第54話 魔物に問うて




 ろうが連れてゆかれたのは、紬矢つぐや城内の牢だった。

 夏納かのうの侍は彼を格子の中に入れて鍵をかけると、すぐ戻ると言い置き去っていった。

 そこに現れたのが、影貫かげぬきである。

「な、言うた通りやろ」

 格子の向こうから篭を見下ろし、忍は言った。

 篭の意識は戻っている。まだ鈍い思考の中に、何のことかと疑問符が浮かぶ。

 間を空けて、彼は思い出した。篭は影を縫われ、望みも意思もなく、夏納の領主に斬りかかった。そうできると姫川岳で言っていた通りに、影貫は篭を操ったのだ。

 絶望を感じた。自分の体を抑えることができなかったことにもだが、彼の意思に反するとわかっていて、彼を、他人を使って殺しを行おうとする人間がいるということに、今更のように失望を感じた。

 影貫を見つめる篭の目を見て、忍は笑う。

「それ、その目ぇな。あのな、もっぺん言うけど、好きでしとるんちゃうよ。俺はそこまで度の入った病人と違いますえ。そやから、あんさんには無理矢理でのうて、目ぇ覚ましたまんまお手々貸してほしいんよ。ほしたら畿内のどこでも送って差し上げますえ。人か何か探してはるなら、そのお手伝いもな。あんさんのお供二人も俺見たけど、あん人らあんさんのこと何もご存じあらへんやろ。優しそうなお人らやけど、あの人らとおっても手ぇ焼かせるばっかりで何も上手くいかへんと思いますえ」

 影貫が喋っている間も、篭は忍の顔を見つめ続けていた。表情のない顔からは、感情の温度を感じ取れない。影貫は、篭の何を知っているというのだろうか。

 彼は問うた。

「あんたは、どうしてそんなことするの」

 忍は顔を変えぬまま、首を少し傾げた。

「それ、あんさん、俺がほんとは何しよかって、ご存じやから訊いてはります?」

 篭は答えなかった。忍びはもう一度問うた。

「つまるとこ、理由によっちゃ手伝うてくれるて、そう言うてはります?」

 それは違う。篭は首を振り、忍は笑っている。

「そら、傲慢どすなあ」

 心なしか、その声は奇妙に浮かれて聞こえた。傲慢とは、どういうことだろうか。

 それでももう一度首を振り、篭は喋った。

「あんたは、どうしてそこまでして、その誰かを殺すの。だって、本当はそんなことしたくないって、あんた言ったよね」

 影貫は少し考えるような素振りを見せてから、またよくわからない言葉を吐いた。

「じゃあ、ほんとは殺したいから殺すんやて言うたら、手ぇ貸してくらはりますの?」

 忍びの細められた両目の奥から、黒い瞳が深い穴のような色を見せている。

 それは鬼の棲む場所だということだけが、彼にはわかった。

 彼の胸の奥か腹の底で何かが膨れ、爛れてゆく。

 彼は喋っていた。

「わかった、手伝ってあげるよ。いいよ、変な言い訳しなくても。あんたもおれのこと、助けてくれるんでしょ」

 違う。彼の口を使って言ったのは、十馬だ。

 いや、彼だろうか。

「で、まずはここから出してくれるんだよね?」

 訊ねられた影貫は細めた目で彼を見返し、ふわりと笑った。

「俺、ずっとそう言うとったつもりどすえ」

 爛れた何かが、崩れ、彼の中でこぼれ落ちてゆく。

 さよならと、誰かの声が呟く。

 腐れてゆく心臓に届く痛みは、ぼやけて鈍かった。







 宋十郎は声を聞いたような気がした。

 もちろん気のせいだろう。ここには彼しかいない。

 彼は夏納屋敷の一室で、訪れるであろう尋問者を待っていた。

 右腕は既に手当てされて肩から吊られ、血に汚れた着物は替えられている。牢か何かに投げ込まれると思っていたところ、意外な処理に、正直彼は戸惑っている。篭がどこに連れていかれたのか心配ではあるが、今は待つしかない。

