第41話 畜生の理




 夜が明けた。

 孔蔵くぞう十馬とおまと旅支度をしている。

 そう感じる根拠は不明だが、丸め込まれたように、孔蔵は感じている。

 十馬は、自分に憑いている金色の鬼、凶鬼まがおにと呼ばれており、撫斬なでぎりという名を持つものを落としたいので、その手伝いをしろと彼らに言った。

 そう、彼らである。遠夜忍の九兵衛きゅうべえは、なぜか未だに彼らと一緒にいる。

 実は妖物らしい若者は深刻な顔で黙り込み、明らかに何か考え込んでいる様子である。理由は、孔蔵には想像もつかない。

 孔蔵は、遠夜えんやの魔物である九兵衛を倒すか、少なくとも縛り上げてどこかの寺に放り込んでおくべきかもしれないが、なぜかそうしていない。

 この遠夜忍は、先日の雨巳とは明らかに違う。九兵衛の不安定な佇まいは、自分が何者かもわからずに河原で呆然としていた、幼い頃の自分を思い起こさせた。拳を振るうのは簡単だが、彼はその前に、闘うべきものが何であるのか、見極めねばならない。

 金色の鬼を落とすための手掛かりは、十馬曰くやはり西方にあるらしい。

 ところで昨晩の十馬は、一通り喋ってから立ち上がろうとし、自分が女着物を着ていることに気付いて、なんだこれと爆笑した。

 爆笑したが、着替えは買うしかないと聞くと、じゃあこれで構わないと言った。

 鬼になりかけているということもあるのかもしれないが、人を食ったような態度といいそういう反応といい、孔蔵は今のところ、この青年が苦手である。

 旅籠を出ようとして、彼らはそれぞれ荷を負い、草鞋を履き直した。少し離れたところで、刀くらいしか荷物のない九兵衛が、置き物のように突っ立っている。

「宋どのを待ったほうがいいんじゃないか」

 彼が言うと、単衣を着て笠を被った十馬は、唇の両端を上げて笑った。

「宋がいるとね、凶鬼は落とせないんだよ」

 孔蔵は、眉を寄せた。

「どういうことだ」

 十馬は答える。

「物事には仕組みや順序や相性ってものがあるよね。そういうこと」

 ますます、孔蔵は眉を寄せた。説明になっていない。

「だから、どういうことだよ」

 すると十馬は、今度は顔で笑った。

「答えてもいいけど、おれ鬼だから、嘘の答えを言うかもよ?」

 孔蔵は今度こそ、眉だけでなく、唇を曲げた。

 そこへ、水筒と弁当の包みを抱えた、旅籠の女将がやってきた。

「お待たせいたしました」

 十馬はにこりと微笑むと、その包みを受け取った。

「ありがとう」

 垂衣越しに笑いかけられた女将が、にこやかに笑顔を返す。孔蔵は眉を寄せたままである。

 女装も、あそこまで堂々としていると突っ込まれないのかもしれない。まあ、金さえ払ってもらえれば文句は言わないのが商売人である。

「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

 女将が腰を折り、十馬は頭を下げて会釈すると、歩き始めた。無言の九兵衛が、その後に続く。

 まだ仁王立ちしている孔蔵を、十馬が振り返り、首を傾げた。

「孔蔵さん、来てくれないの?」

 首裏から背中から、全身の毛が逆立ったように感じた。

 徐々に孔蔵は、このいかれた天邪鬼を問答無用でぶん殴りたいという衝動を感じつつある。

 舐めた野郎を見ると殴りたくなるというのは、過去彼が悩まされ、青春の後半を費やして克服した病である。

 これは魔羅マーラというやつだ。

 薄笑いを浮かべている鬼だか青年だかと距離を取りつつ、彼は歩き始めた。







 昨夜、峠道で女を助けた宋十郎は、女を斐日野いびのまで送り届けた。

 正確には、斐日野の手前で夜が更けてしまったため、町外れの農家で一宿いっしゅくを借り、翌朝斐日野に辿り着いた。

 彼が助けた女は、柳坂やなざかの遊女で名を沫鶴あわづるといい、吉浪の侍に身請けされたため、駕籠に乗って吉浪へ向かう最中だったらしい。

 足を痛めた沫鶴に歩くことは難しく、ただし農家に長逗留するわけにもいかないので、宋十郎は再び女を背負い、斐日野の宿まで歩いた。

 斐日野の町で適度な旅籠を見繕って、そこへ沫鶴を送り届けた。

 女はそこで、柳坂の妓楼ぎろうと吉浪の愛人に宛てて、それぞれ手紙を書いた。事故があったので迎えと金を寄越してほしいというものだ。

