第31話 痛みを聴かぬ
自分とあまり年の変わらない兄には、兄しか知らない友人がいた。
宋十郎は、もう五歳になる頃には、
子供の十馬はいつも裸足で山へ出掛け、ごく稀に、山から草履を履いて戻ってきた。
母はそういう時、
草履を履いて戻ってきた十馬は、翌日山へ行く時に草履を履いてゆく。そしてまた、裸足で戻ってくる。家の者は、宋十郎以外誰も気付かない。
十歳になる頃には、十馬は家中の誰よりも、器用に剣を操るようになった。ただし腕力が足りない十馬は、いつも脇差を振っていた。
大人たちは少年の才能に感嘆していたが、やはり宋十郎だけが、十馬に剣技を授けている者が別にいることを感じていた。
ずっと昔から、宋十郎は山に登る兄に最後までついて行けたことがなかった。どれだけ必死に追いかけても、十馬は必ず彼を置き去りにした。
幼い宋十郎は、なぜ母が兄に草履を履かせないのか訊ねることができなかったから、兄にどこで草履をもらってくるのかも、訊ねることができなかった。
しかし剣については、少し成長していた彼は訊ねた。
「兄上は、家の外で剣を学ばれているでしょう。一人で剣を振ってあれほどのことをできるようになるとは思えません。どこで誰と稽古されているのですか」
すると十歳の兄は首を傾げ、奇妙なものでも見るかのように、弟を見返した。
「知って、どうするの」
「私も、共に稽古したく思います。兄上のように、強くなりたいのです」
すると十馬はにこりと笑い、弟の肩を叩いた。
もうこの頃には宋十郎の背は、兄のそれを追い抜いていた。
「宋は、もう俺より強いでしょ。相撲取ったら、俺宋に勝てないもん」
「戦場で相撲は取りません。戦場で使うのは剣です。兄上、
「詭弁だって、宋は難しいこと言うね」
「兄上、話を替えないでください」
結局その先も、十馬が宋十郎の問いに答えたことはなかった。
十馬が山で草履をもらってきたのだと気付いた時に、それを訊ねるべきだったのかもしれない。
しかし、全ては過去のことである。
零れた水は、元に戻すことはできない。
*
その朝、早くに峠へ向かう
旅装の
遠夜の忍は昨日から、逃げ出すわけでも彼らに毒を盛ったりするわけでもなく、大人しく従っている。
実は監視されているのはこちらかと宋十郎が思い始めたのは、昨夜のことだ。
もっとも、そうだとしても彼には如何ともしがたい。互いに、見張り合うまでである。
ふと、牛歩か沈黙のどちらかに飽きたかのように、雨巳が言った。
「あの坊さん、ちょくちょくこうして抜けるのな」
お前に関係ないだろうと言うこともできたが、それも大人げないように思われた。宋十郎は、退屈凌ぎに付き合う。
「二回目だ。それにあの御仁は、善意で同行しているだけだ。私から何かを強制することはできない」
「
それには彼は、返事をしなかった。
代わりに、ふと思い出した別の話題を持ち出す。
「昨日あの魔物……
雨巳は彼の斜め後ろを歩きながら、眉を上げた。
「もしだとしても、あんたにゃ言わねえわな」
「……そうだろうな」
彼のほうこそ、暇潰しをしただけだった。
しかし、
寺本家と関わることは、将軍家と関わることである。今辛うじて京にある幕府は死に体となっており、その飾りばかりの将軍といっても、将軍は依然として将軍である。死に体であるからこそ、その周囲には混乱と諍いが絶えない。
歩いているうちに徐々に森が濃くなってくる。
谷へ差し掛かると、峠道に入る手前に、茶屋と数軒の民家が見えた。
「少し寄りたい」
「へい、どうぞ」
彼が言うと、雨巳は頷いた。
昨日から宋十郎は街道の
一握りの人々が、昨日から左目を隠した青年を見たと答えていた。どうやら着物を替えているようだが、それらしい青年は一人で同じ街道を進んでいる。
この店でも同じことを訊ねようと茶屋へ近付いてゆくと、背後から馬の駆ける音が耳に届いた。
彼と雨巳は振り返る。
侍らしき男が二人、馬の速度を落としつつ近付いて来ていた。
後尾を走っている若い侍が、「待て、待て
先頭のほうは、年齢はよくわからないが、色白の
この先頭の男は、篭と比良目が居織城で会った寺本の忍だが、宋十郎と雨巳には初見である。
陣明と呼ばれた寺本の忍は、主人を振り返った。
「何ですの、殿」
殿と呼ばれた若い侍は、生地も仕立ても良い一張羅を着て見事な太刀を帯びているが、どうにも容姿に特徴のない男である。男は、馬を止めつつ喘ぎ喘ぎ言った。
「ちょっと、ちょっと休ませろ。今朝から走り通しで尻が割れる。私はお前のような
この若侍は昨日瑞城
陣明が馬から降りつつ言う。
「かなんなぁ。俺も人やってなんべんも言うてますやん。ほな、殿、今お茶もろてきまっさかい、馬見といてくれはりますか? お馬さん括るんはお上手でっしゃろ」
陣明は茶屋の隣に建てられた杭に手早く自分の馬の手綱を結びつけると、暖簾をくぐって店の奥へ消えた。
先を越された格好の宋十郎と雨巳は、もたもたと馬上から降りつつある若い侍を避けながら、茶屋へ入った。
中では陣明が、厨房にいる店主に向かって話している最中だった。
「そう、左目に眼帯。癖っ毛の総髪でな。年の頃は、あっこにいはる娘さんくらいの若者やわ。脇差一本差してはるけど、侍には見えへんかもしれんなぁ。ちょっとぼんやりしてはるから」
