転落

第55話 影喰うものと追う化物




 昼下がり、林沿いの街道である。

 ろうは馬で駆けていた。彼を先導しているのは影貫かげぬきである。

 いつかのように、篭はまた襤褸ぼろを纏い包帯を巻いている。影貫も着物を替え、今は侍より浪人に見える。

 その影貫がちらりと振り返り、言った。

「尾けられとるて知ってはる?」

 馬蹄の音で聞き辛かったが、篭は首を振った。

「誰に?」

「追いつかれてしもたわ。面倒やけど、この際だから相手したります?」

 影貫は、彼の質問に答えていない。

「ねえ、誰が来たって?」

 彼が繰り返した時、前方の街道沿いに並ぶ木々の間から、人影が飛び出した。

 現れたのは、遠夜えんや忍の雨巳あまみである。

 娘は、両手を宙に舞わせたあと、恐ろしい形相で彼らを睨み据え――唸りながら両手で地面を叩いた。

「おるあああああっ」

 篭の目には、雨巳の両手から稲妻のように影が走り、両側の林へ突き行ったのが見えた。

 次の瞬間、木々の間から二十近い鎧武者が駆け出てきた。雨巳自身は短刀を構える。

 影貫が舌打ちした。

「ほんまかいな。昨夜と今朝と、あんさんがのんびり飯食うとったからどすえ」

 篭は眉を上げた。昨夜も今朝も、好きに食えと言ったのは影貫である。

 そんな場合でもないのに、彼は昨夜の出来事を思い起こした。







 賑やかな酒家である。

 大きな店内に五十人近い客が詰まっており、土間の端には誰に聞かせているのか、琵琶を弾く盲者までいる。

 その音色を掻き消すようなざわめきの中、篭は夕飯を食っていた。

 彼の左腕と首、左顔面は包帯で覆われているが、店の中には彼と似たような風体の怪我人もいるため、そう目立つわけではない。それらは大体、戦場帰りの浮浪者らしい。

 篭の向かいでは影貫が頬杖を突き、飯を掻き込む篭を退屈そうに眺めている。

 食卓の上にはざっと見て四、五人前の食事が並べられていた。影貫の前の食器は、既に空になっている。

「あんさん、よう食うなあ」

 見ているだけの状況に飽きたのでやむなくといった様子で、影貫が言った。

 口を動かしながら篭は答えた。

宋十郎そうじゅうろう孔蔵くぞうにもう会えないって思ったら悲しくなって、悲しいと思ったら腹が減ったんだよ」

 影貫は無感動に返す。

「それ、やけ食いっていいますんよ。まあそれにあんさんの場合、それだけでもないんやろけど……あんさん、自分が影を食う魔物やて気付いてはる?」

 焼いた団子に齧り付きながら、篭は首を振った。影貫は続ける。

「でかいのもちいこいのも集まってくるんよ、影がな。それどうやらあんさんが見境なく引き寄せとるからで、しかも手頃なやつは呑み込んでしもうとるんよ。気付いてへんかった?」

 篭は少し考え、答えた。

「おれの影が、何かちっちゃい影を吸い取っちゃうのは、見たことあるよ」

「ああそれ、それや。なんや、気付いてはるんやないの」

「それが、やけ食い?」

「ちゃう、ちゃいます。それは影喰い。で、あんさんが阿呆みたいに腹減るんは、影を食い足りんから感じる物足りなさみたいなもんやな。でも影喰いは底無しやから、どんだけ食ってもまたすぐ腹減るんよ。そやから、そんな飯食うてもきりあらへんのやけどなあ。やけ食い、してもええけど金と飯が勿体ないかもしれへんえ」

