第50話 屍鬼の術




 雨巳あまみは、日暮れ前の山の中で目覚めた。

 まず初めに自分がまだ生きていることに気付き、次にまだ両腕が肩から生えていることに気付いた。

 指を握り、腕を曲げる。頭痛の気配は燻っており、腕にはわずかな痺れがあるが、気付く範囲の故障はなさそうである。

 落ち葉の上で身を起こし、一人きりであることを確かめる。

 影貫かげぬき半鐘はんしょうも、いずこかへ去ったようである。半鐘が雨巳を起こすでも殺すでもなくこの場を離れたということは、恐らくその余裕がなかったことを示している。では、どこへ行ったのか。

 雨巳には知りようもないが、頼る先ならばある。

 彼女は両目を閉じると、森の中にある虫や鳥たちに向かって語り掛けた。

 語るといっても言語をもって話すのではなく、互いの念を感じ取るのである。幼い頃と比べると徐々に難しくなってきてはいるが、今でも雨巳はそうして、それらのものたちの声を聴くことができる。

 木々の間にある何千何万のものたちが、夜空の星の如くささめき合い、浜辺の波のように声を返してくれる。

 ふと雨巳の意識の中に、血塗れの來を抱えて去る半鐘の姿が映った。

 湖の水面から頭を出した時のように、雨巳はぶはあと一呼吸した。ささめきが引いてゆく。

 どうやら半鐘はいかれた來を寝かせることに成功したようである。だが來はあの通り、何度でも目を覚ます。來の回収が目的なら、生死もわからぬ雨巳に構っている暇はなかっただろう。

 半鐘は「主上しゅじょう御業みわざを完成させた」と言っていた。それに使うために來をどこかへ運び込むか、遠夜えんやに連れ帰ると考えるのが妥当だろう。

 雨巳は立ち上がる。体は動いた。

 まだ残る足跡を追い、駆けだした。







充國みつくにさまには、気を付けろ」

 それは韋駄天いだてんが、遠夜えんやの現当主が家を継いだ日に言ったことだった。それを聞き雨巳は初めて、新しい当主の人となりを多少なりとも思い描いた。

 それまで充國は、遠夜の家中において、あまり姿の見えない人物だった。有り体に言えば、良くも悪くも存在感が薄かったということである。

 前当主の纘國つぐくにには三人の男子があり、充國はその第三子だった。射的も書写も問題なくこなしたが、二人の兄たちより病弱であり、あとは人同士の相性だろうか、父の纘國は随分早いうちに充國を後継候補から外したようだった。

 父や兄と共に狩りや遠駆けに出ることも少なかった充國は、与えられた余暇を書庫の中で過ごしていたようである。

 遠夜は三百年ほど前に、有秦ありはたという大豪族から三蕊みしべとともに分かれ出た家である。三蕊が有秦筆頭の武家へと成り変わった一方で、遠夜は、いにしえには巫女と神官が民を統べていたという有秦の文化を、かなり歪曲した形ではあったが、断片的に引き継いでいた。

 遠夜の書庫には有秦時代からの書物が残っており、少年時代の充國はそれらの史書や呪術書を読み漁ったという。父や兄が家を宰領していた頃、充國は当たり障りなくその補佐を行う傍らで、時が許せば常に遠夜の法師たちの元へ出入りしていた。

 しかし物事は、時に思わぬ方向へ運ぶ。纘國が病に倒れ、二人の兄が戦と病で早逝したのである。充國に、与えられぬと思っていた遠夜当主の座が回ってきた。

 どのような主君ならば仕えやすいかはその者によるところもあるだろうが、韋駄天は充國を仕えがたい主君と見たのだろうと、雨巳は考えた。

 雨巳は訊ねた。

「気を付けろって、なんでよ」

 韋駄天は答えた。

「充國さまには、旗も竿もない」

 口数少ない韋駄天が分かりやすい物言いをすることはまずなかった。雨巳が育った九裡耶くりやでは誰もがそうだったので、雨巳はいつも自分の頭で考えねばならなかった。

 旗も竿もないとは何だろうか。

 一国の主となってからも、充國が呪術妖術の類を好むことは変わらず、むしろ人やものを好きに動かせるようになった分、志向はあからさまになった。

 数代前から遠夜は三蕊に反発する一方で、大国に対して日和見しつつ山間の小国を維持する態度を貫いている。充國もこの点は変わらなかったが、当主となってからは妖魔の噂や外法の法師を積極的に集め、それらのことに時間や財を惜しみなく投じた。