 宋十郎は、妓楼宛ての手紙を預かった。柳坂は、これから西へ進む道程にある。

 沫鶴は、宿を出る宋十郎を間口まで見送り、言った。

「旦那さま、最後までよくしてくださって、まことに有難うございます」

 床に座した女は整った所作で、深く頭を下げた。

 なぜかそのとき宋十郎は、自分は礼を受ける者ではないように感じた。

 彼は考え、答える。

「……どうか、達者で」

 彼の言葉は、明らかに足りていない。

 沫鶴はそれでも、柔らかく微笑み、言葉を返してくれた。

「お達者で」

 宋十郎は頭を下げると、宿を出た。

 彼は通りを進み始める。篭と孔蔵を探さねばならない。







 斐日野の町を出た三人組は、再び峠道に入っていた。この辺りは山が多い。

 孔蔵は、自分の数歩前を歩く十馬に目を遣った。

 足取り軽く、十馬は歩いている。久し振りに現身うつしみを得、現世の空気を吸うのが嬉しいのだろうか。

 彼がいくら想像しても無駄かつ無意味なことなので、孔蔵はすぐに考えるのをやめた。

 それよりもと、彼は斜め後ろを歩いている、こちらも物怪らしい若者へ目を向けた。

 九兵衛は理由も言わず彼らについてくるが、まさか十馬が俺の部下になれと勧誘したからではあるまい。遠夜当主と九兵衛が瓜二つであると十馬が言っていたが、その辺りが理由だろうか。籠原も何かと怪しい家だと孔蔵は思い始めているが、いわんや遠夜もである。

「おい、九兵衛」

 孔蔵は歩みを落とし、九兵衛に並ぶと、遠夜忍に声を掛けた。

 もともと彼は、沈黙が得意ではない。そして十馬と話すよりは、九兵衛のほうがましに思えた。孔蔵は昨夜の宿で、山賊に切られた背の傷を手当したが、それを手伝ったのは、九兵衛だった。

 地面を見ながら歩いていた九兵衛は、顔を上げ、彼を振り返った。

「え?」

「お前、どうして俺たちについてくるんだ」

 九兵衛の狐目が開かれ、ぐりぐりと孔蔵を見つめ返した。

「どうしてって……」

「お前、遠夜の忍なんだろう。それとも十馬が言ったみたいに、遠夜から籠原に鞍替えしたのか」

 すると、九兵衛は一度黙り込んだものの、目を吊り上げ、孔蔵を睨んだ。

「お前に関係ねえだろ」

 孔蔵は眉を上げた。

「関係なくないだろ。こうやって一緒に歩いてるんだ」

 どうにも話が噛み合わない。

 篭もそうだが、人間のふりに慣れていない妖物と話した時に、経験したことがあった。それらの者たちは本来、人とは違う暮らしやことわりに生きている。当然とみなすことや異常と捉えるものが、同じとは限らない。

 孔蔵は訊ねた。

「なあ、お前、何歳だ」

 九兵衛の眉が、寄せられた。伝わっていないようなので、孔蔵は言葉を変える。

「どのくらい前から、今の姿をしてるんだ」

 眉を顰めたまま九兵衛は迷い、しかし結局、答えた。

「……春からだ」

 目を丸くして、孔蔵は訊ねた。

「ってことは、四月よつきか、六月むつきくらいしか経ってないってことか?」

 ぎょろりと、九兵衛が孔蔵を睨み上げた。だから何だと言いたげである。

 篭よりましだが、道理で言動が不自然なわけだと、孔蔵は納得した。狐か狸にしても人間を化かすには、まだまだ知識と経験が必要だろう。

 昨晩彼の背を縫った時も、九兵衛はそれを、良いとか悪いとか何かの駆け引きに使えるからしたというより、一晩寝食を共にしている奴に頼まれたのでただ従った、という様子だった。また、そういう九兵衛だったから、孔蔵自身、物怪に頼もうという気になったと言える。

 もしかしたらこの九兵衛は任務の最中などではなく、単に里を抜け出してきた迷子なのではないか。雨巳は見掛けによらず強かな女忍だったが、こんな間の抜けた忍もいるとは、ますます遠夜がわからない。

「ははは、そりゃあまだ、新米ってこったな」

 思わず彼が笑うと、九兵衛はさらに彼を睨みつけた。

「俺は、朔部さくぶの刀使いだ。新米だからって舐めるなよ。刀を抜いたらお前みてえなでくの坊、一瞬でなますにしてやるからな」

 確かにそれは事実かもしれない。孔蔵が呪文を唱えるより、九兵衛が長刀を抜く方が早いだろう。しかしそれをする気があるのかないのか、悟られていては先手は打てないのではないか。

