第52話 鳥居一夜




 土地の有力者とは関わり合いになりたくないので先を急ぐ。宋十郎はそう言っていたが、その晩、ろう紬矢つぐやにある夏納かのうの武家屋敷にいた。

 それは、妙な偶然の積み重ねだった。

 茂都もとから篭、もとい十馬とおまの話を聞いた夏納家臣の守巣もりす氏がそれを主君の耳に入れ、その場に夏納当主飛梁ひばりの妹である薛香せっか姫が居合わせた。薛香姫は篭と衣装を交換して追手を撒いたことがあり、吉浪よしなみ城で捕らわれていた宋十郎を釈放する手助けをしたこともある。

 話を聞いた薛香姫は、十馬主従を翌日の御前試合に招こうと言った。

 素性の知れぬ旅人を招くのは危険ではないかと守巣氏が言ったが、肝心の当主である飛梁がと言ったようである。

 こうして、彼らの宿を探し当てた使者が招待を告げに来て、驚いた宋十郎が断った。すると次に使者は薛香姫の手紙を携えて現れ、とうとう断り切れなくなった宋十郎は、翌日登城することを約束した。

 さらに手紙には、今晩屋敷で催される宴に参じてほしいとも書き添えられていた。断る文句が見つからなかったと思われる宋十郎は、その招待も受けた。


 篭と宋十郎、孔蔵の三人は、夕闇に沈みつつある街の中を、大社に向かって歩いていた。

 彼らの前を、薛香姫の使者が歩いている。宴は大社近くの侍屋敷で行われるらしく、そこまで案内してくれるという。

 刻限は夜になるというのに、街も社の中も賑やかである。

 参道の松明や屋台の灯籠には火が灯り、通りに柔らかい明かりを投げ掛けている。浮かれた雰囲気の人々が、その明かりの中を行き交う。

「いつまでお祭するのかな?」

 篭は自身もどこかわくわくするのを感じながら、昼にもしたような問いを繰り返した。

 孔蔵が答える。

「聞いたとこだと、本祭ほんまつりは昼のうちに終わってるらしい。今やってるのは宵祭よいまつりって呼ばれてて、まあなんつうか、昼間のお祝いの気持ちを続けながら、みんなで楽しもうってやつだな」

「ふうん」

 わかるやらわからないやら、篭は頷いた。


 やがて屋敷に着くと、彼らは中へ通された。

 仕切り襖を取り払った座敷部屋は恐ろしく広く、彼ら以外にも客と思われる人々が既に寛いでいた。

 席に案内されたところで、宋十郎が部屋の奥を見つめていることに、篭は気付いた。

 誰かがこちらへ向かって歩いて来る。その人が通り過ぎると、座っている人々が頭を下げる。

 近付いて来るのは、夜闇に溶けそうな藍色の単衣ひとえを羽織った背の高い女である。

 篭は、その女の顔に見覚えがある。

 その女が彼と目が合うと、ぱっと笑い、手を振った。

「隻眼の若君! 達者にしておったか」

 声を聞いて、篭は思い出した。

「あ、薛香だ!」

 彼は言い、近付いてくる姫君につられるように、笑った。

 薛香姫はよく通る声で言う。

「まさか、また会えるとは思わなかったぞ」

 歩み寄ってくる薛香姫の背後には、背が高く、炭のように黒い肌の男がついていた。

 男の身長は孔蔵より高いかもしれず、鼈甲べっこうのような瞳に穏やかな眼差しを宿している。

 篭は応えた。

「薛香が着物を貸してくれたから、捕まらずにここまで来れたよ」

「妾があとから返した着物も無事届いたようだな。藤柾ふじまさどの、お役目大義であった」

 姫君は冗談めかして笑い、宋十郎にも笑顔を向けた。

 宋十郎は姫君に向かって頭を下げる。

「吉浪では、誠に世話になり申した。しかし姫君、榁川むろかわ領からこの宮まで、随分早いご到着とお見受けするが」

「ああ、それはそうだ。妾は榁川どのの舟を使ったからな。うぬらはどうせ、吉浪よしなみの北を徒歩で回ってきたのだろう」

 宋十郎が頷く横で、孔蔵が姫君と護衛を見比べている。その視線に気付いたように、薛香姫が大男を手招きした。

「ああ、紹介が遅れて失礼したな。こちらは兄上の護衛で妾の友人の、彌王やおうという。海の向こう、日ノ本の外が故郷の男だ。彌王はな、故郷の言葉だけでなく、葡萄牙ポルトガルと日ノ本の言葉を話すぞ」

