毀壊
第49話 現世の水の甘きに
天が、ごうごうと
熱い。
地も、風も、全てのものが
彼の左目は虚ろな
重く叫ぶような痛みが、全身を
しかし、決して声は出ない。
叫ぼうとしても、流れるのは切れた唇から滴る血のみである。
その血もすぐに、熱に灼かれて乾いて消える。
もうどのくらいここにいるのか、彼は思い出すことができない。
途切れぬ痛みと途方のない孤独に、為す術を持たない。
流れた涙は瞬く間に干上がり、彼にさらなる乾きを残す。
痛みが止まぬことが、眠りが訪れぬことが、死が終止符を打たぬことが、こんなにも酷いとは、一体誰が知るだろうか。
これは、彼が傷付けたものへの代償だろうか。
ただ悲しみが訪れ、彼は彼が奪ったものたちと、これから奪わねばならぬものたちのことを思う。
きっとこれは、
こんな場所にいた青年を、彼は救うことができるだろうか。
しかしそれでは何のために、彼は殺したのだろうか。
彼は彼が招いた死を、無駄にしてよいものだろうか。
ふと、その時、声を聞いた気がした。
喜代の声が、唸る風と熱の中で、言った。
『とべるよ』
篭は、天を仰いだ。
彼は思い出した。
彼は飛べるのである。腕がなくとも、翼があれば、飛んでゆける。
翼のことを思い出そうと、彼は見えるものを遮り、聞こえるものを忘れようとした。
飛ぶことだけを思い出そうとするうち、徐々に彼の背が膨らみ、彼は痛みのようなものに呻いた。
翼が開いた。
『篭どの!!』
次に彼が聞いたのは、
それは、天井から降ってくる。
篭は翼を振り上げ、灼ける大地を蹴って、彼を呼ぶ声に向かって飛んだ。
宙を眺めながら落ちてゆくのは、十馬だ。
「またね」
篭は呟くと青年を見送り、さらに高く飛んだ。
*
孔蔵の目の前で、地面が弾けた。
巨大な黒い
『おおおおおおおお』
振り下ろされた刀を、黒鬼の腕は右手の甲で横へ弾いた。
その大きさと速さに孔蔵が唖然としている間に、黒鬼は左手を伸ばし髑髏の頭蓋を鷲掴みにする。
黒い手に触れられた髑髏の片頬が、ぼうと黒く燃え上がった。
再び錆丸が吠える。
震える空気に眩暈を覚えながら、ふと思い出した孔蔵は首を回した。十馬はどこだ。
見回すと、遥か上、黒鬼の頭のない
錆丸は刀を振り回し、頭蓋を掴む黒い腕の手首を断った。
黒鬼の左手は一度落ち、しかし瞬く間に断たれた手首の先が伸び、巨大な黒い刃と化した。
黒い刀が錆丸の刀と打ち合った時、孔蔵は背後に足音を聞いた。
「おやまあ」
驚きか呆れか判然としない声を振り返ると、地味だが上品な着物を着た侍風の男が近付いていた。孔蔵には初見の
「
侍風の男は、膝を突いている孔蔵の手前で立ち止まると、両手を踊らせ印のようなものを結び、最後に結んだ両手を離してそれぞれで拳を握った。
黒鬼と切り結んでいた錆丸が、一瞬びくりと動きを止める。
その隙に黒鬼の突き出した刃が髑髏の胸を突く。しかし致命傷には至らなかったのか、今や地上に足の出ている錆丸は、一歩退きつつ刀を振った。
「あたた」
どうやら錆丸に術を破られたのだろう、侍風の男は痺れたように両手を振る。
「こらあかんわ。もう一遍」
男が再び両手を合わせ組むと、錆丸がまたも束の間動きを止める。
黒い刃が、髑髏の脳天に振り下ろされた。
黒い炎を吹き上げながら、巨大な髑髏が真っ二つに裂ける。
『おおおおおおおお』
怨霊の咆哮に魂を吸われそうに感じながら、孔蔵は途切れそうになる意識を必死で
続いて黒鬼は黒煙を纏う刃で、敵を横向きに三度薙いだ。
ばらばらに崩された髑髏の欠片が、黒炎に包まれて燃え上がる。炎が失せゆくと同時に、灰に変わった怨霊は、地に降り落ちて影となる。
そして落ちた影はみるみるうちに黒鬼の影に吸われ、影となった錆丸を吸い終えた黒鬼が――ふうと消えた。
次の瞬間、黒鬼の肩にのっていた篭が、降ってきた。
篭の体は無造作に腐葉土に衝突し、地面の上に転がった。どこか虚ろに開いた目の左側は、いつもの赤色をしている。