「そうかもな。で、お前は何の妖物なんだ。今は人の姿をしてても、大体元があるだろう?」

 彼を睨んでいる九兵衛は問いを無視するかと思いきや、素直に答えた。

「俺は、猟犬だった。今はこの依代よりしろを使ってるが、それでもお前らみてえな人間よりは、ずっと強いし速い」

 うんうんと孔蔵は頷いた。その依代が、九兵衛は見たことのない遠夜充國に似ているということになる。確かに、妙な話である。

「なるほどな。なあ、雨巳って知ってるだろ。あいつは、何の妖物なんだ」

 興味ついでに聞いてみると、これには九兵衛は首を振った。

「知らねえ。あいつは俺のずっと前から九裡耶くりやにいる」

「蛇を使うだろ?」

「だからってあいつ自身も蛇とは限らねえ」

「まあ、そうだよな。なあ、あいつはもう、篭どの……あの十馬を、狙ってないのか? それともお前と雨巳以外にも、別の奴が追っかけてきてんのか」

 それに対しては、九兵衛は黙ったまま明後日の方を向いた。程度と事情はよくわからないが、まだ九兵衛は遠夜忍のままなのだろう。孔蔵は肩を竦めた。

 しかしどんな忍が来ようと、今そこを歩いているのは、篭でなく十馬である。

 孔蔵は湫然しゅうねんで暴れ回った十馬を見ている。単体ならば、遠夜忍より、十馬のほうが性質たちが悪いのは明らかである。怪我の手当ても、十馬に手伝わせようとは思いつきもしなかった。

 すると、黙って彼らの会話を聞いていたのだろう十馬が、前置きもなく声を発した。

「あー、腹減ったなあ」

 孔蔵は無視する。すると、天邪鬼がくるりと振り返った。

「孔蔵さん、団子か何かない?」

「ねえよ」

 彼は即答した。

 十馬が、口角を上げる。

「九兵衛かあんたを食っていい?」

 孔蔵は思わず声音を下げた。

「妖物も坊主も、鬼にゃ不味い飯なんじゃないのか」

「まさか。美味そう。特にあんた」

 孔蔵は眉を歪め、鼻から溜め息を吐いた。苛つく餓鬼ではあるが、一発拳骨げんこつ食らわせたところで、奴は笑うだけだろう。

 すると、歩みを緩めた十馬が近付いてきた。

 来るな来るなと思いつつ、孔蔵は口を引き結ぶ。

「ちょっと聞きたいんだけどさ」

 そう言った十馬の言葉は、九兵衛に向けられているようである。妖物は、十馬に目を向けた。

「昨日の、充國が君にそっくりっていう話の続きでさ。東鷗とうおう慈爺じじのことはわかる?」

 孔蔵は耳だけで聞く。彼の知らない名前が出てきた。

 九兵衛は、明らかに不安そうな面持ちになり、答えた。

「一回だけ見たことあるけど、あの魔術師がなんだよ」

「多分、君を作ったのはあの爺さんだと思うんだよね。九兵衛は、自分がどうやって作られたか、覚えてる?」

 次に飛び出したのは、これまたいかれた質問である。

 そう思った孔蔵が九兵衛を見ると、こちらもぎょろ目で、十馬を睨み返している。

「そんなん、覚えてねえよ」

 考える前に、孔蔵は口を挟んでいた。

「妖物って、作れんのか」

 十馬は、斜めに彼を見上げた。

「うん。遠夜に作れる奴がいるんだよ。というより、最近作れるようになったのかな? で、九兵衛がどうやって作られたのかわかったら、充國が次に何を仕掛けてくるのかわかるかもと思ったんだけど」

 するともしや、遠夜には作られた九兵衛が大量にいたりするかもしれないのだろうか。しかし、妖物を作るのに自分に似せるとは、遠夜充國は目の前の天邪鬼以上にいかれているのではないか。しかも充國は鬼になりかけてもいない人間ではなかったか。