 楽しそうに姫君は言い、鼈甲の瞳の男は、ゆったりとした動作で腰を折って会釈した。

「隻眼の若君、お会いできて光栄です。薛香姫はちょうど今、あなたの話をしていました」

 孔蔵が目を丸くし、宋十郎の視線が、薛香姫と篭の間を行き来した。

 篭は嬉しくなり、笑った。

茂都もとだけじゃなくて、薛香もおれを呼んでくれたんだね。だから、おれはこっちに来たんだ」

 それを聞いた薛香姫の顔が、生き生きと輝いた。

「若君。もう宿を取ったのは知っているが、戻るのも面倒であろう。我が屋敷で一泊してゆかぬか? 我が屋敷はすぐそこだ。宴のあと、妾がうぬらを屋敷まで送るぞ」

 宋十郎と孔蔵が、今まで篭が見たことのない表情で篭の顔を見つめ、なぜか孔蔵が、妙な声を出した。

「えっ、いや、そりゃあ……」

 対照的に宋十郎はいつものように坦々と、薛香姫に訊ねた。

「しかし姫君。貴女の屋敷ということは、飛梁公の屋敷ではないのか。我々のように素性の知れぬともがらを、お屋敷に招いてよいものですか」

「それなら心配無用ぞ。我が屋敷に浪人が出入りすることは珍しくないし、うちには彌王以外にも腕利きの猛者が揃っておる。万に一つうぬらが不逞の輩だったとて一網打尽であろう。さて、どうする。来るのか、来ぬのか」

 わくわくと胸が弾むように感じ、篭は宋十郎を振り返った。

 宋十郎はうっすらと眉を寄せて考えた様子だったが、すぐに答えた。

「……ありがたいお申し出だが、まだ宴が始まってもいないのに、その後の話はできない」

 なぜかそれを聞いた薛香姫が、はははと声をあげて笑った。

「勿論。勿論だとも、藤柾どの」


 宴席では美酒だけでなく豪勢な食事が振舞われ、篭は久し振りに、腹いっぱいに食った。

 座敷には三十人近い客がおり、そこここで篭には理解の届かない難しい話をしていたり、愉快なことを言って笑い合ったりしていた。

 宋十郎から少し離れた席に、夏納の家臣らしい厳つい武士が座り、彼らの方を射るように睨み据えていた。そのためだろうか、宋十郎は座敷にいる間、ほとんど一言も口をきかなかった。

 一方で宋十郎の隣の孔蔵は、出された酒を珍しく断り、黙々と箸を動かしていた。しかしそのうちに、そばに座っていた彌王と話し始めた。

 孔蔵の唱える呪文はもとは海の向こうの言葉らしく、孔蔵は彌王に、天竺てんじくへ行ったことはあるかなどと訊ねていた。

 篭はひたすら一人で食べ物を口に詰め込んでいたが、一通り食事を終えたところで、視線を感じて振り返った。

 屋敷の奥の中央で、高座に座り家老の一人と話していた薛香姫が、いつの間にか彼を見て微笑んでいた。

 薛香姫は立ち上がると、人の間を縫いながら、彼のそばまで歩いてきた。

「若君、少し話したい。来てくれるか?」

 篭は頷くと、箸を置いて立ち上がった。

 薛香姫について歩き、座敷を出るところで、背中に視線を感じて振り返った。

 宋十郎が彼を見つめている。

 大丈夫だよの意味を込めて篭は手を振ると、薛香姫について部屋を出た。


 彼らは回廊を渡り、中庭だけでなく門も抜けると、大社まで歩いてきた。

 鳥居の上の夜天では、半月が透明で美しい光を放っている。

 辺りではまだ祭の名残を惜しむ人々が、提灯ちょうちんの明かりに集い、囃子はやしに合わせて歌や踊りを楽しんでいる。誰も、彼ら二人を振り返らない。

 並んで歩きながら、薛香姫は目を細めて笑い、篭の顔を見つめた。

「若君。数日の間に、うぬは、少し顔が変わったな」

 篭は、瞬きした。

 薛香姫は続ける。

「少し、悲しそうな顔になった。だが、同時に、前よりも優しい瞳になった」

 薛香姫の言わんとしていることは、篭には何となく、わかるような気がした。

 孔蔵の言う通りだ。

 昨日と今日で、同じものは何一つない。

 増してや彼は、日々違う人々に遭い、違う場所にいる。それは、彼と一緒に棲んでいる、十馬にだって同じことなのではないか。

「薛香は、変わった?」

 彼は問うた。

 残念ながら彼は、変化を見つけるのに、恐らく薛香姫ほど敏くない。

 姫君は頷いた。

「妾は、嫁に行くのだ。瑞城たまきの人質であった間から、半ば決まっていたことだ。あるいは、産まれた瞬間から、ほとんど決まっていたことだ。実は、ずっとそれが嫌で嫌で仕方がなかったが、この間、とうとう諦めがついた。……聞いてくれるか?」

 篭は、薛香姫の顔を見つめ、小さく頷いた。

 姫君は歩きながら、言葉を続ける。

「妾はな、幼き頃から、兄上になりたかったのだ。我が兄上ほど、愉快で我の強い人を、妾は知らぬ。兄上が頭脳に描いている世を子供の頃より見聞きして、誰より知っているのは妾だ。妾は馬を駆って弓を引き、いずれは兄上と共にみんや天竺まで旅したかったのだ。

