心願

第33話 お伽草子に




 日が西の山のに落ちようとしている。

 はつは窓辺に拠り、薄れつつある斜陽の中、貸本屋から借りた書物を読んでいた。

 その昔、京の都に産まれた貴族の兄妹が、互いの立場をこっそり入れ替えるという少し変わった物語である。

 頁を捲った時、廊下の向こうから母の声がした。

「初、暖簾を仕舞っとくれ。あんた、こんな時間にまた本なんぞ読んでないだろうね」

 はあい、と初は声をあげつつ書物を置く。彼女は京の都を舞台にした恋物語が好きだが、父も母も、そんなものを読むために娘に文字を習わせたのではないとぼやいている。初の家は、島田しまだという旅籠である。

 初は店の表へ向かう途中、奥の座敷の前を通る際に、つい歩を緩めた。

 格子戸のわずかな隙間から、宿泊客の姿が窺える。

 二人の従者らしき侍と向かい合って座しているのは、世にも美しい姫君である。

 すらりとした長身と雪のような白い肌を持ち、切れ長の双眸には夜空の星のような瞳が輝いている。絹のような黒髪が、うぐいす色の単衣の肩に流れている。

 人知れずほうと溜め息を吐き、初は廊下を渡り、店の表へ出た。

 この町で宿を取る客のほとんどは、これから西の伊久呆いくほの峠を越えるか、東の富多川ふたがわを渡る旅人である。あのご一行は三日前に東からやって来て以来、この宿に逗留している。

 時折耳に入る話し声を聞くからに、どうやら追手を恐れている。西へ行かねばならぬが今外へ出れば瑞城たまきの手の者が云々と、連れの武士二人が繰り返している。瑞城というのは、この辺り一帯のご領主である瑞城氏のことだろう。

 この辺りの者たちは、特別に事情がなければ、こういう客をお上へ突き出したりしない。事情のある客は揉め事の種になりうる半面、高い宿賃を黙って払い続けてくれる上客である。

 初は、あの美しい姫君に起きた物語をあれこれ想像するうち、ご一行が無事に西へ逃れてくれればよいと密かに肩入れするようになった。もしかしたら京で、彼女を慕う若君が待ち侘びているかもしれない。

 通りに面した店の表へ出て、初は鍵棒を使い、暖簾を外す。

 近頃は治安が芳しくなく、富多川で最後の渡しが終わる刻限になると、多くの旅籠が暖簾を仕舞う。既に周囲の店も、一通り閉まったあとである。

 下ろした暖簾を戸口の中へ入れていると、薄暗い通りの向こうから、ばたばたと駆け足が近付いてきた。

「待て、待ってくれ」

 太い男の声に、初は思わず振り返る。

 大柄な、若い坊主がこちらへ向かって駆けてきていた。しかも、坊主はずぶ濡れである。富多川を渡った客だろうと初には想像がついたが、輦台れんだいから転げ落ちたのだろうか。

「一晩宿を貸してくれんか」

 走ってきた坊主にそう言われ、初は目を瞬かせながら、頷いた。空き部屋はある。

 しかし坊主ならば町の外れへ行けば、どこぞの寺が宿を貸してくれるのではないか。

「いや、助かった」

 坊主は言い、背後を振り返って手を振った。

 通りの向こうから、さらに二人の人影がこちらに向かって歩いてきていた。







 初は使用人と共に食膳を抱え、廊下を渡っていた。

 新しいお客は、大柄な坊主と、若い男が二人だった。

 一人は殿さまが着るような上等な召し物を着、左目に眼帯を着けているが、随分若く見えた。他方は町民風の着物を着ているが厳めしい太刀を二本と脇差を帯び、着物の黒い染みは古い血糊のようにも見える。

 事情を抱えていそうなことは、一目瞭然だった。

 太刀と坊主は、眼帯の護衛だろうか。初の頭の中では、また別な物語が広がる。

 坊主は大名家臣の当主がかつて入道させた庶子であり、主家の危機に際して寺を出た。父の臣下の案内のもと、東国の寺社に隠されていた将軍家のたねを京へ届ける旅をしている――というのはどうだろうか。