 つまり、食えば食うだけ無駄遣いということだろうか。

 思わず箸を止めた篭は、手元の食器を見下ろした。

 黙り込んだ彼を見て影貫が言う。

「まあ、今は好きなだけ食うとき。もう頼んでしもたんやし。あと二、三日で京に着くさかい、これが最後の宴と思て」

 最後とはどういうことだろうか。影を食う彼はもう二度と飯を食わせてもらえないのか。それとも彼はいよいよ鬼になるのか。

 再び彼の表情を読み取ったらしい影貫が、能面顔のまま付け足した。

「京に着いたらひと働きしてもらいますやろ。で、その後何とかて寺行くなら、のんびり飯食うとる暇あらしまへんえ」

 それを聞いて納得する。

 篭は今、影貫と交換条件付きの協力関係にあったのだった。

 影貫は、篭が京の術者を探す手伝いをする。その代わりに篭は、京の町にいるという影貫の標的を暗殺する手伝いをする。

 それは彼がしたのか十馬とおまがしたのかわからない約束だが、影貫にしてみれば同じことだろう。しかし早速、篭はその約束を反故ほごにしたいと感じている。

「……将軍さまを、やっつけるんだっけ」

 箸を噛みながら、篭は訊ねた。

 影貫は一度篭を使って夏納かのう飛梁ひばりを狙ったが、それは京にある将軍家の命令だったらしい。しかし今の影貫はもう飛梁を狙う気はなく、その命令を下した将軍家を滅ぼしたいのだという。だから影貫は篭だけを連れ、仲間のように見えていた寺本てらもと昂輝のぶてるを置き去りにした。

 その理由を篭は聞いていない。聞いても理解できないのではと思うと同時に、知りたいかどうかもわからなかった。

 そこでなぜか影貫は、にこりと笑った。

「そうそう。もひとつ言うとな、将軍さまとその周りにおるおとぼけさんたちな。ぎょうさんいらはるから、あんさんがお一人お一人の名前憶えることあらへんで」

 篭はますます箸を噛んだ。

「全部で、何人?」

「数も憶えることあらへんよ。都度で俺がそいつやて言いますさかい」

『この際、何人やっても地獄行きは一緒だね』

 十馬の声に追い打ちをかけられ、篭はとうとう頭を振った。

 影貫は眉を上げ、しかし興味もなさそうに話に戻る。

「要は、何も心配せんと言われた通りに首無し鬼出してくれはったらええんどす。ま、京までのんびりしまひょ」







 記憶を一巡し、やはり影貫が追手の話などしていなかったことを、篭は確かめた。

 追手に気付いていながら急かさなかったのは影貫なのに、今更不平を言われるのは理不尽な気もしたが、影貫は宋十郎と比べて大らかなのだろうと篭は考えた。

 一方で前方の道は大量の鎧武者に塞がれている。

 影貫がちらりと振り返った。

 つられて篭も振り返ると、後方からも二騎の馬影が近付いていた。

 一騎は篭には見覚えのない半鐘はんしょうであるが、もう一騎を見て、篭はわずかに目を細めた。

「……らい?」

 人の顔を憶えるのが苦手な彼に珍しく、篭はその容姿の主を言い当てた。しかし奇妙に、あれが來でないとも彼は思う。あの人影は、彼の知っている來とは、違う影を纏っている。

