第62話 獣に変じ




 昂輝のぶてるを先頭にして、宋十郎そうじゅうろう孔蔵くぞうは馬を走らせていた。

 扇沢うのさわ枝野しの㮈吉だいきちに礼を言い別れたのが今朝のことで、もう京は目と鼻の先である。

 にもかかわらず、三人の士気はどうにもくすぶっている。

 なぜかといえば、行き先がはっきり定まらぬせいである。


 前日の昼、昂輝に道案内を頼むことになり、宋十郎はこれから訪ねる京の術者について話した。

静韻寺せいおんじ袈沙けしゃ和上という人物です。私たちの伯父が長く師事した術者だと聞いています」

「せい……何と言った?」

「静韻寺です。京にあると、伯父が言っていたのですが」

「せいおんじ、か?」

 二度も訊ね返され、宋十郎は嫌な感じを覚えた。案の定、昂輝もまずい顔をしている。

 彼は訊ねた。

「……ご存じありませんか」

 昂輝は腕を組み、むむと唸った。

「いや……、京にある寺院なら私は一つ残らず訪れたことがある。何せ、私の仕事は寺社の台帳を作ることだったのだ。惨めな話だが部下も少ないのでな、京にある仏閣には残らず自ら足を運んだ。少なくとも聞き覚えくらいはあるはずだ。み方が違うのか。せいおんじというのは、どう書くのだ」

 茂十しげとみの手紙は、太畠うずはたで賊に襲われた時に他の荷とともに失っていたが、宋十郎は記憶している字を昂輝に伝えた。それでもまだ、若殿は首を振った。

「やはり、そんな寺は京にはないぞ。もしや京ではなく、堂和とうわきょうの間違いではないのか」

 堂和京というのは今の京の前に都が置かれていた地域の呼び名である。宋十郎は首を捻った。

「もしそうならば、伯父上もそう言ったはずですが……」

「でなければ……もしや、もしやだが、その静韻寺というのは、外法の寺院ではあるまいか」

 思わず、宋十郎は若殿を見た。昂輝は続ける。

「言うてなんだが、汝の兄は相当な化物だ。あれを扱えるような術者ならば、都でもいくらかは名が売れていなければおかしいだろう。だが今日び、都でそんな術者の話なぞ聞いたことはない。だとするとその袈沙和上とやらはもぐりの術者ではないか」

 宋十郎は、自分の気がいくらか沈むのを感じた。そうなると袈沙和上を探し出すのは、手間のかかる仕事になりそうである。

 しかし昂輝が、励ますように付け足した。

「だが、当てが全くないわけではない」

「手掛かりがあるのですか」

 昂輝は頷いた。

「私の職門ではないが、御所には外法の寺院などを含め、仕分けが難しいものの所在を集めた台帳もあったはずだ。そこで見つかるとは限らんが、当たってみる価値はあろう」

 こうして彼らは京の、それも御所に立ち寄ることになったのである。

 彼自身は実際に御所に立ち入るわけではないだろうが、宋十郎にはどうも気が重い。今までその土地の権力者に関わると必ずと言っていいほど厄介事が起きたが、今回はそれを免れるだろうか。

 悪い予感を感じながらも馬を進めるうち、彼らは峠道に差し掛かった。

 細い山道を縦一列に並び、ゆっくりと馬を進める。

 乗馬に慣れない孔蔵は馬を降り、手綱を引いて歩いた。

 やがて道がより悪く細くなったところで、馬の歩みが遅くなった。これは降りて歩いた方がよさそうだと思い、宋十郎は一度馬を止めた。

 その時、食らいつくような殺意を感じた。

「賊だ!」

 宋十郎が声をあげたのと同時に、空を裂く音が走った。

 いくらか先を進んでいた昂輝の馬の首を、飛矢がかすめた。

 驚いた昂輝の馬が、歩くのがやっとである細い土道の上で後足立ちになった。当然、足を踏み外す。

 昂輝を乗せた馬が土手を転がり落ちてゆく。

「昂輝どの!」

 自分の馬の手綱を放り、孔蔵が土手を滑り降りてゆく。下馬した宋十郎は刀を抜こうとし、激痛に奥歯を噛んだ。夏納屋敷で負った傷は癒えていない。

 腕が震えるばかりで、剣を鞘から抜くことすらできない。

 その隙に木々の間から、武器を手にした盗賊どもが現れた。数にして八人である。

 樫津たてづからここまでも峠を越えたが、賊に襲われなかった今までが幸運だったのだと宋十郎は思う。とうとう運が尽きたのだろうか。

 このままでは三人とも殺される。

 人として、侍として死ぬことは構わない。化物になるよりましだと、彼はいつでも思ってきた。しかし彼は、死ぬ前に兄と籠原を守りたい。

 変化するか。するしかない。

 彼は、白い獣に変じた。

 目の前で起きた怪異に、盗賊の三人ほどが目を剥いて硬直した。

 彼はその一人に跳びかかり、易々とその喉笛を食い千切った。

 ぎゃああと悲鳴を上げたのはその背後にいた賊である。彼は騒々しい男に跳びかかると、そのくびも噛んで騒音を止めた。

 狩る側から狩られる側になった賊どもが逃げ散る。

 追いついたものから順に、彼は賊に跳びかかった。

 この感覚は怒りにも興奮にも似ている。嵐が身の内で暴れ狂い、それに翻弄されるままに彼は獲物を追う。背を見せて逃げる獲物を追い、追いついては背を引き裂いてくびを噛み切った。