 自分で創作した物語に満足しつつ、初は客室の前へたどり着いた。

「お膳をお持ちいたしました」

 膝をついて声をあげると、格子戸の向こうでぼそぼそと話していた声が止み、戸が開いて坊主が顔を出した。

「おお、悪いな。頂こう」

 そう言うと、坊主は自ら膳の一つを掴み、座敷部屋へと運び入れた。

 初も失礼しますと頭を下げつつ、膳を客人の前へ持ってゆく。

 本人たちには悟られぬよう、ちらりとお客の顔を見比べる。

 太刀のほうは着ているものは襤褸ぼろだが、肌の色は白く、涼しげな目元の貴公子然とした容貌をしている。こちらが将軍家の胤であるほうが、物語は盛り上がりそうである。

 対して綺羅きらを着た若者は、どちらかというと貧相であり、まとまりのない癖毛を総髪にしている。背丈など初よりは高いだろうが、別室におわす姫君とは同じくらいかもしれない。

 眼帯の青年は膳を置いた彼女に向かって「ありがとう」と子供のような言葉で言い、隠していない右目で笑いかけた。

「すぐに、お茶をお持ちします」

 初は頭を下げると、台所に下男が用意してくれた鉄瓶や急須を取りに行った。

 茶の盆を抱えて客室へ戻ると、格子戸の向こうで、太刀の男の声がした。

「明日の朝、あの主従が川を渡れば、すぐに私達に追いついてしまう。渡しの者たちにも口止めしたわけではない。昨夜どんな客を渡したかと訊ねられれば、私たちがこの辺りにいることはすぐに知られてしまうだろう」

 どうやら、こちらのお客も追われているようである。初が思わず息を殺すと、坊主の声が言った。

ろうどのは、どうしても目立ちますからねえ。何を着てたとしても、左目を隠した若い男っていうだけで、目星がついちまう」

「ならば、病者のような頭巾でも着るか? いや、かえって目につくか……」

 太刀の男と思しき声が、溜息交じりに言った。

「左目を隠してるって悟らせないように左目を隠す方法がねえかってことですか。いや、参りますね」

 坊主が唸る。

 目を隠さずに顔を隠す。そう聞いた初の脳裏に、先ほど読んでいた物語と、別室の姫君の麗らかな顔が思い浮かんだ。

 方法は、ある。

 初は盆を抱えたまま、部屋の前を離れた。







 宵の口、旅籠の座敷部屋は薄暗い。

 初は二組の向かい合う客人たちを前に、畳の上に座っていた。

 灯籠の点る部屋の奥には姫君と二人の従者が座っており、格子戸を背にした部屋の手前には太刀の男と坊主が立ち、眼帯の若者が座っていた。

 両者を引き合わせたのは、初である。両方の客に、追手を避けて身を隠している別の客がいることを伝え、それぞれの身分を交換した上で旅をすれば、追手の目を欺けるのではないかと伝えたのである。

 どちらの客も、初の話を聞いた時には疑念を隠さなかったが、状況が切実であるのは確かなようで、結局は藁でも掴んでみようと考えたようだった。

 しかし、訪れた三人の若い男を見、姫君の従者の一人が初に向かって声をあげた。

「おい、あちらに姫らしき方のお姿が見えないが」

 もう一人の従者も、初を睨み、噛みつかんばかりである。対する手前側でも、坊主と太刀の男が唖然としたように、姫君と初の顔を見比べている。

 初は、自分が重要なことを一点伝え忘れていたことに気付く。冷や汗をかきながら、平伏して言った。

「も、申し訳ございません。お取換えいただくのは、そちらの姫君さまと若殿さまです。男女の別がございますけれど、だからこそ追手も疑わぬのではと思ったのです」

 まだ侍たちのくような視線が刺さるのを感じながら、初は頭を伏せていた。すると、姫君の声がした。凛とした、竹筒のほらを風が流れるような声である。

「確かに、それはそなたの言う通りであろうな。まさか瑞城の連中も、追っていた姫が殿になるとは思うまい」

 おかしみを感じたように、声が笑った。

「ですが……」

 従者に対し、姫は繰り返す。

わらわは構わぬぞ。して若君、そちらは異存ないか」

 すると、眼帯の若者でなく、その隣の太刀の男が答えた。

「その前に一つ伺いたい。貴女方が避けているのは瑞城の者か」

 姫は答える。

「左様だ。しかし安心せい、命を狙われているわけではない。我が名は薛香せっか夏納かのう当主飛梁ひばりの妹ぞ。つい先頃まで瑞城で虜囚の身となっていたところを逃げおおせ、国許へ戻るところだ。人質として捕らわれることはあれども、殺されることはあるまい」