孔蔵は鉛のように感じる手足を動かし、青年に歩み寄ろうとした。
「篭どの……」
彼は青年の名を呼んだ。十馬の言葉通りなら、黒鬼を呼び出したこの人物は、篭であるはずだ。
しかしそこで、彼の隣に気配が立った。
振り返れば、そこに影貫がいた。
「あんた……」
孔蔵は
まずい、そう思うと同時に身構えたが遅く、男は跪いている坊主の頭を容赦なく蹴りつけた。
世界が一回転し、孔蔵は地面に転がる。
点滅する視界の中で瞬きを繰り返していると、またも男が近付いてきた。
「あんさん、しぶとくて損しはるなあ」
再び頭蓋に衝撃を受ける。
孔蔵は、暗くなる視界を見送るしかなかった。
*
目覚めるなり、斬りかかってきた
ひどく気分が悪くなり、意識が遠のくのを感じた。
気付くと彼は地面に倒れていた。
彼の目の前で、寺本の忍が孔蔵を蹴り倒し、彼はそれを為す術なく見つめていた。
体は半ば眠っているようで、頭もどうにも回らなかった。
寺本の忍が、彼の視線に気付いていながらやっと振り返る気になったのか、篭の方へ歩み寄ってきた。忍の名は何といったか、動かぬ頭でぼんやりと考える。
思い出したところで、影貫は腰を曲げ、篭の顔を覗き込んだ。
「そんな目ぇで見んといてえな。こんなん、好きでしたんとちゃいますえ。あんなあ、
なぜ孔蔵を眠らせたのか、そう訊ねようとするが、篭の舌は思うように動かない。
「あ……ぜ……」
切れ切れの音を発する彼を見て、影貫はにいと笑った。
「あんさん、おもろいなあ。
勿論返事などできない篭を見下ろしたまま、影貫は喋る。
「人でも獣でもないあんさんにな、
人の代わりに何かを殺すなど冗談ではない。辛うじて彼が首を振ると、そんな反応をわかっていたように影貫は笑った。
「そやろなあ。でもな、実は俺、あんさんが嫌や言うてもそうさせる
影を縫う。
何をするのかと篭が眉を寄せたところで、影貫は右手首を回し、宙に上げた。
篭は、泥のように感じていた体が、糸で縛られるように緊張するのを感じる。
「う……く……」
呻き声が漏れたが、次第にそれすら発せなくなる。
最後に、影貫の声を聞いた。
「まあ、気ぃ変わったら教えとくれやす」
*
先程までは彼の前を走る
辺りに漂う瘴気が濃い。
恐らく十馬と孔蔵が、今この森で魔物と闘っている。
急げ。
自らの足の遅さに苛立ちを感じたのも束の間、彼は横手から、枯れ枝を踏む音を聞いた。
いくらも走らぬうち、木々の間から駆けてくる若い侍を見た。
あちらも宋十郎に気づいたとみえ、こちらに向かって駆けてきた。
「た、助けてくれ」
よろめきながら駆け寄ってきた昂輝は真っ青な顔をし、今にも気絶しそうだった。
恐怖のためだけではないだろう。昂輝にまとわりついている重い瘴気を、宋十郎は嗅ぎ取った。
「どうされた」
訊ねつつ彼は、縋るように取り付いてきた昂輝を受け止めた。
「化物が、出て……死ぬかと、」
「供の者はどうされた」
「まだ、化物と……いや、私の供は……」
息も切れ切れに言う昂輝は必死に正気を保とうとしているように見える。この世ならぬものを目にしたに違いない。
気の毒にも感じ、彼は若殿の名を口にした。
「貴殿は、寺本昂輝どのではございませんか。私はつい今し方まで、御配下の
なに、と昂輝の顔が上がる。
「陣明がおるのか。助かった、案内してくれ、あ奴と合流したい」
宋十郎は頷くと、ふらついている昂輝の背を支えるようにして歩き始めた。
「こちらです」
昂輝と二人で進み始めて間もなく、前方から駆けてくる二つの人影を見た。
一つは影貫、そしてその
宋十郎が声を発するより早く、昂輝が反応した。
「陣明!」
鉢合わせるまであと十歩というところで、影貫が止まった。それに合わせたように篭も足を止める。そこで宋十郎は気付いた。篭の様子がおかしい。
まず宋十郎は、影貫の隣の青年を見て、十馬だとは思わなかった。恐らく先程までは十馬が出ていたという予想が宋十郎にはあったが、何らかの事情で彼の兄は失せてしまったようである。