 だが、それをできぬといい加減に悟った時、兄上自身からお前の使いどころはそこではないと言い渡された時、妾はいっそ死んでしまおうと思った。描いていた理想を捨てる、為したいことを為せぬ生など、死人のそれと変わりないと思うたのだ。

 だが、彌王に会って、彌王と話してな、それが変わった。彌王は、彌王の父母はおろか、父母と同じ言葉を話す人間の一人すらいない地に、たった一人だ。きっと彌王は、妾や兄上も知らない世界や人の本性を、いくつも見てきた。彌王は、今の道を半ば自ら選んだが、半ばは運命に流されてここまで来たと言った。そしてきっと、この国で死ぬとも言った。

 そう、若君、我らは今、有秦ありはたや榁川を分けて国などと呼び習わしているが、結局日ノ本の中におれば、お互いに言葉は通じるであろう? 似たようなものを食うだろう? 彌王は、全くそうでない場所から来て、もうきっと、故郷には帰れぬのだ。

 それを聞いたら、妾は自分の悲しみが、わらべ我儘わがままのように思えた。もちろん、童の我儘とて馬鹿にできるものではないが、少なくとも妾はなにがしかの方法で、兄上の手伝いをできるのだ。人と比べるなど浅ましきことと我ながら呆れるが、どうせ捨てようと一度でも思った命なら、誰のためにでも、どうとでも使ってやろうとも思ったのだ。それが兄上の、我らが思い描く世のためなら、妾は果報者ではないか」

 姫君の頬は夜気の中で明るく輝き、瞳は水を含んで、星のように光った。

 しかし涙は零れず、篭はただ、薛香姫の発した情熱を吸い込んだように、胸の辺りが熱くなるように感じた。

 彼の体は半ば死にかけているが、まだ生き物としての温度を残している。

 薛香姫は、言った。

「うぬに、また会いたいと思っていた。そして、もし会えたら、この話を聞いてほしいと思っていた。――若君。妾を訪ねてくれて、ありがとう」

 その言葉を聞いた瞬間、篭は、熱くなった胸の中で、何かが溢れたように感じた。

 彼の方が、涙を流した。

 一粒の水が、隠していない右目から零れ、頬を駆け落ちてゆく。

 いつの間にか、彼らは月光の注ぐ参道に立っていた。

 薛香姫は、目を細めると、右手を伸ばしその指先で、篭の涙を拭った。

「若君。うぬもきっと、何かを生き抜かねばならぬのだろう。頑張れよ。初めてうぬを見た時、死相を見たように思って、今も、それを見ている。だが奇妙なことにな、うぬはもしかしたら、それを生き抜くのではないかという気もしている。妾は、うぬに生き抜いてほしいのだ。うぬが明日ここを去っても妾が嫁に行っても、ずっと祈っている。お互い、この生を最後まで、生き抜こうではないか」

 薛香姫の言葉は、篭には半分も理解できなかった。

 しかし彼には、姫君が何を願っているのかは、知ることができた。

 篭は、彼の頬に添えられている姫君の手に自らの右手を重ねた。右手はまだ、触れたものの温度を感じることができる。

 彼は言い、そして声を聞いた。

「うん、約束する」

『……ありがとう』







 座敷に戻ると、おかしな顔の孔蔵が立ちあがって、戸を閉めている彼に駆け寄ってきた。

 薛香姫は先ほど直ぐに自室へ戻ったので、篭は一人だった。

「ちょ、篭どの、大丈夫だったか」

 篭は瞬きしつつでかい坊主を見上げ、首を傾げた。

「うん」

 薛香姫には篭の左目を見られたり宋十郎の本名を知られたりしたわけではないし、彼は魔物を見たりもしていない。

 しかし孔蔵は念を押すように、しかし歯切れ悪く言った。

「ほんとか? なんかその……齧られたりとかしてねえよな?」

 篭はますます首を傾げた。薛香姫は狼でも虎でもなく人間である。

「してないよ」

 彼が言うと、孔蔵はほうと胸を撫で下ろした。変な孔蔵である。

「ならいいんだけどよ。いやぁ、夏納飛梁の妹姫怖ぇ怖ぇ」

 変な孔蔵はぶつぶつ言いながら、自分の席へ戻ってゆく。先ほどまで孔蔵の隣にいた彌王の姿は、もう見えない。

 孔蔵の後を追いつつ篭が席に戻ろうすると、遠目に彼を見ていたらしい宋十郎に気が付いた。

 しかし宋十郎は彼と目が合うと、すぐに視線を下げ、手元に持っていた陶磁器から茶を啜った。

 宋十郎もどこか変である。

 篭は思う。

 人は昨日と今日では変わっている。宋十郎も、例外ではないのだろう。




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