第44話 奏でる舌は




 十馬とおまは本当に、柳坂やなざかで一番高そうな旅籠へ入った。

 そもそも女装であることはもちろん、着物が黒く汚れていることなど気にした様子もなく、十馬は堂々と高級宿へ入り、通りを見下ろせる部屋を借りたいと頼んだ。

 旅館の女将相手に、柔らかく微笑みつつ優しい動作で歩いて見せる十馬は、舞台役者にでもなったつもりだろうか。

 孔蔵くぞうは舞台なぞ見に行ったことはないが、女役まで男が演じることは知っている。しかし連れが坊主では笑えない。

 寒気を堪えつつ、孔蔵は役者気取りの後をついて細い階段をのぼり、二階の座敷部屋へ通された。

 夕餉だけでなく、十馬は酒と、風呂も注文した。

「体の傷とか跡とかがどんな具合になってるか見てみたいんだよ」

 そう言う十馬に、そんなもん部屋で見りゃいいじゃねえかと言いそうになり、口を噤んだ。

 考えてみれば黒くなった皮膚や傷跡など見たくもないし、天邪鬼から不気味な冗談が返ってきたらそろそろ拳を抑えられる自信がない。鬼や盗賊も怖いと思った憶えのない孔蔵だが、どうやら彼にも苦手なものはあるらしい。


 飯を食い終えた十馬が風呂に出て行って間もなく、隣の部屋から三味線の音色と、女が歌う端唄が聞こえてきた。

 高級宿であるからして、隣の客は芸妓を呼んだのだろう。

 ただで聞かせてもらえるとはありがたいと思い、孔蔵は唄に耳を傾けつつ、十馬が注文したものの飲まずに置いて行った酒を、手酌で飲んだ。

 外と内を遮るのは、格子窓とそれに貼られた薄い紙のみである。

 通りに面した窓を介して聞こえる音色は心地よい。

 やがてそれが止むと、女の声がした。

「もう一曲、お聞きになりますか」

 これは、芸妓だろう。対して、男の声が答える。

「うむ……いや、今夜はもう、止めておこうかな……、一人で飲んでも、酒も進まん」

「おや、それでしたら、わたくしがおりますのに。お酒のお供には、不足でございますか?」

「いや、そういうわけではないのだが、連日飲んでばかりでは、……しかし、陣明じんめいは遅いな。唄を頼んだのはあいつだろう。夜までには戻ると言っておったのに」

影貫かげぬきさまは、どこかへお出かけになられたのですか?」

 そこで、孔蔵は杯を傾けていた手を止めた。

 今、影貫と言ったか?

