第32話 こぼれた水の返らぬを
山道を抜けて
辺りには茶屋が出している床几もあるのに、坊主はずっと立ったまま待っていたのだろう。
「孔蔵どの、お待たせした」
彼が足早に近付いてゆくと、孔蔵は大きな目をきょろきょろさせた。
「宋どの、あの忍はどこ行ったんですか」
「逃げられた。面目ない。しかし、どうやらそれより面倒なことが起きている。歩きながら話すので、まずはここを抜けよう」
宋十郎の様子から、ただごとでないらしいと悟った孔蔵は、黙って頷くと、彼とともに足を進めた。
関所を抜け、舘部の通りを歩きつつ、宋十郎は茶屋で見かけた寺本らしき主従の話をした。
話を聞き終える頃には、孔蔵はむううと唸り声をあげていた。
「また、俺が抜けてる間にそんなことが……すみません、俺はもう途中で離れたりしませんよ」
宋十郎は首を振る。
「いや、かえって、寺本の忍に二人揃っているところを見られずに済んでよかった。あの者たちがなぜ
眉を寄せつつ、宋十郎は自分の語尾が弱くなっていることに気付いている。
孔蔵は、その彼の背を叩いた。
「宋どの、大丈夫です。あんたは少なくとも、茶屋で寺本の忍ってやつのことを知りましたけど、あっちが知ってるのは篭どののことだけで、俺たちのことは知らないわけだ。つきはこっちにありますよ。さっさと富多川まで行って、篭どのを見つけてやりましょう」
宋十郎はつきなどというものを当てにしたことはないし、孔蔵の言葉には根拠も何もない。しかし宋十郎がこれほどこの鷹揚な同行者を頼もしく感じたのは初めてだったのだから、不思議なものである。
彼は返答に迷い、結局、まるで違うことを孔蔵に訊ねた。
「……孔蔵どの、峠の鬼は祓えたのか」
すると孔蔵は道の先へ目を向け、首を振った。
「だめでした。結局いつもみたいに退治しちまいましたよ。それなんで、俺の今日の運は、まだ使われずに残ってるんです」
坊主は自信ありげに笑って見せた。
「なるほど」
彼は頷き、坊主に合わせて、やっと微笑を作った。
彼らは、歩く足を急がせた。
*
茂都はもう、剣の話や家族の話をすることはなかった。
ただ青年は彼と、川渡しの詰所まで黙々と歩き、近くの茶屋で供を待つのがいいと篭に助言をくれた。
最後に立ち去ろうとして、青年は振り返った。
「十馬さま、本当にお供はいらっしゃるのですか」
それは、比良目と別れてからここに来るまでずっと、篭が頭の奥に押し込んで蓋をしていた心配の芽である。蓋の外れた彼の胸中は不安でいっぱいになったが、篭は頷いた。
「大丈夫。待ってみるよ。三日待っても来なかったら、一人で京へ行く」
それは、自分に言い聞かせた決意でもあった。
彼の目的は、病を治してから、籠原の屋敷へ戻ることだ。宋十郎や孔蔵と一緒に歩くことでも、助けてくれる彼らを悩ませることでもない。
茂都は最初見せたように、控えめに微笑んで見せた。
「左様ですか。……お気が変われば、いつでも
篭は頷き、一歩進み出ると、所在なく腰の横にあった茂都の右手を、両手で掴んだ。
「茂都、ありがとう、おれを助けてくれて。茂都のおかげで、強くなろうって思えたよ。茂都が、新しい家を見つけて家族を守れるように、お祈りするよ。次に神社を見つけた時に、そうする」
青年は篭の瞳を見つめ返し、不思議なものを見るような目をしたあと、またそれをごまかすように、笑顔を作った。
「十馬さま、お礼を申し上げるのは、私の方です」
渡し場の番頭が手を振りながら呼び声をあげた。準備ができたので、川を渡る者は来いと言っている。
「それでは」
茂都は彼の両手から右手を引くと、頭を下げて礼をした。
篭は去ってゆく青年の後姿を見送る。
あの青年のように、孤独だろうと闘おうと思った。
青年の姿が堤の向こうに消えるまで、篭はそれを見つめていた。
*
詰所の茶屋は常に複数の客で賑わっており、川渡しの