 充國は九裡耶の朔部にも度々現れ、雨巳は充國の前で、蛇を使った術を披露したこともあった。

 そんな矢先、深渓みたにで領主となっていた籠原十馬が、しげく遠夜に通ってくるようになった。東鷗とうおう慈爺じじが充國に仕え始めたのは、この時期のことである。

 東鷗慈爺は遥か大陸から日の本へ渡ってきた魔術師で、九裡耶望部ぼうぶ半鐘はんしょうが連れてきた。この魔術師がもてあそぶのは死者の肉体と魂である。

 韋駄天は良い顔をしなかった。半鐘がなぜそれほどしてまで主の気を引こうとするのかは、雨巳にとって充國の志向以上に謎である。

 春の頃、何のためにかは知らないが、充國の命令で東鷗慈爺は、充國の兄たちを含む死者の墓を暴かせ、土へ還ろうとしていた遺体を魔術で蘇らせて見せた。驚くべき術である。その際に、蘇生させた器に入れておく魂が必要だというので、充國は罪人を数人殺してその魂を用いた。しかし何かが上手くいかなかったようで、充國は韋駄天を呼びつけると、従順な魂を探してこいという奇妙極まりない難題を課した。

 しかして韋駄天は、充國の兄が飼っていた猟犬を殺めて用いてはどうかと進言した。その猟犬が、らいの前身である。

 充國と東鷗慈爺はこうした化物をいくつか作っていたようで、來を皮切りに成功例が増え始めた時、不要となった來を処分しようとした。そこで韋駄天が進み出て、その化物を殺さずに朔部さくぶの忍として躾けることを許されたのだった。

 來が充國に瓜二つなのは、纘國の器を用いているためである。充國の容姿は皮肉にも、充國を評価しなかった父親に生き写しだった。

 しかし充國は、その來をあっさりと捨て殺そうとした。今更になって使いどころが出来たのだと半鐘は言ったが、それがろくなものであるとは思えない。

 もう一度來を捨てさせる気はない。雨巳はそう思っている。







 夜が更けた。

 雨巳あまみは山中を走っている。

 らいを抱えていた半鐘はんしょうの痕跡はいつもより重い。

 周囲に残る足跡の具合から見て雨巳は丸一日寝ていたようだが、お荷物のある半鐘はそこまで遠くに行けないはずである。人間の目がある場所にも近付けまい。

 そう考えて跡を辿りつつ、半鐘が好みそうな廃村や山中の廃屋を覗いて回った。

 案の定、山裾の小さな空き家で、雨巳は半鐘を見つけた。

 來とやり合って負った傷だろう、左腕に布を巻いた半鐘はいつも以上に顔色が優れず、疲れ切っているように見えた。そのおかげで屋根の破れ目から覗き見ている雨巳は気付かれずに済んでいるわけだが、つくづくよく働く男だと感心する。

 今にも抜けそうな床板の上に、來が横たえられている。こちらは死人のように白い顔をして両目を閉じている。

 小さな蝋燭の灯りの中で、來の首に包帯が巻かれているのが、またそれで固定されているかのように、中指ほどの大きさの小刀の柄が來の首から生えているのが見えた。

 胸がむかつくのを感じた。

 吐き気を止めるために下へ降りていって今すぐあの刃物を抜きたい。その衝動に抗いながら、雨巳は冷静さを保とうとした。

 下りてゆくにはまだ早い。半鐘が何をする気か見極めねばならない。

 気配を殺し、半鐘の動きを見守る。

 半鐘は荷として運んでいたのかどこかから調達したのか、丁寧に畳まれた着物のひと揃えを來の横に置くと、表の井戸から水を汲んできて、水桶を手前に置いた。続いて包帯と水筒、何かの薬らしき袋が、水桶と並ぶ。