 思わず初は、顔を上げた。夏納は乱世と呼ばれる今にあって、最も天下に近いと言われている領主の一人である。

 姫君は畳の上に座して黒い髪を肩に流し、堂々とした面持ちで来訪者を見つめている。容姿が造り物めいて見えるのは、左右対称な造形美のためか、姫君が醸す自信に満ちた空気と独特の雰囲気のためだろうか。

 太刀の男が言葉を返す。

「なるほど。それでは黒晶こくしょうがわを渡り吉浪よしなみじょうまで抜ければ、榁川むろかわ領か」

「左様。同盟国の榁川まで行けば、元泰もとやすどのが妾を兄上のもとまで送り届けれくれよう。ところでうぬらは、何から逃げておる?」

 またも答えたのは、太刀の男である。

「私たちは、瑞城とも夏納とも遺恨なければ、縁もない。安心していただいて構わない。ただ、事情は複雑であり、我らの身元をお伝えすることが双方にとって益になるとは思えない。私たちを追っているのは京の寺本てらもと氏とその家臣だ。追手は富多川の対岸に迫っているが、彼方あちらにも人違いの姫君を捕らえることに意味はないので、危険はないものと思う」

「なるほど、寺本氏とはややこしそうだ。名も素性も明かせぬというなら、それも構わぬ」

 色めき立つ両側の従者を抑えるように、姫君は言った。

「では、それで異存ないか、若君どの」

 姫君の視線が、眼帯の若者へ向いた。

 若者はまるで他人事を聞いているようにぼんやりとしていたが、部屋中の視線が自分に向いていると気付き、慌てて声をあげた。

「うん、異存ないよ」

 すると、その背後に立っていた坊主が、子供に説明するように言った。

「篭どの、わかってるか。取り換えるってのは、あの姫さまのお召し物をあんたがお借りするってことだぞ」

 若者は一度首を傾げてから、坊主を見上げた。

「うん。着物を着るのは、一緒だよね?」

 奇妙なことを言う若君である。初だけでなく、訊ねた坊主も戸惑った様子だったが、それを無視するように、太刀の男が姫君に向かって言った。

「しかし、ご覧の通りこの男は左目を隠している。貴女の衣装の中にそういう道具があるとは思えないが……」

 薛香姫は答える。

「隻眼であることをごまかしたいのなら、妾の笠で十分だ。笠に垂衣たれぎぬをかければ敢えて覗き込む無礼者はそうおらぬし、前髪を下げておけば目元などほとんどわからぬ」

「なるほど」

 太刀の男は頷いた。

 姫君の星を湛えた黒い瞳が、初を振り返る。

「ではお初、明日の朝になるだろうが、召し替えを手伝ってくれるか?」

 初は平伏した。

「もちろん、お手伝いさせていただきます」







 袴と羽織を纏った薛香姫は、御伽草子の中から現れた光の皇子みこのようだった。

 狩衣かりぎぬを着て烏帽子えぼしをかぶり、龍笛りゅうてきを手にしてもらえれば尚、初には良い。

 彼女と共に着替えを手伝っていた初の母親が、最後の仕上げにと、若君が身に付けていた眼帯を差し出した。

 総髪を括った上から眼帯を身に付けた薛香姫に、初は手鏡を差し出した。

 姫は鏡を覗き込むと、子供のように、白い歯を見せて笑った。

「はは、盗賊のようじゃな。おい、着替えは済んだぞ」

 呼びかけられ、開いた格子戸の向こうから、二人の侍が現れた。薛香姫は、従者たちに向かって問う。

「どうだ」

 従者たちは複雑そうに言葉を濁した。

「よくお似合いでございますが……」

 姫君は頷く。

「まあ、そう言うしかないであろうな。さて、あちらはどうなった?」

 あちらとは、姫君に着物を差し出した若君のことだろう。

 薛香姫は袴の脚で歩き、向かいの部屋の前に立って、格子戸の向こうに声を掛けた。

「開けるぞ」

 すぐに、「いいよ」と若い男の声がした。

 開かれた戸の向こうには、なるほど、召し替える前の薛香姫に背格好のよく似た娘、に見えなくもない若君が立っていた。

 若君のほうは、初の父が着替えを手伝っていた。連れの坊主も太刀の男も、女着物の着付け方はわからないといい、部屋の隅で座っていたようだ。

 若君の髪は下ろされて、左目は既に覆い隠されていた。そして初はこの時初めて気付いたが、若君の左手には手袋が嵌められており、これはそのまま残されている。

「どうだ?」