篭はその一角に席を借りると、茂都に教えてもらった通り多少余分に茶代を払い、団子を食ったり
茶屋の亭主は彼を物珍しそうに見ていたが、そのうち店を手伝っている娘のほうが、店が暇になってくると彼に合わせて鼻歌を歌うようになった。
茂都を見送った時には中天に懸かっていた日が傾き、徐々に夕暮れの近さを感じさせるようになった。
渡しの番頭が茶屋にやって来て、じきに今日最後の渡しが出ると告げて回った。
空や人を観察しているうちに、篭は待つことには随分慣れていた。番頭の声を聞きつつ、縁側の端で足を曲げ伸ばしする。
盆を持った茶屋の娘が彼のそばに立って、彼と同じように、藍色を帯び始めた東の空を見た。
「今日はお連れさま、いらっしゃらないんですかねえ」
「うん……」
篭は曖昧に頷いた。
するとその時、道の先に、二つの人影が見て取れるようになった。
片方が大きい。もしやと思って、篭は立ち上がった。
近付いて来るにつれて、それが孔蔵と宋十郎だとわかった篭は、駆けだした。
おおと、彼に気付いた孔蔵が声をあげた。
半日中座っていた分、篭は全速力で走った。
彼は速度を落とさずに、宋十郎に飛びついた。
体当たりを食らったも同然の宋十郎は瞠目したまま倒れかけたが、孔蔵が咄嗟に腕を伸ばして宋十郎の背を支えたので、彼らは地面に倒れずに済んだ。
「おいおい、篭どの、大丈夫か」
孔蔵の声がした。篭はまた涙がせり上がってくるのを感じる。
彼はとても、安心したのだった。彼は言っていた。
「もしかしたら、会えないかと思った」
しかし篭は泣かなかった。もう泣くまいと、昨日決めた。
泣いても、何も守ることはできない。
目を見開いたまま言葉を失っている宋十郎に代わるように、孔蔵が言った。
「いや、間に合ってよかった! 宋どの、俺らが先に着きましたね。言ったでしょう、つきがあるって」
やっと我に返ったかのような宋十郎が、しがみついている篭を引き剥がしつつ、開いた目はそのままに言った。
「篭、何があった」
そう言った宋十郎の顔がひどく青褪めて見えて、篭は目を瞬かせた。
彼は宋十郎から離れながら、説明した。
「
宋十郎の声が、彼の声を遮る。
「違う。そうではなく、お前は――」
その時、先ほど最終便を予告して回っていた番頭が再び現れ、彼らに向かって銅鑼声を張りあげた。
「お侍さま! お連れさまはいらっしゃったんですかい。もう最後の渡しが出ますよ。今日はおやめにしときますか」
それには孔蔵が反応した。
「おう、ちょうどよかった、俺たちで最後だ。今日中に川向うへ渡らにゃならんのだ。渡しを頼む」
番頭は孔蔵の体格を見て、おわっと声をあげた。
「お坊さま、参ったな。あんたのがたいだと、人足二人じゃ運べませんぜ。人手が足りねえ」
「なに、舟で渡すんじゃないのか」
孔蔵が訊ねると、番頭は答える。
「
「なら、俺は自分で渡る。あんたらが歩けるんだ、俺にもできないことはないだろう」
さあ行こうと、孔蔵は何かに追い立てられているように腕を振りながら歩きだした。
そういうことならと、番頭も客を促しつつ歩き始める。実際に、日が翳る前に渡り切らねば危ないのだろう。
それを追って歩きだした篭に向かって、宋十郎が言った。声は単調で、どこか空虚だった。
「篭、お前を守ってやれなかった。すまない」
篭は振り返った。
西日を受けながら彼を見つめる宋十郎の顔は、やはりひどく白かった。
篭は、首を振った。
「心配かけて、ごめん。大丈夫、おれ、強くなるよ。京に行って病を治すよ」
それは、彼が自分で自分にした約束だ。
強くなれば、彼にも守れるようになる。
立っている宋十郎の手を掴む。
それを引いて、船頭と歩いてゆく孔蔵のあとを追った。
*
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