第42話 雑踏を辿り




 柳坂やなざかである。

 吉浪よしなみ以来、二晩ぶりに猥雑な生活の気配を感じられる場所である。日暮れ前の通りでは、まだ茶屋も問屋も暖簾を掲げている。

 孔蔵くぞうは、堂の中の静寂より、こういう場所のほうが人心地つくように感じる。やはり自分は、坊主には向いていないのかもしれない。

 彼は久し振りに疲れを覚えていた。

 考えてみると昨晩もあまり眠っていない。十馬とおま九兵衛きゅうべえに挟まれて寝ていたのだから、当然ともいえる。今思うと、あの状況でよく眠ったものだと、自分の無思慮さに感心する。昨日の峠で賊に切り付けられた背中が、今更のように痛んでいる。

 彼の斜め前を歩いている十馬の笠をのせた頭が、彼を振り返った。

「宿、いっぱいあるね。どこにする?」

「ああ……」

 孔蔵は通りを見回した。思考に沈んでいた意識が、視界に戻ってくる。

 張り見世の格子の向こうから、単衣を重ね着した遊女たちが、華奢な手をひらひらと振っている。娘の一人とうっかり目が合い、孔蔵は慌てて目を逸らすと、ぶるぶると頭を振った。

 案の定、前の十馬に目を遣ると、青年は口角を吊り上げている。

「色街は坊主には伏魔殿ふくまでんだね? あ、じゃなくてあんたにはか」

 ぶん殴りたい。なぜこうも苛つくのか。師に苦労をかけて三毒のじんだけでも退けたと思っていたのに、ここでこの餓鬼を殴っては元の木阿弥もくあみである。

 繁華街のどこかぬるく濁った空気を吸って吐くと、孔蔵は言った。

「あのな。もし遊ぼうと思っても、そんな金がねえよ。俺の手元にゃ自分の路銀しかねえし、先日からあんたと九兵衛の分まで俺が払ってんだ。このまま宋どのが追い付いてこなきゃ、本気で俺ぁ托鉢たくはつに行くしかねえ」

 すると、十馬は懐に手を突っ込み、小さな襤褸ぼろ袋を取り出した。青年が振って見せると、中で金物が鳴るがした。銭である。

 嫌なものを見る目で、孔蔵はそれを眺め下ろす。

 その彼の顔を見、十馬は口を開いて、笑った。

「さっきの大将から頂きました。さあ、これで今夜はご宴会だね?」

 十馬の金がどこから来たのか。

 坊主と女の二人連れは舐められやすいのか、彼らは柳坂に着く前にも、臺山だいざんで山賊に襲われた。

 十馬は女着物の裾を器用に捌き、六人いた山賊をそれこそ舞でも演じるように、瞬く間に斬り捨てた。孔蔵には出る幕も止める暇もなかった。今思い出しても、心底ぞっとする。

 六体もの遺体を街道のど真ん中に転がしておくことに抵抗を感じた孔蔵は、亡骸を道から外れた窪地へ引き摺ってゆき、申し訳程度に枯木と落ち葉で隠し、念仏を唱えた。

 その間十馬は街道の端に座り、彼の作業を眺めつつ、斐日野いびのの宿で持たせてもらった弁当を食っていた。どうやら孔蔵が見ていない間に、死体から財布を抜き取っていたらしい。

 一から十まで神経を疑う所業だが、十馬が鬼だと思えば納得するしかない。

 ところで、時々「腹が減った」「お前を食っていいか」とのたまう十馬が、弁当のついでに山賊の死体を齧り始めるのではないかと実は少し警戒していたのだが、とうとう青年は死体には手を出さなかった。人を食いたいと十馬が言うのは、何かの比喩か暗喩のようだと、孔蔵は考え始めている。

 十馬の指先に吊られた山賊の財布を睨むと、孔蔵は大きく首を振った。

「俺は腐っても坊主だ。盗んだ金は使わねえ。ついでにてめえにも使わせねえ。そいつを寄越しな」

 彼が手を出すと、十馬は眉を上げた。

「え、これも盗んだのに入るの? 使わないの? 勿体なくない? じゃあどうするの?」

「寺社に納めてお清めしてもらうんだよ」

 そう言って、孔蔵は十馬の指先にぶら下がっていた袋を掴み取った。

「あ、なんだ、坊主か神主に飲ませるのか。あははぁ」

 十馬が笑う。今のは本気でぶん殴りたかったが、孔蔵は自戒した。







 日が沈む前に、山賊の財布を町外れの寺へ持って行った。

 小さな寺だったが、応接してくれた老住職と元気の良い小坊主からは誠意を感じられたので、孔蔵はひとまず安心して金を納めることができた。彼には許しがたいことだが、十馬が言ったように、民衆から巻き上げた金で腹を肥らせている似非えせ坊主や似非神主がいるのも事実である。

