第45話 空虚の冠




 宋十郎そうじゅうろうには父と母がいた。

 母は彼に、「お前は人の主となるべく生まれた特別な子です」と言った。

 父は彼に、「お前は獣の子だから死ぬまで人間にはなれない」と言った。

 二人が等しく言ったことは、「だからお前は他の者と交わることはできない」ということだった。


 彼は物心ついたときから、何が嘘で何が本当であるのかに、特別な意識と関心を向けていた。その理由の一面は、彼が育った屋敷の中に、嘘をつく者がたくさんいたことだったかもしれない。

 子供にとって彼が育った屋敷は、とても広い世界だった。

 その中で最も力を持っている者が彼の母であり、最も途方に暮れているのが彼の父だった。

 父は当主であり家長として表向きは敬われているようで、実際には家の中にいる間、紙風船のように実体がなかった。

 まずその二重構造が、宋十郎が家の中で見つけた一番大きな嘘だった。そして屋敷の中が動く仕組みは、そこから派生したいくつもの嘘で組み立てられていた。

 彼にとって最も明らかで耐え難かった嘘のひとつは、家の者が母の前では、宋十郎を過分に褒めることだった。

 書写も、暗誦も、剣の稽古も、宋十郎は何一つ、兄の十馬とおまより上手く出来た試しがなかった。幼い彼はそれを悔しく思っていたが、何より腹立たしかったのは、家の者たちが事実を知っているくせに、「宋十郎さまは兄上よりよくお出来になる」と言うことだった。

 それが、幼い彼には心底疑問で、馬鹿にされているような気さえした。

 それに、この嘘を聞いた時の十馬と、十馬に学を授けている豊松とよまつの顔を、宋十郎は知っていた。二人は何も言わない。ただ、黙って去るのである。

 幼い宋十郎は、何度か抗議した。

「私より、兄上のほうがよくできる。お前たちも見ただろう。なぜ嘘を言うんだ!」

 すると彼は、取り乱して感情を顕わにしたことに対して、母から叱りを受けた。

 何よりも、彼に抗議の声を浴びせられた家の者たちは、疲れて呆然としたような顔をした。

 同じ事を何度か繰り返すうちに、彼は抗議することをやめた。


 宋十郎は、兄のことが好きだった。

 彼より四月年上の十馬は、彼と同じくらい小さいのに、色々なことを知っていて、大人から命じられたことは、だいたい何でも上手くこなした。

 何より十馬は、絶対に嘘をつかなかった。

 出来ないことを出来るとも、出来ることを出来ないとも言わなかった。

 屋敷の中にいくらでもあった、本当のことを言えない場面に出くわした時、十馬はいつも黙って去った。十馬は、何が嘘で何が嘘でないかだけでなく、宋十郎が嘘が嫌いだということも知っていた。

 宋十郎にとって十馬は、どんな大人よりも賢かった。


 賢い十馬は、父と母が宋十郎に呪文のように刻み込んだ「お前は他の者と交わることはできない」ということも、嘘か、あるいは取るに足りないたわごとだと見抜いていたのかもしれない。

 母は十馬に構わなかったが、いずれにしろ宋十郎に対するように、外出を禁じていた。

 しかし十馬は、ほとんど毎日のように屋敷の木に登り塀を乗り越え、外へ出掛けて行った。

 十馬は山へ行く時は宋十郎を置いていくが、屋敷から抜け出す時はいつも手伝ってくれた。

 宋十郎は屋敷を出たものの山へ行く十馬に置いて行かれた時、人目に付きにくい川沿いを通って、深渓みたにの村の家々を、裏口から覗いて回った。そんなことでも彼には緊張感を伴った冒険であり、交わるなと母に言われている庶民たちがどんな生活をしているのか、彼は常に興味を抱いていた。