 姫君に訊ねられ、振り返った若者は、隠れていない右目でにこりと笑った。

「丈、ちょうど良かったよ。これで寺本に捕まらずに旅できるよ。ありがとう」

「うむ、こちらとて同じだ。それに、礼はお初に言うがよかろう」

 秀麗な瞳を細めて、薛香姫は初に微笑みかけた。思わず顔をうつむけた初は、自分の頬が熱くなっているのを感じる。恐らく、耳まで真っ赤になっているだろう。

 すると、部屋の隅で座していた太刀の男が立ち上がった。この男も、昨夜まで着ていた襤褸から仕立ての良い小袖と袴に着替えており、随分すっきりしていた。やはり清潔が一番であると、初は思う。

「もう出られるのか」

 太刀の男が問い、姫君は頷く。

「うむ。そちらの追手は富多川の向こうまで迫っておるのだろう? ならばなおさら、急がねばならぬ。妾――わしも、三日も座敷に籠り、座ることにんでおったところだ」

 さて、と前置きし、薛香姫は、またもぼんやり彼女や初を眺めていた若君に目を向けた。

「若君よ、もしかすると我らは二度と会うまい。これも何かの縁だ、そなたの旅の安全を祈るぞ」

 すると、若君はまた微笑み、言った。

「うん、おれも薛香が、無事にお兄さんのところへ帰れるように祈るよ」

 薛香姫の瞳が、若者の右目を見て、夜空のように瞬いた。

 それを見ていた初は、思わず黙って視線を落とした。妙な間があったように思ったのは、初だけだったろうか。

 すると、薛香姫が懐からかんざしを一本取り出し、若君に差し出した。

「これは、妾が兄上から、守り札代わりにともらったものじゃ。持っておけ」

 朱と黒の塗が艶やかな品である。若君はそれを受け取ると、まざまざと見つめてから、再び笑顔を浮かべた。

「うん。ありがとう」

「うむ」

 薛香姫は頷くと、くるりと体の向きを変え、二人の従者に言った。

「では、出るとするか」







 初は店の表玄関の戸を開き、昨夜とは逆の手順で暖簾を上げる。

 先ほど、薛香姫とその従者たちに続き、隻眼の若君とその連れを、父と共に送り出したところだった。

 朝の活気に賑わう通りを眺めながら、初はほうと溜め息をついた。

 その隣で、腕を組んだ父が言う。

「何つうか、頓狂というか、破天荒なお方々だったなあ。お姫さまも、若殿さまも」

 今の今まで袴姿の薛香姫を思い出していた初は、静かに頷いた。

「夢か、物語から現れたみたい。あんな姫君の夫になられる方って、どんな方だろう」

 父が、胡散臭そうに初を見た。

「お前なあ、またおかしな物語ばかり読み耽ってるな。お侍のご婚儀なんてどれも政略結婚だから、お前が本で読むみたいに、歌を詠み合ったりはせんのだぞ。それに、お姫さまのあのご気性じゃ、ご本人も周りも苦労が絶えんだろう」

 初はむっとすると、一人で店の中に戻ろうと背を向けた父を睨んだ。

「姫さまは、あたしのような宿の娘にも優しかったわ。それにあんな綺麗な人を奥さんに貰えるなら、旦那さまは幸せ者じゃない」

「顔なんぞ、毎日見てりゃどんな美人でも飽きる。年取りゃ崩れるしな。気が明るいのが一番だよ」

 そう言いつつ引っ込んでゆく父の背中を睨みつつ、初はむうと唇を尖らせた。そんな話をしたいわけではないのに、父も母も、初の心のことなど知ろうともしない。

 さっさと朝の仕事を片付けてしまい、また物語の続きを読もう。そう思った初は、暖簾をあげる鍵棒を置くと、若君のご一行が使っていた座敷部屋へ行った。

 畳の上に落ちている手拭いを拾い集めていると、化粧台の上に、櫛やら帯紐やらが残っているのに気付く。

 その中に、髪を飾るための紙紐があった。若君は、流石にこれまでは使わなかったのだろう。

 初は紙紐を取り、帯の端に挟んだ。

 使用人と共に手早く客室を片付けると、自室の窓辺へ行き、書を開いた。

 帯の端から、白い紙紐を取り出す。

 それを栞のように書に挟んで、初は一人、微笑んだ。

 すると、また母の呼ぶ声がした。今度は、朝餉の給仕を手伝えという。

「はあい」

 初は書を閉じて立ち上がると、廊下を歩いて行った。




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