 七人も殺した時には、彼はもう意識まで獣そのものだった。随分離れた場所まで駆けてきていたが、なぜそこまで獲物を追ってきたのかも憶えていない。

 最後の賊は足が速く、巨岩が続く足場の悪い坂を猿のように駆け上り、彼は夢中でその後を追った。

 巨岩の周囲は切り立った崖になっており、猿のような賊はその巨岩に上がると岩の向こうに身を隠そうとした。

 岩の向こうへ入られると、四つ足の彼には追うことができない。今にも隠れようとしている獲物を取り逃がすまいと、彼は全身で地を蹴って獲物に跳びついた。

 彼は獲物に追いついた。しかし、突進してきた獣を受け止めきれなかった賊とともに、崖から転落した。

 宙を落下しながら、彼は獲物の首に食らいついた。

 これで全て片付けた。

 やっと意識に平安を感じた彼の体は地面に叩きつけられ、彼の視界は暗転した。







「大丈夫ですか」

 孔蔵は落ち葉の中でもがく昂輝の手を取ると、立ち上がるのを手伝った。

「うむ、むぐ、だ、大丈夫だ」

 くぐもった声で若殿が言う。

 今しがた、馬が立ち上がったところだった。昂輝の足は馬の下敷きになっていたが、地面が柔らかい腐葉土だったおかげで、潰されずに済んだ。孔蔵も、脛まで落ち葉の池に浸かっている。

「足も首も大丈夫ですか。痛みは」

 孔蔵が訊ねると、落ち葉まみれになっている昂輝は首を振り、逃げずにいる馬の手綱を掴んだ。

「大丈夫だ。馬ごと倒れて転がった時は死んだと思ったが、地面が柔かったおかげで一命を取り留めた。それより、賊はどこへ行った。宋十郎どのは」

 問われて、孔蔵は先ほど賊の悲鳴を聞いて振り返った時の光景を思い出した。

 熊のような大きさの白い犬が賊に跳びかかり、その頸に噛みついていた。

「宋どのは……、例の、獣になって、賊を追い散らしてくれたようです。でも、どこ行ったんだか」

「そうか。いや、助かった。いやはや、何たることだ。変化するというのも本当だったのだな。うむ、参ったな、実は先日から時々眩暈がしておるのだ。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、宋十郎どのを探そう」

 動揺を払うように頭を振ると、若殿は手綱を握ったまま歩き始めた。

「あっちの方が坂が緩やかです。昂輝どの、あっちから上りましょう」

 孔蔵はよろめく若殿の背を支えつつ、落ち葉の中を進んだ。







 孔蔵と昂輝は山の中を歩き、宋十郎を探した。

 逃げた二頭の馬を捕まえることはできたが、白い獣も侍姿の若者も、見つけることができなかった。

 あまりうろついていてもまた盗賊が出るという心配もある。二人は一度諦めると、山を下って麓の町へ入った。

 時刻はまだ正午前であり、彼らは馬を繋ぐと、手頃な茶屋へ入った。

「宋十郎どのは、煙の如くだな」

 重い溜息を吐いた昂輝に向かって、孔蔵は言った。

「本当に、どこに行っちまったんですかね……今頃人の姿してんのかどうかも、よくわかりませんからね」

「あの御仁は兄君の病を治すため、はるか有秦ありはたからここまで来たのだろう。生きておれば、必ず追ってくるものと思うが」

 そう口にして、昂輝は吐いた言葉を後悔するように唇を噛んだ。

 しかし、孔蔵にはどうも宋十郎が賊に殺されたとは思えない。何かが起きて足止めを食ったか、どこか別の場所へ行っているのではないか。ただしそれが何なのかがわからない。

「……昂輝どの、俺たちは先に、京へ行きましょうか」

 若殿の顔が彼の方を向いた。孔蔵は続ける。

「あんたが仰る通り、宋どのが生きてりゃ必ず追ってくるでしょう。いずれにしろ宋どのも、俺たちがこんなとこで待ってても喜ばないと思うんですよ。まずは京へ行って、静韻せいおんを探しませんか」

 昂輝はうむむと唸ったが、頷いた。

「確かに、仰る通りだろうな。……私も京へ行き、陣明じんめいが先に戻っていないかを確かめたい」

「決まりですね。まずは影貫の屋敷で、次が御所ですか」

「うむ」

 彼らは頷いた。







 宋十郎は、振動を感じた。

 うっすらと開いた視界は低く、小さな河原が見えた。その景色が、少しずつ動いている。彼は何かの上に乗せられて、引きずられているようである。

 全身が砕けたように重く、力が入らない。声も発せない。

 視界の隅に、自分の白い前足が見えた。彼は獣のままである。

 もう人には戻れないのかもしれない。

 彼は自らの意思で獣に変じ、その力で人を殺した。人同士の争いに獣の力を持ち込んだのである。

 それはあってはならないことであると、それを行った時にはとうとう本当に獣になるのだと、少年だった彼に守十は教えた。獣と人では殺す目的が異なるという。彼は人の領域で、その目的のために獣の力を使った。今後人の領域にあろうと、彼は永久に獣のままだろう。

 体だけでなく頭も重い。睡魔に似たものが押し寄せる。

 抗う意味をすぐに思い出すことができず、彼は意識を手放した。




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