 町へ戻る道すがら、孔蔵はふと、思い出したことを口にした。

「そういやあんた、何とかって鬼を落とすのに、宋どのがいたらできないって言ったよな」

 彼の斜め前を歩いていた十馬は、振り返らずに答えた。

「うん。だから斐日野もさっさと出てきたわけだけど。なに、財布男が戻らないならそろそろ托鉢しなきゃって?」

「そうじゃねえ。なんで宋どのがいると、鬼を落とせないんだよ。あんたが西に行く理由ってなんだ。俺がそれを手伝うなら、そんくらい知っといたほうがよくねえか」

 十馬は畦道あぜみちを歩きつつ、後頭のまま答える。

「じゃあ、孔蔵さんには、おれが知ってる一番簡単で大事な秘密を教えてあげます。一度しか言わないから、よく聞いてよ?」

 単衣姿が立ち止まり、黒い両目が、振り返った。

 孔蔵も足を止め、青年を見返した。

 十馬は単調に、一息に喋った。

「そこには三匹の魔物がいます。静かなものと古いものと強いものです。古いものは静かなものには強いですが、強いものには敵いません。でも静かなものが起きてる時は、強い者は近寄れません。強いものは昨日あんたに名前を教えたあいつです。静かなものは今宋がその一部を持ち歩いています。よって宋がいる場所にあいつは現れません。現れないと倒せないし落とせないよね。はい、この話はこれでおしまい」

 ぱんと両手を目の前でつと、十馬はくるりと体の向きを変え、もとのように歩き始めた。

 孔蔵は絶句した。

 言われたことを頭の中で反芻しようとする。まずい、話の後半しか思い出せない。

 しかし恐らく、もう一度訊ねても十馬は答えないだろう。

 足を動かして十馬に追い付くと、孔蔵は言った。

「なあ、宋どのがいちゃまずいってのは、それでわかった。で、なんで西なんだ」

 振り返らずに、十馬は答える。

「あいつはおれじゃ倒せないし、あんた一人でも絶対無理。だから、手伝ってくれる奴か道具か何か探さなきゃいけないわけだけど、それが西にありそうってこと」

「西って、京か」

「京か、その手前で手掛かりがあればいいなと思ってるけど」

「手掛かりって何だよ」

「それは、……今からこの街で探します」

 畦道は、いつの間にか両端に民家の立ち並ぶ通りへ変わりつつあった。その先に、柳坂の宿場町が続く。

「ここで?」

 孔蔵は眉を寄せ、笠を載せた頭を見下ろした。







 宋十郎が柳坂に辿り着いた時、既に西日は茜色を帯び始めていた。

 柳坂の前の斐日野では、孔蔵と篭らしき人物が、宋十郎が着く少し前に町を出たという話を聞いた。

 しかし気になるのは、話を聞かせてくれた旅籠の女将が、宋十郎が篭を形容した「背の高い女」という表現に対して、わずかに訝しげな表情を覗かせたことだった。

 あの二人が何か下手をして、変装だと見破られていたのかもしれない。篭は言わずもがなであるし、孔蔵も嘘やごまかしが得意な男ではない。あの二人で芝居を打てというのは、土台無理な話であったかもしれない。

 柳坂まで来れば流石に合流できるだろう。宋十郎は、柳坂の関所で身元を告げる際に、二人について訊ねてみることにした。

「先に進んでいるはずの主を探している。大柄な僧侶を連れているのだが、今日ここを通らなかっただろうか」

 すると、番所に詰めていた二人の役人は顔を見合わせた。妙な間が生まれる。

 役人の一人が言った。

「なあ、あれかな」

 もう一人が、頷く。

「あれじゃないか? ここ数日で坊主ったら、あの連中しかいないだろう」

 言い方に含みを感じ、宋十郎は眉を顰めた。

「……あれとは?」

 彼が訊ねると、役人は言いづらそうにしつつも、答えた。

「いや、確かに今日、でかい坊さんを連れてる貴人をお見掛けしましたが……」

「恐らく、若い殿方でしたが、女ものの着物を着て、笠を被ってらっしゃったので……お間違いありませんかね?」

 宋十郎は、うっすらと眉を顰めた。篭は笠を被っていたらしいのに、正体が割れている。声で気付かれたのだろうか。彼は溜め息交じりに言った。

「いや……確かめてみようと思う。助かり申した」

 篭と孔蔵が柳坂へ着いてから一刻も経っていないそうなので、この街のどこかに二人がいると見て、ほぼ間違いない。

 宋十郎は焦りを抑えつつ、確実かつ手短に済ませられるはずの要件を、先に済ませることにした。沫鶴あわづるから預かった手紙を、遊郭へ届ける。遊郭の名は、紫檀楼したんろうというらしい。