 それは確か、寺本の忍の名前ではないのか。

 全身耳になった彼が黙って座っていると、座敷の格子戸が開き、十馬が戻ってきた。

 宿で借りたと思しき寝間着に羽織を掛けており、括りもしない癖毛を肩にまとわりつかせている。

 部屋に入るなり、十馬は孔蔵の様子に気付いたらしい。

「どうしたの?」

 孔蔵は黙ったまま、隣の部屋に通じる壁を指さす。

 ああ、と十馬は口角を上げた。

「寺本さんでしょ。うん、さっき風呂行く時に聞こえた」

 なんだ知っていやがったのかと、孔蔵は十馬を睨みつける。

 斐日野いびのの宿で十馬には、そもそも奴が女着物を着る原因になった寺本とその忍の話は、聞かせてあった。

 十馬は孔蔵の隣で膳の上に置かれていた酒瓶を掴むと、そのまま部屋を出て行こうとした。

「おい、どこ行くんだ」

 天邪鬼は、にやりと笑う。

「忍はお留守?」

 孔蔵は眉を顰め、訊ねられていることの意味に思い至ると、頷いた。

「おお、そう言ってたな、今」

「じゃあ大丈夫」

 そう言って、十馬は振り返りもせずに部屋を出て行った。ついでのように、声が言う。

「よければ孔蔵さんも来ていいよ」

 意味がわからない。

 孔蔵は慌てて立ち上がるも、足踏みした。寺本にわざわざ顔を晒して何をするつもりなのか。

 しかしその間にも、隣の戸を開く音がする。開けたのは、無論十馬だ。

「はい、こんばんは、お隣さま。お一人ですか? ご一緒してよろしい?」

 孔蔵は結局、追いかけた。

 意味がわからないしどうなるかもわからないが、あの天邪鬼から目を離すのは危険に思えた。何が誰にとってどう危険なのかもわからないが。

 案の定、謎の若者の乱入を受けて、隣室の空気は白け切っていた。

 三味線を置いた芸妓はひたすら迷惑そうであり、若い侍の顔にも困惑しかない。このひょろっとした地味な男が、恐らく寺本とやらだろう。

 そして芸妓は先ほど紫檀楼で宋十郎そうじゅうろうと話したばかりの桜葉だが、もちろんここにいる誰も、彼らに共通の知り合いがいるなどとは思っていない。

「あいや、すまない。連れが失礼した」

 十馬の行動が作戦なのか何なのか知らないが、とにかくこの場ではこの迷惑野郎を回収するのが人として当然取るべき行動であるように思え、孔蔵は十馬の体に触れないように、羽織の袖を掴んで引いた。

 しかし十馬はそれを振り払うと、酔っ払いのような口調で言う。

「ちょっと、つまらないこと言いっこなしだよ。だって兄さん、こちらがどなたか、あんたご存じないんですか」

 そりゃあ寺本である。しかしそれを知っていると言ったらまずいだろう。

 口を引き結んだ彼の答えなど待たず、十馬はぺらぺらと喋る。

「寺本さまですよ、寺本さま。天下に号令する将軍家の正当な継承権を持たれる、寺本家の次のお世継ぎ。悪鬼を滅ぼす影貫を従えて、京の都にとどまらず、」

 そこで、寺本がやっと口を開いた。

「いや、私は、第一子の昂勝のぶかつではないのだが……」

 こいつは何を言ってるのかという、呆れと戸惑いの混ざった眼差しで、寺本の倅は偽の酔っ払いを見遣る。十馬は目を瞬きさせた。

「え? そうなんですか? 俺は噂で、今こちらに寺本家のお世継ぎさまと影貫が蛾叉がしゃ髑髏どくろを退治するために逗留してるって聞いたもので」

 寺本は眉を寄せ、ゆるゆると首を振った。

「いや、私は第四子の昂輝だし、第一、なんだその噂というのは……がしゃ?」

 寺本の向こうで、芸妓が口を開いたが、声を発したのは十馬のほうが早かった。

「そりゃあ旦那、今じゃ柳坂で宿を取った客は皆聞いてますよ。だって、あの寺本さまが影貫を連れて魔物退治に全国行脚あんぎゃされてるとなりゃ」

 へらへらと笑う十馬に、もう一度寺本が釘を刺す。

「いや、なんだその噂は。ちょっと待て、お前はどこの侍だ」

 やっと目の前の若者の胡散臭さを指摘する気になったのか、寺本は首を振りつつ人差し指を十馬へ向けた。十馬は答える。

「言ったって寺本さまがご存じだか。私は瑞城たまき家にお仕えする壺谷つぼや茂一しげいちの子で、一鹿いちかと申します。ほら、聞いたこともないでしょう」

 孔蔵だってそんな名は聞いたことがないし、十馬の創作である可能性のほうが断然高い。しかし寺本は、律儀にうーんと唸ったあと、首を捻りつつ呟いた。

「瑞城の……窪谷くぼや……重道しげみちか、そういえばおったな、惟人これひとどのの側近で」

 あははあと十馬が笑った。

「あ、覚えてらっしゃいました? そうそうくぼや。なら、話は早いですね。その窪谷の養子です。父の名前を憶えていただいていたご縁で、ご一緒させちゃいただけませんか。私の酌じゃあ飲めないと仰るなら、仕方がございませんけれど」

 くぼやしげみち? つぼやしげいち? うもやいげいち? よく聞こえなかったが、孔蔵は詐欺の現場を目撃しつつ、取るべき行動に迷っている。

 どういう理由で篭を追うのか知らないが、目の前の寺本は平凡で毒のないただの役人に見える。寺本という名家出身の上位武士であるにもかかわらず、偉ぶった感じがないのも、孔蔵には好もしく思えた。

