第51話 海辺の街にて




 空をゆく鳥になりたいと思っていた。

 殺し殺されるなら、互いの命のためだけにそうありたかった。

 見えない傷に覆われた、器ばかり人間のふりをしている化物になるのは嫌だった。

 しかし、現世でそれは叶わず、人々は互いを切り刻んでいる。

 彼は血塗れになって地を這いながら、空の嘆きに耳を澄ます。

 もう、自分が何者だったのか思い出すことができない。







 彼の中に十馬とおまが棲んでいる。いや、十馬の中に彼が棲んでいるのか。

 切穂きりほの宿で眠った夜もまた、篭は十馬の夢を見た。

 それだけなら以前と同じだが、今朝頃から彼は十馬の存在や声を、明らかに自らの内に感じるようになった。

 と言っても、以前のように意識を失ったり体がひとりでに動いたりするわけではない。あくまで体の主は彼なのだが、頭の中かどこかに十馬が棲んでおり、その十馬が時折喋ったり思ったりする。そしてそれを、彼はまるで自分の感情や考えのように感じるのである。


 一番初めに気付いたのは、朝目覚めた時だった。

 隣で眠っていたはずの宋十郎は既におらず、逆隣りで孔蔵が鼾をかいていた。

 篭はそれに対して何の感想も抱かなかったはずだが、彼の中で誰かが言った。

『あれだけ色々あったのに、寝ることだけはできちゃうんだね。単純構造羨ましい。だからあんなに健康なのかも』

 揶揄やゆするような言い回しを聞いて、篭は何となくびくりとした。

 この言い方は孔蔵に意地悪ではないだろうか。孔蔵はいつも彼を助けてくれるし、そうでなくとも、彼は誰にも意地悪など言いたくないし聞きたくもない。

 このあとも十馬は度々喋り、洗面しようとたらいの水を覗き込んだ時も、眼帯をした彼の顔を見て言った。

『ださいなあ、両目さらしとけばいいのに。宋はそうやって何でも隠そうとするから、かえって尻尾が出ただけで全部剥がれちゃうんだよね。どうして気付かないのかな』

 これを聞いた時、篭はこれ以上ないほど戸惑った。

 起きていることを宋十郎と孔蔵に相談しようかとも思ったが、もし十馬が何を言っているのかと問われたら、篭はこれらの、どことなく意地悪で不愉快な独り言を、彼らに言って聞かせなければならなくなる。自分の口からそれを発するのは、どうしてか恐ろしく躊躇ためらわれた。それに十馬の声は彼を不安にさせるが、何か実害があるわけではないように思う。

 その他にも、おかしなことはもう一つあった。

 篭の影が、以前にも増して妙な動きをするのである。

 人の姿になったと思ったらまた形を変え、暴れ出して落ち着くのにしばらくかかったり、かと思えば引き攣ったように動きを止めていることもある。また驚くべきことに、周囲を彷徨っている小さな影やその欠片に近付いた時、それを吸い取ってしまうということも何度か目にした。

 これについては宋十郎に報告したところ、青年は難しい顔をして「急いで京へ行った方がいい」と言った。

 そしてその上、孔蔵までもが何かおかしい。

 以前は歩いている間も時々のお喋りを欠かさなかった賑やかな坊主が、姫川岳ひめかわだけから戻ってからというもの、全く雑談をしなくなった。

 よほど疲れたのか十馬に意地悪を言われたのか。しかしながら篭は自分に起きている変化で手いっぱいで、坊主に訊ねることができずにいた。

 元々静かな宋十郎と静かになった孔蔵の間を、彼は黙々と西に向かって歩いた。







 三人は朝に切穂を発って歩き通し、夕刻前には紬矢つぐやという町に着いた。

 紬矢は、京の都を含めた多くの地を統べているという、夏納かのう飛梁ひばりの港町である。

 内海を臨む街には新しい建物が軒を連ね人が行き交い、活気が溢れていた。

 さらに、街道沿いに街を進んでゆくと、そこには熱田あつたの大社がある。その存在から紬矢はみやの町とも呼ばれており、港に面した通りでは、大きな赤鳥居が道行く人を迎えていた。