 ところで、夏納飛梁ひばりの財が豊かであるのは明らかである。この屋敷の造りや調度には、突き詰められた機能美の上に、領主独特の趣向と感性を体現する美意識が見える。宋十郎が今いる座敷部屋も、床の間の柱は黒くうねる松であり、飾り棚には不均等な形の焼き物が鎮座している。

 そして何より、高座こうざの手前に置かれている巨大な球形の置物、宋十郎がその名を知らない地球儀が、部屋の中に異様な色彩を加えている。

 球体の表面を様々に彩る柄は地図のようにも見える。そう思った宋十郎が左手を地球儀へ伸ばした時、部屋の外から複数の足音が近付いてきた。

 現れたのは、夏納飛梁と護衛らしい男だった。護衛は彌王やおうという黒い肌の男ではなく、別の巨漢である。彌王は傷を負っていたので、どこかで休んでいるのだろう。

 部屋に入ってくるなり、座りもせぬ間に飛梁が言った。

「うぬらは何故寺本から逃げておった」

 不意を突かれたものの、想定内の問いだった。宋十郎は答える。

「逃げたのは、追われたからです。主の病を魔物憑きと疑われたものかと。寺本さまは影貫を従えておいでです」

 ふむと頷きつつ、飛梁は地球儀の向こう側へ腰を下ろした。少し離れて、護衛らしき男も座る。

まことの魔物憑きではないのか」

 そう訊ねた飛梁は、真っ直ぐに宋十郎を視ていた。

 両目の持つ力の明るさに、宋十郎は思わず息を呑んだ。

「まさか。夏納かのうさまは戦で何百何千の首を刈られると存じますが、鬼や亡霊を見たことがございますか」

「ない。しかし、人の生など高々たかだか五、六十年であろう。刹那に見られるものになど限りがあろうぞ」

 彼は口を噤んだ。それを見て、飛梁ひばりは続ける。

「我らが生など、夢幻のようなものだ。この短い夢の中で、自他を欺いて何とする。述べてみよ、うぬらは何者だ。どこから来て、何を為す」

 尋問というよりは問答のように聞こえる。宋十郎は内心で戸惑った。この部屋へ来て以来、飛梁はやっと彼の名を訊ねた。

「私たちは、何者でもありません。主は有秦ありはたの小領主の子です。病に冒されておりますゆえ、医師を求めて京へ参る最中です」

「何者でもないとはつまらぬな。つまらぬ者が病など癒して何とする」

 思わず宋十郎は飛梁を見つめた。飛梁は言葉通り退屈そうに眼を細める。

「うぬらが魔物であったとして、そんなことが何になる。魔物が着物を着て剣を握ったら、魔物であることなど痩せていることや太っていることとさして変わらぬ。うぬらが魔物であるゆえに寺本がうぬらを追うとしても、儂には何の興味も起こらぬ。何者かと問うたのは、うぬらが何を為すためにここに居るのかと問うたのだ」

 どうやら飛梁は、彼らが人でなく、そのために寺本の忍に狙われたことを知っている。その上で、彼らが何者であるか、何を為すのかを問うている。

 飛梁は変わらず、真っ直ぐに彼を見ている。

 いつの間にか舌が乾いていた。

「私は」

 乾いた舌で、彼は答える。

深渓みたにの、籠原宋十郎と申す者」

 飛梁は言う。

「名など無意味だ。して、宋十郎は何を為す」

 彼は続けた。

「私は、わが故郷を守るために……兄の病を……、兄を守りたく、旅に出たのです」

「この乱世に、うぬは兄と故郷を守るのか」

「私の小志が可笑しいですか」

 彼が問うと、飛梁はいや、と言った。

「うぬの望みは恐らく、一国を取るに等しく、あるいはそれより難しいであろう」

 無言の彼の前で、飛梁は喋る。

「この地上に、変わらぬものなどない。人も移ろい国も移ろう。百年経ってもうぬの里が変わらずあり、十年経ってもまだうぬが変わらず兄を敬慕していたら、それだけでも大したものよ」