 突破を諦めたのか、影貫が駆ける馬から飛び降りた。

 同じことをできない篭は、影貫の真似をして馬上から転がり落ちた。

 彼がよろよろと立ち上がっている間に、影貫は着地して右手を上げていた。影貫の視線の先にあるのは、鎧武者の間にある雨巳である。

 影貫が、影を縫う。

 しかし同時に、怒りの形相の雨巳は大きく身を捻ると、どうやらそれをかわした。

 影にも色々あるが、雨巳の影は孔蔵のそれに似ており、雨巳の現身うつしみに沿って動く。雨巳はそれを知っており、影縫いを避けたのだろうか。

 また篭には、影貫が影を縫う糸のようなものは見ることも感じることもできないが、雨巳はそうではないのだろうか。

 ひゅうと、影貫が口笛を吹いた。

「あんさん、片付けなおしてしまうの惜しいわあ」

 雨巳は応えない。影貫がお喋りしている間に馬は駆け去り、鎧武者の群れが駆け込んできた。

「首無し出せます?」

 影貫が問う。

 出そうと思って出したことはない。篭が混乱しかけたところで、十馬が喋った。

「出すよ」

 突如背筋に走る悪寒を感じ、彼は拳を握った。

 腹の中心に溜まった何かが、どくんと心臓を叩いた。

 途端、篭の足元の地面が割れ裂け、巨大な黒鬼の上半身が立ち上がった。自ずと篭はその方の上に立つことになる。

 鎧武者の一体と影貫が切り結んだが、振り回された黒い腕を避けて跳ねた。彼らを囲もうとしていた鎧武者の何体かが、黒い腕に殴り飛ばされた。

 篭はそれを、眩暈を堪えながら黒鬼の肩の上から見た。彼がしがみついた巨大な黒い躰には、相変わらず頭がない。

 黒鬼から逃れたものの、雨巳と鎧武者の一体に同時に斬り掛かられ、影貫は防戦一方となっている。鎧武者たちは黒鬼に斬り付けるが、鬼にこたえている様子はない。

 そこに、後方からの二騎が追い付いてきた。

「十馬!」

 高らかに声をあげたのは、來の容姿をした男である。

 馬上にある男は、しかし來のような黒装束でなく紫の美しい着物を着、房飾りのついた剣を手にしていた。

充國みつくにが、やっとお前を救いに来たぞ!」

 來の容姿をした男は充國と名乗った。

 影貫が充國に目を遣り、その隙を突いた雨巳に斬り掛かられて、短刀を眼前で受ける。

 充國が剣を持った腕を上げると、その腕が袖と剣ごと、紫色に燃え上がった。

 嬉々として充國が剣を振る。紫の炎は尾を引きながら宙で弾け、黒鬼の腕へ降り注いだ。

 炎は腕に燃え移ったが、あっという間に縮んで消えた。代わりに側にあった鎧武者がその炎に触れ燃え上がり、みるみるうちに腐り落ちた。

 もう一騎が、離れた位置で馬を止めた。半鐘の肉体を借りた東鷗とうおう慈爺じじが言う。

「お館さま、冥府の炎は鬼を燃やせませぬ」

「そうであろうな」

 そう言うと充國は馬を降り、一息に跳躍した。

 來のように高く跳んだ充國は、黒鬼のくびに縋りついている篭に斬り掛かった。

 篭は驚き、咄嗟に黒鬼の肩から飛び降りる。落下中、暴れる腕にぶち当たり、街道の端まで吹っ飛んだ。

「十馬!」

 呼びながら充國はまた跳び、彼に斬り掛かる。篭は立ち上がる間もなく、破れかぶれに脇差を抜いた。

 鋼同士がぶつかったのも束の間、充國の紫色の炎はすぐに脇差を腐らせ、目を見開いている篭の腕に燃え移った。

「う、ああああああっ」

 芯までき切れるような痛みに篭は叫んだ。

 しかし彼の左腕は燃えず、腐り落ちたのは包帯と着物の袖のみである。

 彼の反応などお構いなしに充國がもう一度剣を振り、篭は無我夢中に左手でそれを掴んだ。

 きれいに切り落とされるはずの黒い手は、果たして刃を掴んだ。

「ああああっ」

 考える間もなく掌に力を籠め、彼は剣を握り潰していた。彼は握力で鋼を砕いたのではなく、彼に握られた剣が砂鉄のように腐って崩れた。

 充國が笑い、噛み締めるように呟いた。

「美しい!」

 また彼らの背後では、大地から生えていた黒鬼の腰が上がり、地を割りながら片膝を現した。

「助けてや!」

 叫んだのは影貫である。忍はいつの間にか雨巳と三体の鎧武者に囲まれている。影貫は鎧武者に一太刀浴びせるが、効いている様子はない。

 とうとう、黒鬼の両足が出た。

 もはや土に縛られなくなった黒鬼が、鎧武者の何体かを蹴飛ばし、踏み潰した。

 雨巳が唸った。

「お館さま!」

 充國が見開いたままの瞳で、笑いを描いた口で言う。

「ああ十馬、やっとお前を放してやれるというのに! それも忘れてしまったか」

 言葉を向けられた篭には意味がわからない。恐怖に駆られ、篭は叫んだ。

「来るな!」

 黒鬼の、首のない躰が充國の方を向いた。

 黒い腕の一本が振り上げられ、その先が巨大な刃へと変形する。

 それが振り下ろされる直前に、充國は跳び逃れていた。

「退くか!」

 充國の号令と同時に、まだ残っていた鎧武者たちが水のように崩れた。

 蛇たちが一斉に林へ這い去るのと共に、雨巳が何かを爆発させた。煙幕である。

 篭は呆然とそれを見送り、その傍らで黒鬼が消える。

 馬蹄が駆ける音が遠ざかる。

 煙に咽せながら、影貫が歩み寄ってきた。

「こんなんかんでも、追いかけへんのにな、げっほ」

 影貫は刀を鞘に納めつつ、彼を見下ろした。

「道理で、あんさんの知り合いどしたなあ。どちらさん?」

 土の上に座り込んだ篭は、石のように黒い自らの手を見下ろし、呟いた。

「……多分、有秦ありはたの……遠夜えんや充國」




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