だか黒夜叉だかが出て、代わりに錆丸をぶっ潰すだろうからって。あんたら、あんた……なんであの人が、あの人らがあんなになるまで何も言ってやらなかったんですか。ありゃ、ただの……、俺ぁ、もう少しで、……畜生」

 最後にそう呟くと、孔蔵は立ち上がって彼に背を向けた。

 坊主は大股で部屋を出てゆく。戸が閉じられる寸前に、鼻を啜る音が聞こえた。

 残された宋十郎は、取り付く島もなく呆然とするしかなかった。

 孔蔵が言わんとしていることは理解できた。

 胸の奥だろうか、傷を負っている腕以外のどこかが、また鈍く痛んでいるような気がした。

 しかし、今の彼にはその痛みをどうすべきか、孔蔵の声にどう答えるべきかわからない。

 言葉が失われた部屋の中に沈黙が戻る。

 いつの間にか石でなくなっていた昂輝が、ぽつりと言った。

「その……大湖の巫女の話なら、聞いたことがある。……だがもう巫女は十年も前に死んだと聞いた気がするが……」

 彼は、寺本の若殿を振り返った。

 昂輝は続ける。

「どうにも、悪い、予感がしておる。……陣明は奇矯な男だが、今まで、私を欺いたことはなかった。私もこのままでは御所へ戻れん。汝らが西へ行くなら、供させてはくれんか。道案内くらいになら、なると思うが。私が知っている限り、大湖の巫女の話も聞かせよう」

 若殿の青褪めた顔が、窺うように宋十郎を見た。

 嘘は感じられなかった。

 彼は迷った。

 しかし今もう孔蔵が、殆ど全部ぶちまけてしまったではないか。

「お願いいたします」

 彼はこうべを垂れた。

「私も、貴方や……私の連れに、話さねばならぬことがあります」







 父は戦場で死んだ。

 葬儀の日の晩、宋十郎は夢を見た。十歳の頃である。


 死んだはずの父の声を聞いたように思い、暗い部屋の中で目覚めた。

 もちろん父はおろか、彼の他には誰もいない。

 なぜか奇妙に胸が騒ぎ、五感が研ぎ澄まされているのがわかった。

 宋十郎は、四つの足で立ち上がった。

 視界に映った彼の前足は白い毛皮に覆われており、鋭い爪が生え揃っていた。

 彼は不器用に獣の足で戸を開くと、屋敷の外へ飛び出した。

 想像もしなかったほど彼は速く駆け、夜風を切り、月に向かって吠えた。

 今まで知らなかった自由に、彼は夢中になった。

 山へ入り、眠る鹿を驚かせて、狐を追いかけた。

 彼がじゃれついた狐が死んでしまったのを見て、自分が随分大きな獣であると気付いた。

 狐を殺してしまったことに心を痛めた彼は、狐の亡骸を口に咥えて帰った。翌朝まで一緒に過ごし、墓を作ろうと思ったのだった。

 屋敷の自分の部屋へ戻り、涙を流しながら狐の亡骸を引き寄せて、獣の彼は眠りについた。


 翌朝目覚めた宋十郎は、死んだ狐を抱いていた。

 着物が血で汚れており、彼は仰天した。恐怖するとともに混乱したが、すぐに昨夜の夢を思い出した。あれは夢ではなかったのか。

 部屋を見回すと、戸は半ば開いており、爪で掻いたような傷が残っていた。

 彼は動顛しながらも、必死で考えた。

 まず母には絶対に知られてはならないと考え、狐の亡骸をそっと布団の中へ隠した。

 汚れた着物の前を隠すように腕で押さえながら部屋を出て、彼の傅役もりやくである藤柾ふじまさを探しに行った。

 彼と同じくらい仰天した藤柾は、家宰かさいであり宋十郎の伯父である守十もりとみを呼んだ。

 守十はすぐに宋十郎を着替えさせると、藤柾に狐の亡骸と宋十郎の布団を片付けさせた。

 そして自分の書斎に宋十郎を呼び、こう言った。

「今から聞かせる話は、決して誰にも、お主の兄にも、明かしてはならぬぞ」


 籠原家には、二つの呪いがあるという。

 それはあまりにも古くからあるもので、いつから、どこからどうやって始まったのだか、もう誰も知る者はいない。

 呪いの一つは、当主が『殺す者』、すなわち獣になることだという。

 籠原家を継ぐ男子には、時折この獣になるものが現れる。獣は時に人を殺し家畜を食う。この呪いを受け継いでしまった者は、ただ努めて自分を抑えるほかにない。

 死んだ父の朝十あさとみはこの呪いに悩まされていたという。

 朝十が死んだために呪いは子の宋十郎へ移ったのだろうと、守十は言った。

 しかし宋十郎は嫡子ではない。家督を継ぐのは兄の十馬であり、前日の晩も十馬は籠原の古式に則って、父の棺と共に過ごしていた。

 一方で父朝十は宋十郎に、お前は獣であると言うことがあった。

 その意味がここへ来てようやくわかったのである。だがなぜ父は十馬でなく宋十郎が呪いを継ぐと知っていたのだろうか。そしてその上で、後継に十馬を選んだのは父である。

 籠原の呪いについてはわからないことが多いとも、守十は言った。

 籠原の者たちは呪いを忌避するあまり、呪いについて語り継ぐことをやめた。知りもせず、忘れることができれば、あるいは呪いが消えるのではと期待したのかもしれない。

 しかし呪いは癒えない傷のように残り続け、守十のようにごく限られた者が、今尚その秘密を守っている。

 籠原のもう一つの呪いについても、守十は宋十郎に伝えた。

 それは魔物を見て魔物を呼ぶというものであり、これは籠原の直系に気まぐれに現れる呪いだという。朝十と守十の兄であった茂十しげとみは、幼いうちから影を見ると言ったために、先々代の当主に西国へ流されてしまった。