 通りの付近は特に賑やかであり、赤鳥居の向こうからは、笛や太鼓の音が聞こえる。

 前後の宋十郎と孔蔵の間を歩いていた篭は、囃子はやしを聞いて思わず足を止め、大社の方へ首を向けた。

 彼の後ろを歩いていた孔蔵も立ち止まる。

「篭どの、どうした」

「これ、何の音かな?」

 篭が孔蔵を振り返ると、坊主は答えた。

「祭だろ。何のかは知らねえけど、祭ってな、みんなでわいわい集まって、何かをお祝いしたりするんだよ。芝居したり歌ったりもな。見たことねえのか?」

 今まで篭は祭を見たことはなかったが、歌や音楽は好きである。祭がどんなものか、とても気になった。

 宋十郎が言った。

「今夜はこの宮の町で宿を取るつもりだった。まだ日暮れまで時間があるので、多少寄り道するくらいは問題ないと思うが……」

 大社へ参拝してみるかと宋十郎に問われ、篭は首を縦に振った。道中出会った人々の安全を、また祈念したいとも思った。それに先日起きたことを思うと、彼は自分自身の安全も祈っておくべきかもしれない。

 三人は通りを曲がり、大鳥居の下を歩いていった。


 竹林と瓦塀かわらべいに囲まれた大社の境内は広く、所々に屋台が並び、色鮮やかなのぼりや旗が立てられている。もう少し日が低くなれば、掲げられている松明や提灯に明かりが灯るのだろう。

 参道を歩きながら、篭は道端で笛を吹く人や、それに合わせて踊る人々を見た。

「みんな、楽しそうだね」

 彼が言うと、宋十郎が応えた。

「夏納氏はもともと内陸の小領主だったそうだが、この辺りを領有した折、荒廃の酷かった大社に随分寄進したと聞いた。かの領主は寺嫌いで、近畿の大寺院とは幾度か干戈かんかを交えているようだが、社での祭事には熱心と見える」

 相も変わらず宋十郎の言うことの半分は篭には意味不明であるが、彼の逆隣では孔蔵が苦い顔をした。

「夏納の殿さまが嫌いなのは寺じゃなくて似非えせ坊主でしょう。俺だってそんな連中は嫌いですよ」

 明らかに孔蔵の声音が低くなったため、なぜか篭は二人の間で慌てた。

 何か話した方が良さそうに思い、思い付いたことを口にする。

「あの、これって、何かをお祈りしたりお祝いしたりしてるんだよね?」

 答えたのは孔蔵である。

「ああ、俺はよくわかんねえけど、この時期なら農作の豊穣ほうじょう祭とかじゃねえか? よし、ちょっくら聞いてみようぜ」

 孔蔵は彼らから離れると、参道の端で張子を売っている屋台の男に近付いていった。

 理由はわからないが胸を撫で下ろしつつ、篭は夏納という名を聞いて、茂都もとという青年を思い出していた。茂都は、彼が瑞城を出てひとりぼっちでいたところを、富多ふたがわまで供してくれた若侍である。

