第30話 捨て鬼子を拾うのは
山はもともと人の領域ではない。
そう、彼の師は言っていた。
夜明けの峠は、うすぼんやりした朝日と濃い霧に包まれ、白く沈んでいる。
木深い中へ落ち葉を踏みながら進めば、師の言葉が正しいことは肌で感じられる。
お前はここにいるべきでないと、何かが伝えてくるのである。
旅籠の女将によると、鬼は峠の上の、
静寂の中、時折草の揺れるかすかな音や、鳥の鳴く声が響く。
くねくねと斜面を登る道の途中に、横倒しになっている小さな
孔蔵は屈みこむと、石の菩薩像を立ち上がらせる。
石座の上に置いて、手を合わせようとしたところで、背後に気配を感じた。
しまった、と思う。
「お坊さま、何してらっしゃる」
聞こえたのは子供の声だった。
立ち上がりつつ振り返ると、背丈は彼の腰にも届かないような男の童が、彼の顔を見上げていた。
襤褸を着た、農民の子である。
しかしこの刻限に、こんな山の中を、子供が一人でうろつくだろうか。
相手の出方を窺うつもりで、孔蔵は答えた。
「見ておったろ。お地蔵様を直しておったのよ。坊主、お前はこんなとこで何してる。どこの子だ?」
すると子供は、小首を傾げ、小さな腕を伸ばして山道の先を指した。
孔蔵は訊ねた。
「一人で戻れるか?」
子供は首を振り、言う。
「鬼が、出る」
内心、孔蔵は身構えた。
それはお前のことではないのかと問いたい気持ちを抑え、彼は頷く。
「では、送ってやろう。こっちだな」
彼が歩き始めると、童は彼のあとをついてきた。
この童が鬼だとすれば、回りくどいことをするものだ。
あるいは、鬼は孔蔵が退魔師であることに気付いていて、策を巡らせているのかもしれない。鬼や
途中で分かれ道があり、まっすぐ進もうとした孔蔵の背後で、童が立ち止まった。
彼が振り返ると、童は道の先を指さしている。
ただしそれは舘部へ向かう道ではなく、沢へ下ってゆく脇道である。
「こっちか」
彼の言葉に、子供は頷く。
子供が前に進まないので、孔蔵は先に立って歩き、斜面に張り付いたような脇道を下り始めた。
孔蔵は背を子供に向けており、足場は悪く、先は狭い沢に続く一本道である。
歩きながら今来るかと待ち構えていたら、案の定、彼の背後にあった気配が変わった。
振り返ると、彼より一回りは巨大な、茶色い鬼がそこにいた。
孔蔵が呪文を唱える前に、鬼が丸太のような腕を振り回した。
「うおっ」
腕は避けたが、足場が悪く孔蔵は急斜面を滑り落ちた。
斜面を滑り落ちたことくらい問題ではない。問題は、追ってくる鬼が一歩進むごとに大きくなることである。
彼に追いついた鬼は彼の三倍ほどになり、今度は彼を蹴り飛ばそうと、巨木のような脚を振り上げた。
「
走りながら、孔蔵は胸の前で印を結ぶ。
呪文を唱えようとして、すぐに思いとどまった。
彼は鬼を倒すのでなく、祓おうとして一人で山へ入ったのだった。
孔蔵は振り返り、足を上げる鬼に向かって叫んだ。
「汝、何故この山に棲む」
鬼の、爛々と光る巨大な両目を見上げる。狂気に彩られた化物の眼だが、確かに彼を見つめている。
しかし鬼は答えずに、ずしんと足が踏み下ろされた。木が薙ぎ倒され大地が揺れる。
孔蔵は体勢を整え、もう一度問う。
「何故人を喰う。何故、山の西へゆかぬ」
足が踏み下ろされるが、孔蔵はそれをことごとく避けた。鬼は答えない。
ここまで大きくなってしまったものは、もう救えないのかもしれない――
孔蔵は思った。
もとは人であったものもそうでないものも、邪悪を増せばそれは姿に現れることが多い。この鬼はこれほど大きくなるまで、多くの人を喰い、罪を重ねてきたのだろう。彼の言葉は届かず、力で屠るしかないのかもしれない。