 準備は整ったらしく、半鐘は横たわった來の前で座した。

 忍はおもむろに水筒を掴み、その中身をいくらか飲み、残りを自分の頭に注いだ。

 雨巳は驚きと不吉を押し殺す。

 彼女の視線にも気付かずに、半鐘は右手首からもう一本の小刀を取り出す。

 その手が、僅かに震えていることに、雨巳は気付いた。

 もしや。そう思った雨巳の眼下で、半鐘は小刀を、自らの首に突き立てた。

 血管の浮いた太い首から血が噴き出した。

 半鐘は激しく震え始めた手で小刀を捨て、包帯を掴むと、自らの首に巻き始めた。包帯は巻かれた端から血の色に染まる。

 呆気に取られている雨巳の目の前で、半鐘がぜいぜいと息を吐き始めた。目玉が大きく見開かれ、震える両手が、掻き毟るように胸板を押さえた。

「ああああ……」

 開いた口から掠れた声が絞り出され、途切れた。

 死んだのか。雨巳は目を凝らした。

 次の瞬間、しかしながら半鐘の口元がにいと歪んだ。厳つい身体は震えるのを止め、血に汚れた指先が包帯の巻かれた首から顎、頬を撫で、また笑った。

 雨巳は息を呑んだ。あの笑い方には覚えがある。

 東鷗とうおう慈爺じじ――

 半鐘の肉体に降りたらしい魔術師は、目の前にある袋から何か薬を取り出した。

 薬を自分の口の中に捻じ込んだあと、桶を持ち上げて中の水を來の全身に注いだ。

 同時に魔術師が唱え始めたのは、雨巳の知らぬ言語である。

 しまったと思った雨巳が屋根から飛び降りたのと、魔術師が來の首から小刀を抜いたのとは、同時だった。

 小刀を抜ききった魔術師の背に、雨巳は短刀で切りつけていた。

 ぐうと唸った魔術師は、しかしながら雨巳を振り返って嗤った。

「お館さま、忍が狼藉をはたらきましたが」

 冷たいものが、雨巳の背を走った。なぜ今、充國お館さまを呼ぶのだ。

 ずぶ濡れで首から血を流している來の体が、床の上で起き上がった。

 狐目が瞬きし、雨巳たちに顔を向ける。

 目が合うなり、雨巳はこれが來でないことを悟った。

 短刀を握っていた雨巳の手から力が抜ける。

 隙を見せた雨巳を、普段の半鐘からすれば牛のような速度で、魔術師が殴り付けた。

 避け損ねた雨巳は、無様に床の上に倒れ込む。

 それを見た來の体が、おやと声をあげた。

慈爺じじよ、どうした。それは朔部さくぶの雨巳であろう。朔部でも指折りの術師だ、仲良くしてもらわねば困る」

 痛みを感じるのも忘れ、雨巳は呆然と目の前の男を見上げた。

 この男が誰だか、雨巳は知っている。ただ彼女は、起きていることを認めたくない。

 男は雨巳を見下ろし、どこか獣めいているが、不思議と整っているようにも見える顔を綻ばせた。笑顔のようなものが作られる。

「我は遠夜えんや充國みつくに、汝が主君だ。どうした、なぜ東鷗慈爺を、半鐘を刺した」

 自分の中で何かが罅割れる音を、雨巳は聞いた。これは、失望だ。

 涙は出ない。

 歯を食いしばれ。簡単だろう。

 雨巳は驚いて見せた。その場で平伏する。

「こりゃ何とお館さま、何卒ご容赦を。てっきり望部の頭領がいかれて、うちの弟分をなますにするもんかと思いやしたんで」

 充國はただ、台詞を読むように言う。

「朔部と望部の仲にも困ったものだな。まあ、構わん。半鐘とも、暫くは争うこともないだろう。何せこの世におらぬのだからな。それより雨巳、お前は良い所に居合わせた。ここは他国、我が手足が必要だ」

 それが台本ならば、こちらも続きを読むばかりである。

「無作法をお許し頂けますか。へえ、首が繋がりました。してお館さま、あたしなんぞにできるお遣いがごぜえますかね」

 ああと頷き、充國の声に愉快の色が加わった。

「籠原十馬は、今どこにある」

 何か他のことを聞かれたなら、もう一度驚いてやれたのに。

 代わりに雨巳も嗤った。

「ああ、あの餓鬼のことでごぜえやすね。お任せ下せえ」




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