 宋十郎は六つか七つの頃、おたまという、同じくらいの年の子供と親しくなった。

 ある時彼が、こっそり家の裏から農民の家を見ている時、裏手の小川から水を汲んで戻ってきたお玉に見つかってしまった。

「何してんの?」

 突然背後から声を掛けられ、幼い宋十郎は飛び上がった。

「わあっ」という声がこぼれ、思わず口を両手で抑えてから、彼は口ごもった。

 子供は、もう一度訊ねる。

「あんた、どこの子?」

 継当てだらけの薄っぺらい小袖一枚のお玉に対して、宋十郎は明らかにきれいな着物を着ていた。一瞬逃げ出そうかとも考えた宋十郎はうろたえたが、結局答えた。

「わ、わたしは、籠原かごはら宋十郎だ」

 今度はお玉が、「ええええっ」と声をあげた。

「かごはら? あんた、ご領主さまなの?」

 宋十郎は慌てた。

「わたしは、ちがう。父上が領主だ。わたしは、その子どもだ」

 なあんだ、とお玉はほっとした顔を見せ、宋十郎に微笑みかけた。

「そっかあ。あたしは、お玉だよ」

 宋十郎は、胸がわくわくと弾むような、初めての心地を感じた。

 彼は、農民と言葉を交わしたのも、兄以外の子供と話したのも、初めてだった。

「おたま」

 彼が、子供の名前を舌の上で転がすと、農民の子供はうふふと笑った。


 宋十郎はお玉に、彼が屋敷の外をうろついていたことや、お玉と出会ったことは誰にも言わないでほしいと頼み、子供は約束を守ってくれたようだった。

 宋十郎はこの時から時々兄について屋敷を抜け出すと、兄について山には行かず、一人で農家を見て歩くことが増えた。

 まだ随分幼いうちから家の手伝いをしているお玉とは、毎日会えるとは限らず、会えてもそんなに長くお喋りしていることはできなかった。

 それでも彼は、お玉と一緒にいる時間が好きになり、お玉のことも好きになった。

 しかしそのうち宋十郎は、お玉の家が、随分貧しいということに気が付く。言葉を換えれば、貧しいということがどういうことか、彼は徐々に気付き始めた。

 お玉は秋が深まってきても小袖一枚の姿で、いつも震えていた。冬が近付いて来ると、いつも腹が減ったと呟いており、事実、見るたびに小さなお玉は少しずつ痩せていった。

 ある日宋十郎は、屋敷で女中が出してくれた菓子を、懐に忍ばせてお玉へ持って行った。

 お玉は目の色を変えて菓子に齧り付いたが、半分も食べないうちにそれを袖の内側へ入れ、残りはお玉の母に食わせてやるのだと言った。

 そしてその翌日から、お玉は宋十郎の前に現れなくなった。あるいは彼を見かけると、黙って走り去ってしまうのだった。


 宋十郎は、悲しみを感じ、困惑した。

 お玉が彼と喋ってくれなくなった理由がわからず、でもどうしても知りたくて、兄に訊ねた。

 兄は言った。

「きっとお玉は家の人に、宋が持って行ったお菓子を誰にもらったのか聞かれたんだよ。でも、言えないから、家の人とけんかになっちゃったのかも」

 言われてみて、納得した。そして、さらに悲しみの底へ落ちた。お玉に沈黙を強いたのは、自分だった。


 冬が去り、春になっても、宋十郎はお玉のことを忘れられなかった。

 幼子にとって三月みつきを越える冬は長いが、それでも彼は、まだお玉に会いたかった。

 一度だけと決めて、彼はお玉の家へ行った。

 お玉はいつものように水を汲みに出ていて、彼はそのお玉の前に、立ちふさがった。

「お玉」

 何と言うのか、言葉すら用意していなかった。

 ただ、彼は、同じくらいの年の子供の前に立った。

 お玉は、冬に最後見た時よりも痩せて、ひどく汚れていた。

 その両目が大きく見開かれ、やがて水の膜がはり、涙がこぼれた。

「宋十郎」

 お玉が言った。

「おかあさんが、死んだ」

 宋十郎は、口を閉じたまま、言葉を失った。

 お玉は、喋る。

「秋から、病気だった。冬の間、もう長くないって思って、でも食べるものがなくて、あたしやおばあちゃんのごはんを取ったらいけないって言って、おかあさん、冬の川に飛び込んで、死んだ」

 痩せた子供の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。

 宋十郎は、喋れない。

「あたしたち、深渓を出る。くさなりへ行くんだ。宋十郎、あたし、あんたのおとうさん大嫌い。あんたのことも、大嫌い」

 お玉は駆け出し、彼の脇をすり抜けた。

 宋十郎は、金縛りにあったように、動けない。

 言葉も失ったまま、彼はそこに立ち尽くした。


 後日、宋十郎は兄に訊ねた。

 十馬は言った。

「宋、おれたちが食べてるごはんや、着てる着物を誰が作ってるか、知らなかったの?」

 宋十郎は知らなかった。あるいはどこかで聞いていても、理解していなかった。

 籠原は三蕊みしべが行う上埜うえのとの戦に繰り返し出兵し、戦のための兵糧を搔き集めるために、深渓の農民に重税を課していた。

 それでも籠原の屋敷の中では、母も侍女たちも美しい着物を着て、甘い菓子を食い、冬の間も火鉢の炭火が途絶えたことはなかった。

 宋十郎は、自分の家がお玉の家から奪っていった米を食っていることを、知らなかったのである。

 彼のまだ生きている母は、宋十郎に「人の主となるべく生まれた」と言う。

 お玉は、お玉のおかあさんを殺した彼を、「大嫌い」だと言った。

 彼は一体、何者であろうか。


 父朝十あさとみは、豊松を除けば、屋敷の中で十馬に笑顔を向ける、唯一の大人だった。

 十馬が、宋十郎の母の雪紀ゆきでなく、明霞あかという遊女の産んだ子であると宋十郎が知ったのは、十になる少し前である。

 明霞を愛し、その女が産んだ子を嫡子に据えたことは、朝十にとって、主家ともいえる三蕊からやってきた妻である雪紀に対して行った、唯一の反抗か、報復のようなものだったのだろうか。

 いずれにしろ、朝十は家の中にあった他の全てのものと同様、十馬のことも構わないものの、死んだ愛人の面影を残す長子には、柔らかい眼差しを向けた。

 一方で朝十は、二人目の息子を憎んだ。宋十郎には明確に、その自覚があった。

 父はいつでも彼を避けていたが、稀に二人きりになることがあると、何の前置きもなく、毎度同じことを言った。

「お前は獣の子だから死ぬまで人間にはなれない」

 宋十郎はこれを、彼が十馬と比べて何ひとつ優れたところのない愚鈍な息子であるがゆえの言葉だと思っていた。

 しかしそれだけでないと知ったのは、父が死んだ後である。

 しかもそれは、比喩でも何でもなかった。

 彼は領主の子であり、獣であり、それゆえに人と交わることはできない。

 運命とはなんだろうか。

 運命は彼に、嘘を吐かねば全うできぬ道しか与えなかった。

 いや、十馬なら、そんなことはなかったと言うのかもしれない。

 しかし彼は籠原宋十郎だ。

 愚鈍な嘘つきで領主の子であり、獣である。




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