 これを聞いた宋十郎は驚き戸惑った。

 以前ならば、深渓に化物があるなどと聞けば自ら剣を振るって退治すると申し出ただろう。しかし今は、彼自身がその化物である。

 呪いは、手の施しようのない病のようなものだ。しかも、人に明かすことも許されない。忌まれ憎まれ、知られれば、伯父茂十のように追放されてしまう。


 一年と少し前、その茂十が、突然深渓みたにに戻ってきた。

 京にある術者のもとで修養したという茂十は、魔物を見ぬようにするわざを身に付けていたばかりでなく、籠原の呪いについても多くのことを語った。

 まず茂十は、籠原の呪いは呪いではなく力だと言った。誤った心でもって見、行うためにそれは呪いとなってしまったが、かつてそれらは妖魔を退けるための力だったという。

 その上で茂十は、宋十郎にいくつか知恵を授けた。

 茂十曰く、籠原の獣は邪気を嗅ぎ分け、邪悪を散じ滅する力を持つ。茂十が『遠吠とおぼえ』と呼んで宋十郎に教えた術は、その力の一部である。

 しかしこれらの話を聞くのに、宋十郎は深渓の外れにある山寺まで出掛けてゆかねばならなかった。

 長年の空白ののちに帰ってきた茂十に、深渓には居てくれるなと、守十が頼んだからである。籠原の家人や領民は、領主が化物の一族であるなどと知ってはならない。

 茂十は、千峰せんぽうという山寺に滞在することになった。

 また、守十が慎重になっていたのには、もう一つ事情があった。

 この時期、籠原家は十馬の妻であった波留はるの葬儀を執り行ったばかりだったのである。

 亡くなった波留はるひめは、籠原家からすると主家に等しい三蕊みしべ家の当主、三蕊範親のりちかの三女である。四女の伊奈いなひめと共に籠原に輿入れしたが、嫁入から半年余りで死んでしまった。

 波留は自害したのである。

 自尽じじんした波留姫は遺書も遺しておらず、若い姫君がなぜ命を絶ったのかはわからなかった。

 姫にとっては家来も同然の家に嫁ぎ、深渓みたにのような寒村に押し込められることに絶望したのか、それとも他家に想いを寄せていた殿方でもあったのか。

 理由は何であれ、籠原が娘を無為に死なせたと考えた範親は激しく立腹した。両家の関係を繕うため、守十もりとみはこの時期、度々尾上橋おがみばしの三蕊家へ通っていた。

 このような状況で茂十しげとみが現れ籠原の呪いがどうだという話を始めるのは、あまりにも具合が悪かった。

 家を取り仕切っている守十が茂十の話に取り合う暇はなく、また守十から謹慎を言い渡されてるはずの十馬もその言い付けを破り、殆ど屋敷にいなかった。十馬は数年前から放埓ほうらつな振舞いが目立ったが、波留が死んだ時に最後の紐が切れてしまったかのようだった。

 しかし茂十が言うには、自害したように見える波留を殺したものこそ籠原家の呪いであり、その呪いは十馬が引き寄せたものだという。

 宋十郎は驚いた。確かに十馬は昔から少し変わった子供だったが、影や魔物が見えるなどと言ったことはなかったからである。

 茂十は、十馬がただそれを誰にも言わないだけで、魔物を見、引き寄せる力を持っていることは間違いないと言い、何とか十馬と会って話したいと宋十郎に頼んだ。

 十馬は三蕊領や遠夜領を遊び歩いているようだったが、数日おきに籠原の屋敷に戻ってくる。

 兄が自室にいる時を見計らって、宋十郎は十馬を訪ねた。


「ですから、伯父上を訪ねてほしいのです」

 戸口に立ち、宋十郎はそう言った。彼を見つめ返した十馬の顔は、いつものように空虚な微笑をのせている。

「俺が呪われてるからって?」

 兄の放るような言い様に、宋十郎は小さく眉を寄せた。しかし、彼は答えた。

「そうです。放っておけば、……他に傷つく者が出るかもしれません」

 すると、十馬はわらった。

 宋十郎は更に眉を寄せた。

「何が」

 可笑しいのですか。そう続けようとして、十馬に被せられた。

「宋、波留はもういないんだよ? 少しは悲しんでやれないの? まあこれはお前じゃなく、守十おじさんに言うことかな」

 弟が言葉を継ぐ前に、十馬は続ける。

「で、その、茂十おじうえだっけ? が俺に来いって言ってるって? 嫌だね。もう手遅れだってあの人に言っといてよ。それでも俺に会うってなら、守十おじさんが何て喚こうがてめえが訪ねて来いってね」

 思わず言葉を失い、宋十郎は十馬を見つめた。兄の口の悪さに唖然としたのではない。手遅れとは、どういうことだろうか。

「兄上、何かご存じな」

「宋」

 またも、宋十郎の言葉に十馬が被せる。

「お前が知ることじゃないよ。これ以上喋るなら出てけ。まだこの部屋にいたいなら、黙ってそこに突っ立ってな」

 彼は、兄を睨んだ。

 十馬は微笑み、首を傾げる。彼は知っている。こうなると、兄は彼の言葉では動かない。

 拳を握り締め、しかし宋十郎は踵を返して兄の部屋を離れた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る