頭に血を巡らせている間に足元がおろそかになったか、鬼が伸ばした両腕を、孔蔵は避け損ねた。
胴を掴まれ、持ち上げられる。
鬼の握力が彼の体を圧迫し、鬼は彼の頭に齧り付こうと、巨大な顎を開いた。いよいよ彼は追い詰められる。
しかし、孔蔵の両腕は捕らわれていない。彼は、印を結んだ。
「
間一髪、幾筋もの閃光が迸る。
鬼はぎゃあと悲鳴をあげると、彼の体を放り出した。
地面に体を打ち付けて孔蔵は呻くが、すぐに立ち上がる。
閃光に灼かれ体中から煙を上げた鬼は、地を揺るがすような鳴き声を上げながら、沢の奥へ向かって走りだした。
「待て!」
鬼を追い、孔蔵は走った。
前方を駆ける鬼の姿が、走るごとに小さくなるのは、遠ざかっているからでなく、実際に縮んでいるからだ。
しかしそれでも、鬼は随分速く走った。
孔蔵は辛うじて見失わない程度に、その後を追う。
やがて鬼は沢から斜面をのぼり、小さく開けた谷底へ辿り着いた。
そこには庭のついた、小さな庵が建っていた。
庭に物置小屋があり、どんどん縮んで少年くらいの大きさになった鬼は、その中へ駆け込んでいった。
後を追った孔蔵が小屋へ飛び込むと、物置小屋の地面には、襤褸を纏った童子の亡骸が転がっていた。しかしそれは殆ど骨になっており、まるでもう何年もそこに捨て置かれていたかのようだった。
どうやら鬼は、死んだようである。
孔蔵は黙って、亡骸の前で跪いた。
頭蓋は乾いた土くれのようにごそりと凹み、それをきっかけにしたように、亡骸全体が砂のようにざらりと崩れた。
孔蔵はもう一度拳を握り直すと立ち上がり、物置小屋を出た。
そして、隣の庵へ足を運ぶ。
覗いた庵の中は案外と広く、土間を上がった手前に囲炉裏が、奥には
書面の紙は古びているが、書きつけられた文字はくっきりと残っている。
思わず彼は、書を手に取った。
書は、日記のようだった。
日記の書き手は、ここに庵を築いた僧侶のようだった。
その僧侶は谷底に隠棲し、迷ったり怪我をしたりした旅人を介抱することを日々の行としていたが、時折子供たちに読み書きを教えに、峠を下りて西の舘部へ行くことがあった。
ある日僧侶は、そこで一人の童子を拾う。
童子はある家の子だが、両親はその子に食を与えず、農作業の手伝いだけをさせていた。腹を空かせた子は家や田畑の隅で、鼠や蛙を捕らえては食い、やがて狸や犬も食うようになった。そしてそれを不気味に思った両親は、その子を捨てたのである。
僧侶は庵でその子を養ったが、その子は僧侶が与える穀類や野菜を口にしない。やはり獣を捕らえて食っているようだと思っていたが、やがて僧侶は異変に気付く。
子供は朝や夕方に一人で出かけて、なかなか帰ってこないことがある。その子が帰ってこない日に限って、峠を歩く旅人が姿を消すのである。
ある時僧侶は子供を尾けて、とうとうその子が鬼と変じ、旅人を殺して食うのを見てしまった。
鬼は退治すべきだろうと僧侶は思う。しかし同時に、僧侶は子供を憐れんでいた。
『私はあの子を救えるだろうか』
最後の一文をもって、日記は終わる。
僧侶の墓も亡骸も、見当たらない。
孔蔵は、書を文机の上へ戻した。
彼の心の隙間に、冷たい風が吹き込んでいる。
なぜこの僧侶は、童子を救えなかったのだろうか。そして今更ここへやってきた
ふと、経文で読んだ
彼は経文も積み木も苦手である。彼ができるのは、目の前にいる魔物を倒し、目の前にいる人を慰めようと努力することだけだ。
今彼らが捜している、鬼に憑かれた青年のことを思い出した。あの青年を救う時間は、まだ残されているだろうか。
孔蔵は庵を出て、もと来た斜面を歩き始めた。
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