 十馬が寺本を煮る気か焼く気か知らないが、黙って見過ごしていいのだろうか。

 彼と同じくらい困り顔なのが、仕事の邪魔をされている芸妓である。しかし若い娘は落ち着いた声で、二人の侍に声を掛けた。

「お席が賑やかになりましたから、楽しい歌でも奏でましょうか。ご要望はございます?」

 十馬の瞳がぐるりと娘を振り返った。

「そうだ、忘れてたよ。三味線があるんだね。ちょっとそれ、貸してもらえないかな?」

 寺本はふうと溜め息を吐くと至極どうでもよさそうに窓の外へ視線を外したが、芸妓の娘だけでなく孔蔵も、怪訝を隠さずに十馬を見つめた。







 行灯あんどんに明かりが灯っている。

 宋十郎は、一人板の間に座し、刀に油を塗っていた。

 刀の手入れはどこでもできるわけではない。できる時に行うのは、重要なことだった。

 桜葉は、彼の宿に現れなかった。

 代わりに言伝に来た男が平謝りしながら彼に伝えたところによると、桜葉は前の客、つまり寺本のもとから戻るなり熱を発して眠り込んでしまい、とても出掛けられる状態ではなくなってしまったらしい。

 一刻ほど前に見掛けた桜葉には不調の気配もなかった。不審な話だとは思ったが、男の胸倉を掴んで問い質したところで人を呼ばれるのがせいぜいで、男が真実を知っているとも限らない。

 柳坂の街に煙のごとく消えた篭と孔蔵といい、何かがおかしい。

 まさか、と、最悪の場合を考える。

 しかし、街の中を訊ね歩くにしても、夜が明けるのを待つしかない。

 宋十郎は、行灯の火を鈍く返す刃を見下ろした。

 紫檀したんろうの間口で、娘と交わした言葉を思い出した。


「私を宿へ呼んで下されば、影貫さまのこともお話して差し上げられます。お代は結構ですから」

 そう言った桜葉に、戸を開いた若い男が、眉を寄せた顔を向けた。

「桜葉さん、旦那さまの誤解を招くような言い方はおやめくださいね。貴女あなたのお給金をお断りしても、入り用になる金子きんすはそれだけではありませんから」

 すると、娘は男に吊り上げた瞳を向けた。

「そんなこと、百も承知です。ですからそのお代は、私が支払うと言ってるんです」

 宋十郎は、流石に眉を動かした。

「いや、そんなことまでは頼めない。そなたとて、その金子を得るために日々休まず働いているのだろう」

 すると、娘の顔が刃物のような真剣さを湛えて、彼を見つめ返した。

「お侍さま、お心遣いはまことに有難うございますが、遊女にも、義理や矜持というものがございます。沫鶴あわづる姐さんは、私には実の姉のような人でした。私は親に売られてここへ来ましたが、私が今日の私として今ここにまだ在れるのは、姐さんのおかげです。私は、恩人である姐さんを救ってくださった貴方さまへ、ご恩をお返ししたいんです。それに、お侍さま。貴方さまがお支払いになるその金子とて、お国の民百姓が、薄めた粥を啜りながら、納めたお米でございましょう」

 間口に突っ立ったまま、一息に娘は喋った。そして途端に、鋼のように硬質だった瞳が、涙の膜を張った。

 いよいよ焦れた様子の若い男が、敷居のすぐ向こうに立つ桜葉の肩をやんわりと押した。

「桜葉さん、」

 そこで、宋十郎は言った。

「話は、わかった。そなたを呼びたい。寺本氏の宿から戻ったら、話を聞かせてもらえまいか」

 彼を見つめ返した娘の瞳が瞬きして、娘は黙ったまま頷いた。


 瞳の色を変えた瞬間に娘の心を過ぎったのは、失った故郷か、二度と会えない姉遊女か、他の何かだったのか。

 あの娘が意思を変えたとは、彼には思えなかった。

 今頃は、妓楼も慌ただしい時刻だろう。

 いずれにしろ、日が昇るのを待つしかない。

 刃を見下ろす。

 眠れない夜は、長いだろう。




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