 確か茂都は夏納に士官すると言っていたが、それは叶ったのだろうか。

 それを祈るためにも参拝しようと道の先へ目を移すと、前方から五人組の侍が歩いてくるのが見えた。

 その中の一人が、篭の顔を見て目を丸くした。

 まだ若い侍である。日焼けした顔が微笑み、青年が手を振ってやっと、その青年が件の茂都であると篭は気付いた。

「十馬さま!」

 呼び掛けられて、篭も手を振った。宋十郎がぐんと音を立てそうな勢いで、篭の方へ首を回した。

 茂都もとは連れの侍に何かしら言い置くと、仲間たちに向かって礼儀正しく会釈し、一団を抜けて篭の方へ歩み寄ってきた。

 茂都の仲間の侍たちは篭や宋十郎にちらちらと視線を投げ掛けながらも、どこぞへ向かって歩き去っていった。

「茂都、久し振り!」

 彼が笑顔で返すと、青年は白い歯を見せて笑った。

「十馬さま、まだ十日も経っておりませんでしょう。いや、供の方とは無事にお会いできたのですね、よかった」

 以前会った時より、茂都は格段に陽気な気配を纏っており、誰かの明るい顔を見たのも久し振りに思った篭は、唐突に嬉しくなった。

「うん、茂都のおかげだよ。茂都も無事に夏納かのうの町へ来れたんだね。その、士官はできたの?」

 まさか、と茂都は笑いながら首を振った。

「私とて、一昨日紬矢つぐやに着いたばかりでございますよ。ですが本当に運の良いことに、私が昨日門を叩いた守巣もりすどののお取り成しで、明日の御前試合に出していただけることになったんです。飛梁ひばり公は今日の祭のために明日まで紬矢にいらっしゃるそうで、私がその間に飛梁公のお眼鏡に適わずとも、守巣家の家臣として末席を与えてくださると、守巣どのが仰ってくださいまして」

 話の全てはわからないものの、どうやら士官先は決まりそうらしいことは理解できた篭も、大きく笑った。

「よかった。茂都は強いもんね」

「いえ、私など……」

 言いかけた茂都は、何かを思いついたように篭の顔を見返した。

「今までちょうど守巣家臣の方々に、十馬さまの話をしていたのです。貴方さまの剣技の話をいたしましたら、お方々大層興を引かれたようでして。皆腕に覚えのある武士もののふでございますからね。十馬さまは変わらず、京のお医者へ向けて旅をされているのですか」

 そこで篭が返す前に、宋十郎が割って入った。

「失礼ですが殿、このお方は貴方さまが富多ふたがわまで同道されたと仰っていた瑞城たまきの武人でございますか」

 殿とは誰だと混乱したのも束の間、いい加減にこの旅に慣れつつある篭は、宋十郎がまた演技をしているのだと理解した。

「あっ、ええと、うん。茂都だよ。あ、茂都、こっちはそ」

五尾いお藤柾ふじまさと申します」

 被せられて篭は口籠り、茂都は何らかの理由で目を白黒させた。

 宋十郎はいつの間にやら戻ってきていた孔蔵を示し、言葉を続ける。

「こちらは孔蔵どの。殿の病は篤いゆえ、お医者さまに供していただいての旅です。よって、我らに潰すような時はございませんので、これにて失礼いたします」

 そう言う宋十郎に背を押され、しかし篭は、従わなかった。

 彼は思わず、剣士の顔を見つめる。

「さっき、日暮れまでちょっと時間があるからお参りしてもいいって、そうじ……言ったのに。どうして、おれ、まだ何も失敗してないよね?」

 すると彼を見返した宋十郎が、彼が初めて見るような、どこか悲しそうな顔をしているように見えた。途端に、篭は罪悪感を覚えた。

 彼は宋十郎を困らせたいわけではない。ただ、なぜ参拝もできず、茂都と話すことも許されないのかを知りたかった。

 彼ら二人のやり取りを見て、側に立っている茂都のほうが困惑し始めた。

 若侍は場の雰囲気を繕うように明るく言った。

「お急ぎとのところ、お引き留めしてかたじけなく存じます。いえ、私自身十馬さまの剣技をまた一目見たいと考えていた折でしたので……私はしばらく、ここからほど近い守巣さまのお屋敷に厄介になっております。職無し宿無しの浪人の身ですが、もしお力になれるようなことがあれば、いつでもお訪ねください」

 そして三人に向かって礼をすると踵を返し、去っていった仲間を追うように歩いていった。

 その後姿を見送りつつ、篭は何か取り残されたような気持になった。先ほどまで陽気に膨らみかけていた気持ちが萎んでゆくように、気付けば彼は自分の爪先を見下ろしていた。

 宋十郎の声がした。

「すまない、篭。しかしもういい加減に、その土地の権力者に関わるのは避けたい。私は吉浪よしなみ城を抜けるのに夏納の姫君の手を借りたが、姫君と従者の前では藤柾の名を借りていた。お前があの瑞城の侍に十馬と名乗っていたのも私には初耳だった。大社に参拝するのは構わないが、そのあとはすぐに宿を借り、明朝には北西に向けて発つ。西へ行くには、内海を大きく回り込まねばならない」

 篭の足元では、彼の影がゆらゆらひらひらと、まるで無害を装って揺らめいている。

 無性に彼は、孤独を感じた。

 十馬の声が囁く。

『ほらね、おれに友達なんて、できるわけないもの』




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