男が店主に語っているのは、明らかに篭を描写する特徴である。
宋十郎は、思わずその場で立ち止まった。
店主が答えつつ、給仕をしている娘に声を掛ける。
「どうでしょうねえ。通ったとしても、うちにはお寄りにならなかったんだと……おい、そんなお方、見掛けたか」
その時、店主に向いていた瓜実顔が、くるりと宋十郎と雨巳を振り返った。
宋十郎は反射的に身構えたくなるのを堪えたが、隣に立っていたはずの雨巳がいつの間にか彼の背後に隠れているのを見て、眉を寄せた。
陣明がにいと薄い唇を釣り上げて、言う。
「おや、次のお客さんが待ってはるわ」
宋十郎はびりびりと、背筋が痺れるのを感じた。まるで悪寒だ。雨巳が隠れたのは、このためだろうか。
「注文しはるやろ? どうぞ?」
糸目をさらに細め、陣明は一歩引いて店主の前を空けた。
侍にしては異様に腰の低い男だと、奇妙な悪寒は別にして、宋十郎は思う。
彼は声を低くして答える。
「……いえ、お武家さまがお済みになってからで結構です」
そう言うと、宋十郎は背後の雨巳を背で押すようにして、店の外へ出た。
店の表では、一脚しかない床几に先ほどの若い侍が座り、広げた扇子で顔をあおいでいる。こちらの男は、彼らの方を振り返りもしなかった。
宋十郎と雨巳は、早足に茶屋から離れた。
二人が峠道に差し掛かる頃には、雨巳の足が速すぎるので、宋十郎は駆け足になっていた。
「先ほどの男……、」
彼が言いかけると、先を歩いていた雨巳は振り返るなり「しっ」と言いつつ人差し指を立てた。
雨巳が猛烈に坂を上り始めたので、宋十郎はその後を追った。置いていかれないということは、一応忍は彼に合わせて歩いているはずである。
峠の峰を越えた辺りで、やっと雨巳は喋りだした。
「いやー、やべえ。やばかった。あいつが寺本の忍だな」
「何のことだ。確かに、あの男は不気味というか、何か違うと私も思ったが……、それに、明らかに篭を捜していた」
速度を落とした雨巳に追いつき、宋十郎はその隣を歩いた。雨巳は喋る。
「あいつ、多分
「私は、」
今の言葉は聞き捨てならない。言いかけた宋十郎を、雨巳が遮った。
「旦那の事情は知らねえし興味もねえけど、影貫には旦那も魔物と思われたかもよ。影貫は代々寺本に仕えて妖を退治するのを仕事にしてきた連中だから、あんたの兄貴のことももしかしたら始末するつもりかもしれねえね。うちのお館さまも退治されちまうかもな」
何かを思い出したかのように、雨巳は一人でへっと笑った。
一体何が可笑しいのか、宋十郎には不明である。この娘は今朝から妙に饒舌だが、それと関係あるのだろうか。
宋十郎は言った。
「つまり、あの者たちより先に篭に追いつかねば、」
雨巳は頷く。
「どう面倒かは知らねえけど、滅茶苦茶面倒なことになんじゃねえか」
宋十郎はいつの間にか遅くなっていた歩みを速めた。
大股に歩きつつ、彼は言った。
「忠告には感謝する」
雨巳は答える。
「べっつに、忠告なんかじゃございませんて。単に面白えことになってきてんなと思っただけで」
いっひひと一人で笑う忍を、宋十郎は横目に見る。この娘は何か悪いものでも食ったのか。
雨巳は可笑しくなったついでなのか、さらに喋り続けた。
「それにな旦那、昨日も言ったけども、うちの殿さまと
唐突な話題転換に、宋十郎は雨巳へ顔を向けた。雨巳は続ける。
「お兄さま、一時期やたらとお屋敷空けてたっしょ。
この忍は、あるいは遠夜は、どこまで兄の、籠原のことを知っているのか。そして、それはどの程度真実なのか。
彼の当惑や視線などお構いなしに、雨巳はさらに喋る。
「当時十馬付きだったうちの忍は死んじまってるから詳しいこた知らねえけど、恐らくお兄さまがおかしなあれこれ始めた時期って、うちの殿さまがお家継がれたあとだわな。そう思うと、旦那の兄貴を治しに行く先って、京でほんとに合ってんのかなと」
宋十郎は、雨巳を凝視した。冷静になれと自分に言い聞かせる。
「突然、何を言い出す。何のために」
雨巳は片眉を上げると、ちらりと彼を顧みた。
「ん? だから、面白いことになってきたって、それだけよ。なあ旦那、あんたあれこれ嘘吐くのはいいけど、嘘吐きすぎてっと何がほんとか時々わかんなくならねえか? 痛くないって自分で言ってるうちに、ほんとに痛いのわかんなくなっちまうの。それ、気付くと血ぃ失って死ぬやつだから、気を付けねぇといけねえよ。同じ仕組みで死んだ奴を何人か知ってっから」
宋十郎は、言葉を失った。
凝視された雨巳はそんな彼の表情をどこか遠くを見るような目で見つめると、にいと笑った。
「じゃ、用事思い出したんでちょっと早えけどこの辺でお
そして忍は落ち葉の地面を蹴ると、ひと跳びに彼から離れ、瞬きする間に森の奥へ消えた。
雨巳の言葉に我を忘れていた彼には、剣を抜く暇もなかった。
頭を殴られたような衝撃が去らない。
しかし彼には、忍を呼びながら森をうろついている暇はない。馬に乗った追手が、篭を捜してやって来る。
ほとんど駆けるようにして、宋十郎は峠道を下り始めた。
*
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