「……私は変わらない」

 籠原は変わらない。その一部である宋十郎も変わらない。それだけは確信を込めて言うことができた。飛梁の目が、初めて僅かに微笑んだように見えた。

「変わらぬのは、変わらぬという意志故か。それとも魔物である故か」

「……魔物であるが故です」

「そう言うならば、うぬは魔物であるのだろう」

 目元を柔らかくして、飛梁は微笑んだ。路傍の花を見つめるような、優しい笑いだった。

「しかし魔物よ、儂が午睡ごすいの如く儚い生を半ば以上生きて知ったことを、聞かせようか」

 宋十郎は頷いた。

「それでもやはり、現世にある限り、変わらぬものは何一つないのだ。変わらぬものは、変わりゆく世から消える。何ものもそこから逃れることはできぬはずだぞ」

 それならばと、彼は思う。

「私は故郷と共に消えるのでしょう。夜が明けて陽が昇るようなものでしょうか。ただその時まで、私は私の大切なものを守りたいのです」

「共に亡ぶためにか」

「そうかもしれません。そうでなければ、変わってゆく様を、見守っていたいのかもしれません」

 それを聞いた飛梁は、笑った。

「うぬは、愛に生きるのだな」

 彼は黙った。耳慣れない言葉を聞いた。

 彼の顔を見て、飛梁はどこか嬉しそうに言う。

「愛とは、深く強く想い、慈しむことだ。人が愛を捨てたので、魔物が拾うたのか」

 そこで、開け放しの戸の向こうから足音が近付いてきた。現れた若い侍は宋十郎の顔を睨むと、次いで主に向かって頭を下げた。

「大公さま。刺客の正体はおわかりになったのですか」

 やはりこれは尋問だったらしい。飛梁は歯切れ良く答えた。

「うむ、やはり寺本氏の企てであったわ。いよいよ本気とみえる。牢に入れた男は、騙されただけのただの病人のようだ。釈放の手続きを取れ。昂輝のぶてるどのには何も聞かせるな」

 侍は頷く。

「左様でございましたか」

「うむ。守巣もりすには腹を切る必要はないと伝えよ」

 冗談めかした口調で飛梁が言う。

「承知いたしました」

 にこりともせずに頭を下げると、侍は早々に部屋を辞した。

 その足音が遠くなるや否や、飛梁は宋十郎の顔を見、次いで彼らの問答が終わるのを待っている護衛の巨漢に訊ねた。

巴王はおう、お主、鬼や魔物を怖いと思うか」

 巴王と呼ばれた巨漢はおやと眉を動かすと、首を捻りつつ、言った。

「いやあ、見たこともないんで何とも……」

 ふふと飛梁が笑う。

「目の前のこの男は、魔物ぞ」

 きょとんとした巴王は宋十郎を見つめ、ばつが悪そうに首の裏を掻いた。

「いや、正直あまり……夜になると目玉が六つになるとかそういうことなら、いくらか不気味かもしれねえですが」

 なぜか宋十郎は内心でむっとする。

 憮然となった彼の内心など知ってか知らずか、飛梁は喋る。

「儂は天を畏怖するが、鬼や魔物を恐れるのは何故なにゆえぞ。その正体がわからぬゆえか。ならば我らは、他のものの正体を知っているのか。それとも害を為すゆえか。ならばそれ以上に恐れるべきものは無限にあろう。逆さから辿れば、結局魔物は他のもの、例えば人と変わらぬ。人は恐ろしいぞ、儂が物心ついてより闘い続けてきたものは、有象無象の人どもだ。するとどうだ、魔物とは一体何であろうな。うぬはどう思う、宋十郎?」

 微笑む飛梁の両目は、初めに彼を視た時と同じく、無邪気な子供のそれのように彼を射抜く。

 強い日差しから逃れるように、宋十郎は瞼を伏せた。




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