第46話 虫騒ぐ唄
夜明け間もない早朝から、彼は山道を歩いている。
彼の前を歩いているのは、
寺本昂輝。
昨晩、隣の座敷に乱入した十馬は、東の
成り行きで、というには無茶がある。
何がどうしてそうなったのか、昨夜の会話を思い返してみる。
十馬が昨夜、芸妓の楽器を借りて弾きつつ歌ったのは、孔蔵も聞いたことのない魔物退治の物語だった。
それはどうやら、鎌倉に幕府を立てた
安氏に仕えた一騎当千の武者
錆丸の魂は怨霊となって現世に留まり、幾人もの盗賊や武者を呼び寄せては、それらを憑り殺して怨念を吸い集めた。
やがて錆丸の怨霊は遠く鎌倉にある潮氏を祟り、将軍の妻子を呪い殺してしまう。
将軍は巫女に訊ねて妻子を殺したのが錆丸であることを知ると、大僧正を訪ねて錆丸を滅してくれと頼んだ。
大僧正は一番弟子の
鎌倉の兵を引き連れた翔覚は錆丸と対峙しそこで命を失うも、錆丸を姫川岳の古寺に封じ込める。
以来、錆丸が潮氏の末裔を祟ることはなくなったが、姫川岳の古寺跡には今でも錆丸の怨霊が眠っており、潮氏の末裔を亡ぼす時を待ち続けているという。
この古跡を訪ねて今一度錆丸を解き放ち、改めて冥土へ送ろうと十馬は言った。
今の将軍家及び寺本家は潮氏の末裔であり、錆丸の怨霊は潮氏の血によって呼び起こされる。寺本氏には、現世に居残る安氏の亡霊を葬る責務があるという。
また、錆丸を封じる三つ又の槍を孔蔵が手に入れれば、凶鬼とやらを倒す手助けとなるとも十馬は言った。
もちろんこんなお伽噺を聞いたところで、いい大人の昂輝が十馬の冒険に付き合うわけがない。
畳の上で膝を崩した十馬が奏で歌い始めて間もなく、孔蔵は妙なものに気付いた。
妙なものというのは、座敷の中を這い回る、黒く小さな虫である。
いつの間にどこから現れたのか、蟻か小蠅くらいのそれらは、十馬の唄が続くほど数を増し、やがて畳の目も障子の枠も埋めくすほど、大量に湧き出した。
しかし昂輝と芸妓にそれらの虫は見えないようで、二人は困惑顔で十馬の唄を聞いている。
黒い虫は二人の着物どころか腕や顔にも這い上がり、あまつさえ耳の穴や唇の隙間、瞼の裏にまで入り込んでゆく。
一方で孔蔵には、それらの虫は一匹も寄り付かない。恐らくこの怪奇の原因だと思われる十馬にも、虫は近付かなかった。
孔蔵は虫など普段は何とも思わないが、この時は叫び声をあげて印を結ぶべきか迷った。
しかし結局、彼はしなかった。一度膝を上げかけた時、十馬が宥めるような微笑を送ってきたのである。
それをなぜ素直に受け取ったのか、今となっては疑問しかない。
とにかく孔蔵は何もせず、十馬の唄が終わる頃、いつの間にか虫どもは一匹残らず消えていた。
昂輝は当初、気乗り薄どころか狂人を見る目を十馬に向けていた。だが唄が終わって十馬に説得の言葉を向けられると、まるで英雄譚を聞いた少年のように瞳を輝かせ、錆丸退治こそ寺本の者がなすべき仕事だと息巻いて言った。
明らかにおかしく、十馬が呼んだ虫が悪さをしていることは間違いない。
「あんた、あの若殿さまに何しやがった」
彼らの部屋へ戻り、そう訊ねた孔蔵に向かって、十馬は眉を上げた。
「何って、見てた通りでしょ? おれは歌って、昂輝さんは聞いてた」
「じゃなくてだな、あんた、妖物を呼んだだろ。あの虫だよ」
ああ、と十馬は思い出したような顔をした。
「あれ、孔蔵さんには近付きもしなかったね。あんた、流石だなあ。宋がおれのお
「宋どのが何だって? どういう意味だ」
十馬の言い方に含みを感じ、孔蔵は天邪鬼を見下ろした。十馬はふふと笑う。
「あんたは、おれの呪いにかからないってこと。おれ昨日からあんたに殴られたくて、ずっと念を送ってるのに、全然靡いてくれないし」
孔蔵は息を呑み口を引き結び、まずは上半身を反らせることで、反射的に十馬から距離を取ろうとした。
それを見て十馬はあっはっはと笑うと、自分の布団へ歩いてゆく。
ぶん殴りたい。いや、死んでも殴りたくない。
孔蔵は腹の底でぐるぐると逆巻いている何かを無視しながら、天邪鬼に背を向けて布団にもぐり込んだ。
はぐらかされたと後から考えて気付いたわけだが、気付いた頃には何を訊く気だったのか、孔蔵はよくわからなくなっていた。
すると結局彼にできるのは、無茶しようとしている寺本の倅を、お留守にしている忍の代わりに見張ってやるくらいである。
何と昂輝は、お付きの影貫が戻っていないというのに、伝言だけ残して宿を発っていた。
一昨日の晩から、何もかもがいかれている。