 宿場町へ入り、店仕舞い前の薬屋で紫檀楼を尋ねると、すぐに教えてくれた。

 夕暮れ時の通りを進み、教えられた通りに遊郭を見つけた。

 二階建ての建物に見世はなく、屋号を彫り込んだ表札と灯籠を掲げた建物は、女郎宿ではなかった。芸妓や遊女を呼んだ宿へ送る、置屋おきやというものだろう。

 立ち止まって戸を叩くと、間もなくして、若い男が戸を細く開いた。

「どちらさまでしょう」

「沫鶴という遊女から、手紙を預かっている。届け先は、こちらで間違いないだろうか」

 彼が答えると、戸の向こうで、駆け寄ってくる足音があった。

 女の声が言う。

「姐さんに、何かあったのですか」

 そう言って横から戸を引き開けたのは、若い女だった。

桜葉さくらばさん、」

 若い男が困ったように娘を見たが、娘は構わずに言った。

「沫鶴姐さんは、つい三日前、身請け先の吉浪に向かって発ったばかりでした。その姐さんから、なぜ手紙が届くのですか」

 この桜葉という娘は沫鶴と相当親しかったのだろう。心配を隠すことなく溢れさせた瞳を見下ろしつつ、宋十郎は答えた。

「沫鶴は、中山なかやま峠で賊に襲われ、一人だけ生き延びたが、傷を負ったので今は斐日野の旅籠に逗留している。沫鶴は吉浪にも手紙を書くと言っていたが、ここへの手紙を私に託した。詳しくはふみに書かれているだろう」

 宋十郎は懐中から手紙を取り出し、差し出した。

 桜葉は食い入るように手紙を見つめたが、若い男がそれを取った。

「怪我をしたって、どんな怪我ですか」

 諦めずに問うた桜葉に、若い男が眇めた目を向ける。

「桜葉さん、そろそろお仕度されたほうがよろしくありませんか。寺本さまのところは、次の時間でしょう」

 今度は宋十郎のほうが、男の言葉に反応した。

「寺本氏が、ここにいるのか」

 黒い瞳を瞬きさせた桜葉が、頷いた。

 宋十郎は、寺本の忍を篭へ近付けたくない。しかし寺本の主従が何を目的に篭を追ってくるのかは、知っておきたい。

 桜葉に訊ねたところ、柳坂に逗留している寺本氏は、現当主岳昇たけのぶの第四子昂輝のぶてるであり、陣明じんめいという名の忍を連れているという。聞く限り、彼が茶屋で見かけた二人組に間違いなさそうである。

 桜葉が客の名前を明かしたのは、宋十郎が沫鶴を救ったことに対する礼のようだった。そのくだりを、娘は彼から聞き出したのである。

 さらに娘は、金はいらないので後ほど宿へ呼んでくれれば、詳しい話を彼に語ろうと申し出た。

 話を聞きたい宋十郎は、呼ぶ先の宿は後で伝えることにして、桜葉の時間だけを先に買った。そうしておかないと、別の客に呼ばれた場合、芸妓はそちらへ赴かねばならない。

 約束を取り付け、紫檀楼を出た宋十郎は、宵の通りを歩いた。

 桜葉が寺本の宿で一席終えるまでに、孔蔵と篭を見つけ出し、宿を取って、宿の名前を紫檀楼へ届ける必要がある。

 孔蔵と篭が町へ着いた時刻からすると、もう宿に入っていると考えるのが自然である。柳坂には二十指で足りないほどの旅籠があるが、旅籠を順に当たってゆけば、恐らく二人は見つかるだろう。

 そう考えた宋十郎は、柳坂の旅籠を順に訪ねた。

 しかしである。二人らしい客を入れた旅籠は見つからなかった。

 残すは唯一、寺本が逗留しているという、町で一番大きな旅籠である。しかし明らかに予算外なので、彼自身はもちろん、孔蔵と篭が選ぶということはない。

 とうとう宋十郎は、悪い予感が嫌な実感に変わってゆくのを感じた。彼の予想を外れた何かが、起きている。

 旅籠だけでなく、食事だけを出す茶屋や酒家のような場所も、まだ暖簾を掲げていれば入って訊ねた。

 すると三件目の酒家で、大柄な坊主と、男か女かよくわからない旅人の二人連れを見たという給仕がいた。

 給仕の娘は、半刻ほど前に客を呼び込みに通りへ出て、二人を見かけたという。二人は何事か話しながら町外れへ歩いて行ったが、これより先には、ごろつき長屋と農家が数軒、その向こうには寺があるだけだと、娘は言った。

 そこで宋十郎は、紫檀楼へ彼の宿を伝えなければならない刻限が近付きつつあることに気付いた。

 彼はやむなく一度捜索を諦めると、適当な旅籠で部屋を借り、紫檀楼へ使いをしてくれるよう、宿の者に頼んだ。




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