そして今の篭は黒い右目も赤い左目も虚ろであり、彼と昂輝を見据えているようでどこも見ていない。体は目覚めているが魂が眠っているとでもいうのだろうか。影貫の仕業だろうと、すぐに彼は思い至った。
咄嗟に宋十郎は昂輝から腕を離し、剣を抜いた。
「その男を返してもらう」
突然支えを失ってよろめいた昂輝が、混乱した面持ちで彼と影貫を見比べた。
にいまりと、影貫は笑う。
「おやまあ、都合悪く殿を拾うて下さりはったの。先越されてしもたわあ」
「その男にかけた
お喋りに付き合う気はないという意思を込めて、宋十郎は声を低くした。
影貫は首を傾げ、次いでその首を昂輝に向ける。
「殿、殿。これ、
突然問われた昂輝は困惑し、戻りつつあった顔色を紫色にした。
「ば、馬鹿陣明、阿呆。そんなことを言っておる場合か。というか、お前は何者なんだ」
そう言って宋十郎を振り返った昂輝の眼前に、宋十郎は抜いていた剣先を突き付けた。
「ひあっ」
硬直した昂輝は声だけあげる。影貫に動じる様子はない。殺意がないことを見抜かれている。
宋十郎は半ば自らに聞かせるように、言った。
「必要とあらば、
ふむと、影貫は頷く。
「まあ、それどころじゃあらへんて、殿が仰ってはりますからなあ」
そして影貫は右手を上げると、音をたてて指先を弾いた。
がくりと、篭の体が膝を突く。
「さて、うちの殿から危ないもんを遠ざけてくらはります?」
影貫は、篭を置いて昂輝に歩み寄る。それを見た宋十郎は、剣先を昂輝から離した。
ふあっと空気が漏れたような音をたて、昂輝が影貫に駆け寄った。
剣を構えたまま、宋十郎はその様子を睨んでいる。
「殿、ほんまにお顔色がよろしゅうおまへんなあ」
寄ってきた昂輝を支えると、影貫はゆっくりと歩き始めた。
過ぎ行きざまに、細められた目がちらりと宋十郎を見遣った。
「ほなら、また」
またがあるのか。
宋十郎は眉を寄せつつ、
二人の後姿が木々の向こうに見えなくなってやっと、彼は篭に駆け寄った。
「篭」
俯いている顔を覗き込み、目の前に手を
正面に跪いて篭の両肩を掴み、声を張って呼びかけた。
「篭!」
そこで赤と黒の瞳が彼を見返し、瞬きした。
「宋十郎……」
彼は、密かに溜息を吐いた。
頷き、言った。
「……まずはここを離れる。孔蔵どのがどこにいるか、わかるか」
篭はまだ不安定な瞳で辺りを見回したあと、先ほど影貫と共に歩いてきた方角を指さした。
それにもまた安堵を覚えつつ、宋十郎は篭の腕を掴み、立ち上がるのを手伝った。
掴んだ手が、冷たかった。
「歩けるか」
冷たい手が彼の
篭は頷いた。
「行こう」
宋十郎は篭を支えながら、森の中を進み始めた。
*
今度こそ、篭は目を覚ました。
彼は森の中で膝をついており、宋十郎が彼の顔を覗き込んでいた。
どうやら彼に術をかけていたらしい影貫は去ったようだった。
しかし何が起きたのかを訊ねる余裕も再会を喜ぶ暇もなく、篭は宋十郎に支えられながら、孔蔵を探すことになった。
今まで眠っていたのに、ぼんやりとだが、篭は森の風景を憶えていた。
それがここへ来た時の十馬の記憶だと気付き戸惑いを感じたが、やはりそれを口にしている余裕はなかった。
孔蔵はすぐに見つかったが、そこからが厄介だった。
気絶していた孔蔵を起こし、肩を貸して山を下らねばならず、宋十郎は苦労していた。篭も不安定な足取りながら孔蔵の分まで荷物を背負い、宋十郎について山道を下った。
正午前に彼らは山麓の
孔蔵は頭を怪我しているだけでなく、口を利けないほど消耗しきっていた。
宋十郎が孔蔵の傷を手当てし、それを待っている間、篭は着替えた。
汚れて傷んでしまっていた
身づくろいを済ませると、篭は手持ち無沙汰になった。
彼は部屋の隅に座り、孔蔵を介抱する宋十郎の背中をぼんやりと眺めた。
部屋の静寂の中で、ふと、ひどく喉が渇いていることに気付いた。
夢の中で燃える大地にあった間、彼は何度となく、水が欲しいと思っていた。