積もる落ち葉を踏みながら歩いていると、前方から昂輝の声がした。
「しかし、どちらにその古寺とやらがあるのか、お前はわかるのか、
昂輝は昨夜十馬が名乗った怪しげな偽名で、天邪鬼を呼んでいる。それは仕方ないといえよう。しかし昂輝が十馬の女装に突っ込まないのは、恐らく十馬の呪いとやらのせいだろうと、孔蔵は考えている。
「ご心配召されませぬよう、寺本さま。じきに旦那さまに流れる潮氏の血に誘われた錆丸が姿を現しましょう。あとは、それを追うだけです。私が錆丸を封じている蛾叉を抜きますから、そこにいる孔蔵どのと旦那さまとで、怨霊を退治くだされば万事解決でございます」
いつの間にか簡単な作戦まで立てられているようなので、孔蔵は黙ってそれを聞いていた。
すると、歩幅を縮めた十馬が今度は彼に近付いてくる。
来るな来るなと孔蔵は思うが、十馬は彼の隣に並ぶと、話し始めた。
「孔蔵さん、今の聞いてたよね? 孔蔵さんには、錆丸退治をお願いします」
孔蔵は眉を寄せつつも、答えるしかない。
「んん、そりゃ出たら、やるしかねえだろう」
本当はもちろん、寺本の倅は戦力外だろう。云百年前から積もった怨念の魔物など、孔蔵だって倒したことはないし、普通の人間が太刀打ちできるものでは到底ない。十馬はにこりと笑う。
「そうそう、それを聞きたかったの。でもね孔蔵さん、錆丸は色んな亡霊を山ほど食って多分城みたいにでかくなってるだろうから、あんたとおれだけじゃ、やっつけるのは難しいかも」
それを聞き、孔蔵は思わず眉を寄せる。
「あんたでも無理なのかよ」
十馬は頷く。
「孔蔵さん、きっとあんた、おれが持ってる鬼をいくつか見たんだろうけど、あれは全部、今のおれ一人じゃ使えないんだよね。まずは黒鬼の腕だけど、もう一人の誰かさんに取られちゃったみたいなんだ。ほら、だからあんたにも触れるよ」
そう言って十馬に手首を掴まれ、孔蔵は身を固くしたものの、彼に触れている十馬の皮膚からは、痛々しい音も煙もあがらなかった。
思わず目と口を開く。
うんうんと十馬は頷きつつ、にやついた。
「なんだかあんたがおれを触るの避けてるみたいだったから。じゃなくて触るのも嫌ってことだったのかな? 傷付くなぁ」
むむと孔蔵は眉を寄せると、声をあげた。
「いや、そうじゃなくて、魔物の話だろ。あんたがあの黒いの使えねぇってなら、そりゃ仕方ねえとしても、他にも色々あんだろ。白夜叉ってのはどうなんだ。俺ぁ見たぜ、あんたの髪が白くなって、本堂の屋根を梁ごとぶった切ったんだよ。あれも使えねえのか」
すると十馬の瞳が、一瞬どこか遠くへ向き、しかしすぐに戻ってきた。
「ああ、あれね。あんなのまで宋は引きずり出したの? よくやったねぇ。あれはね、おれが起きてる時は出ないんだよ。つまりあいつはおれに使えるような代物じゃないってことだけど、あいつは何でも壊すのが好きだから、出たら錆丸のこともぶち壊すと思うけどね」
孔蔵の頭の中が、慌てて回転を始めた。恐らく彼は今、重要なことを聞いている。
「白夜叉を出したのは宋どのじゃねえ。まあそりゃ置いといてだな、白夜叉はあんたに使えない? そういや、昨日
十馬は首を傾げて孔蔵の言葉を聞いていたが、首を振った。
「あいつは、凶鬼と同じようには落とせないよ。でも、あいつなら錆丸をやれるだろうから。で、孔蔵さん、こっからおれのお願いね」
「何だよ」
身構える孔蔵に構わず、十馬は喋る。
「おれ、蛾叉を取ったらあんたに渡すから、やっぱり錆丸がしぶとくてやばいと思ったら、その蛾叉でおれを突いてよ。そしたらおれは多分一回落ちるから、あんたの言う白夜叉が出てくると思う。もしかしたらもう一人の誰かさんが出るかもしれないしおれにはわかんないけど、今ならもう一人の誰かさんは、黒鬼の腕を使えるはずだから」
黙り込み十馬を凝視した孔蔵を見て、十馬は目を細めて、笑った。
「それ、その顔。どうしてそんなに悲しそうなの? おれ、嬉しくなっちゃうな。大丈夫だよ、おれは死なないし、おれを刺しても、あんたは誰を傷つけたことにもならないから」
まだ返事をせずに黙っている孔蔵に向かって、十馬は言った。
「頼むよ、孔蔵さん。あんた、あの若殿さまも無事に帰してやりたいんでしょ?」
にこりと十馬は微笑むと、孔蔵に背を向け歩幅を広げ、先を歩いている昂輝に追いついていった。
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