そして、あの青年にもう一度会いたいとも思っていた。
夢の中にいる間、何度も願っては、もう叶わぬだろうと思った。
それを思うと、舞い戻った目の前の光景と今彼が与えられているこの
彼の知らない感情が溢れ、目尻に生まれた涙が一筋、頬を伝い落ちていった。
彼は、宋十郎が好きだ。
宋十郎が何のために十馬の病を治しに行くのか彼は知らないが、彼は宋十郎の
また会うことができて、そして宋十郎が無事であってよかったと思う。
そして宋十郎や、今は眠っている孔蔵が、もう傷付かねばよいのにと願う。
不意に、宋十郎が振り返った。
「どうした」
頬に残った涙の跡を見られただろうか。宋十郎が、黒い瞳を瞬きさせた。
おかしなことに、訊ねられたことまでもが嬉しい。
篭は微笑んで、立ち上がった。
「喉渇いたって、思ってた。お茶、もらってくる。宋十郎も、いる?」
青年は顔に疑問符を浮かべたまま、しかし、頷いた。
「ああ、頼む」
「うん」
笑顔を浮かべた篭は、その笑顔を宋十郎へ送ると、戸を開いて部屋を出た。
指先で頬の涙を拭う。
彼は夕刻の廊下を渡っていった。
*
日が落ち、孔蔵がやっと
会話できる程度に回復するのを待ち、宋十郎は自分の不在中に起きたことを孔蔵に問うた。
篭が憶えていることは既に話してあったので、孔蔵が語ったのは、山賊の襲撃を受けて篭が眠ってしまったあとのことである。
「十馬どのが出たんです」
孔蔵が言うと、宋十郎は遠くを見るような目をした。
「ただ人を斬る魔物では、なかったか」
その奇妙な質問に対し、孔蔵は横たわり天井を見据えたまま、
「俺に、
部屋の壁には、三つ又の槍が立て掛けられている。鉄の表面は黒く錆びているが、柄には蛾か蝶と思しき美しい模様が精緻に彫り込まれている。
「それから、あの人は、宋どのがいると……凶鬼は落とせないって言ってました。何のことか、わかりますか」
孔蔵の寝かせた頭が、宋十郎の方を向いた。
宋十郎は孔蔵を見つめ返したが、すぐには口を開かなかった。
ふと閃いた篭は、それを待つ前に言った。
「きっと凶鬼って、金色の鬼のことだよね。うん、あいつは、宋十郎がいる時は出たことないよ。多分、いつもどこか遠くにいて、時々おれのところに来るような気がしてるんだけど、宋十郎がいると、近くに来れないのかも」
左目の奥が疼いたように感じたが、篭はそれを無視した。
沈黙を引きずっていた宋十郎が、言った。
「……十馬は、自らに巣食う鬼を一人で始末しようとしていた。それゆえ、私は兄に憑いていた、憑いているものを、ほとんど知らない。その鬼は、あの槍があれば祓えるのか」
静かな声で孔蔵が答える。
「いや、無理みたいです。俺らだけじゃ駄目なんで、何とかって別の鬼を味方に付けろみたいなことを言われましたよ。
宋十郎は目を閉じ、すぐに開いた。
「いや、わからない。しかし大湖と聞いて思い浮かぶのは、ここからなら東の
「十馬どのは、西方に手掛かりがあるって言ってましたね」
孔蔵の言葉に宋十郎は頷いた。
「穣芭湖ならば、京へ向かう途上にある」
「なら、そいつでしょう」
次の行き先は、決まったのだろう。
それを最後に、その晩彼らは殆ど言葉を交わさなかった。宋十郎が吉浪やその後の道程で起きたことをかい摘んで話したが、それだけだった。
眠る前になり
「篭、何か、不調などはないか」
問われて少し考え、篭は首を振った。
「大丈夫だよ」
そう言いながら篭は、何か話すべきことがあるような気がしていた。
それは、十馬のことだろうか、彼が殺した賊のことだろうか、彼が見た夢のことだろうか。しかし何をどう話すべきか、わからなかった。
代わりに彼は問うた。
「宋十郎は?」
穏やかな声が答えた。
「私は、大丈夫だ」
部屋に静寂が戻る。
孔蔵の寝息が聞こえた。
彼は二人の友人の間で、眠りが訪れるのを待った。
*
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