 まだ大量の九兵衛を見たわけでもないが、先にその人間を退治すべきなのではと、孔蔵は早くも思い始めた。

 するとその時、九兵衛と十馬の顔がほぼ同時に上がり、上り坂の先を見つめた。いつの間にか、彼らは峠道に差し掛かっていた。

「どうした」

 孔蔵は訊ねた。十馬は相変らず読めないが、九兵衛の全身から漂っているのは、明らかな緊張である。

 先の木々の間に、二つの人影が降り立った。

 一人は、忍装束の雨巳である。そしてもう一人は、鍛え抜かれた体格の、しかしひどく顔色の悪い男忍だった。

らい

 雨巳が、低く抑えた声で言った。

 九兵衛が体を強張らせた。

 一方で、男忍が話した。

「籠原十馬どの」

 十馬が、にいと口角を吊り上げた。

半鐘はんしょう、久し振りだね。ちょっと痩せた?」

 男忍は一瞬間を空けたものの、十馬の戯言を無視して端的に答える。

「……貴方には、後日再びお目にかかる。今日は、そちらの忍を引き取りに伺った」

 九兵衛の全身から、不安が立ちのぼり始めたのを、孔蔵は感じた。

 何より、半鐘とやらの数歩後ろに立つ雨巳が、射殺しそうな目付きで九兵衛を見つめているのが気にかかる。

 対して、能面よりも表情の薄い半鐘が言った。

「來、この件はお前には重荷だ。お前の仕事でもない。こちらへ来い」

 來と呼ばれた九兵衛が、ぐりぐりと見開いた狐目で、二十歩先の半鐘とやらを見つめ返す。

 沈黙が流れる。

 もう一度、雨巳が言った。

「來、こっち来な」

 再び沈黙。

 決断したように、九兵衛が跳ねた。

 九兵衛が跳んだのは、二人の忍の方向ではなかった。

「逃げろ、九兵衛」

 十馬が、笑いながら言った。

 若者の姿は木々の間に沈み込み、孔蔵が気付いた時には、九兵衛を追った二人の忍も既に消えていた。茂みの中を駆ける音が、遠ざかっていく。

 それを、孔蔵は呆然と見送るしかなかった。

「さよなら、九兵衛」

 独り言のように言った十馬の声が、彼の鼓膜の底に残った。







 雨巳は山中を駆けている。

 彼女の前を走るのは半鐘、その前方に來である。

 來はもともと、彼女と半鐘より遥かに強い足を持っている。しかし森を抜けた回数は、半鐘にも雨巳にも遠く及ばない。

 逃げろ來。

 雨巳はそう念じながら走っている。

 ここで半鐘の足を引っ張ることもできる。

 しかしそれをする時は、半鐘を殺す時である。

 半鐘を殺せるだろうかと考えて、蛇を使えば可能だと考える。

 有秦ありはたから遠く離れた榁川むろかわ領で半鐘は一人だ。上手く始末すれば、遠夜に知られるまでの時間稼ぎもできる。

 しかしまだ、時期ではないと感じる。

 來が逃げ切りさえしてくれれば。

 その時、左手の方角から急速に近づいてくる、刺すような殺気を感じた。

 殺気は、纏いつくような重い気を伴っている。

 影貫かげぬきだと、雨巳は気付いた。

 なぜ?

 疑問を抱くと同時に、雨巳は武器を構えた。蛇を呼ぶための両手である。それが早いか、前方の來の正面に、袴姿の男が飛び出してきた。

 既に刀を抜いた、影貫である。

「ひいふうみいの三匹な」

 袴も刀も忍び歩きに適しているとは言えないが、影貫は息乱した様子もなく、歌うように言った。

 驚愕を示す半鐘の目が、雨巳に向けられている。尾けられたなと責めている。信じられないし一体いつから尾けられていたのかわからないが、雨巳自身もそう思う他ない。

「妖二匹、人一匹」

 刀は右手に握ったまま、影貫は左手を振った。それが、雨巳が蛇を立ち上げるよりも刹那早かった。

 雨巳は突如両腕を引き千切られたように感じ、激痛と衝撃のあまり、駆けていた足を縺れさせた。吹っ飛び倒れ、落ち葉の上を勢いよく転がる。

 痛みで呼吸困難に陥りながら、点滅する視界の中で体を確かめた。両腕も両手も十指もついている。ただ、そこにあるように感じない。

「雨巳!」

 來が叫ぶのが聞こえた。

「來、下がれ」

 半鐘はそう言いつつ背に負っていた双剣を抜き、影貫に斬りかかった。

「おや」

 影貫は、既に抜いていた刀でそれを受ける。

 半鐘の双剣は、交互に敵を襲う二本の剣のそれぞれが、両手持ちの一刀の如き速度と重さを持つのが強みである。実際に影貫は防戦一方となり、徐々に足場を後退させてゆく。

 その影貫の背後に、紫の炎を纏った長刀を振り上げ、來が斬りかかった。

 刀を握ったままの影貫が、大きく上半身を反らせた。今や影貫の顔面に向かって長刀を振り下ろそうとしている來に向かって、唇を尖らせた影貫が何かを吹き付けた。

「ぐぁっ」

 短く声をあげた來が、見えない敵に体当たりを受けたかのように、後方に吹っ飛んだ。

「んんん!」

 半鐘が唸り、食らいつくように踏み込んだ。腹を見せている影貫を二本の剣が追う。影貫は刀を手放しながら地面に倒れて転がり逃れる。刹那の差で、半鐘の双剣が地面の草を搔いた。

 転がりながら、影貫が右の拳を握った。離れた場所で地面に落ちた來が、呼吸が引き攣れるような音を発した。

 わずかの間、半鐘の意識が來に向いた。その隙に影貫は跳ね起きる。しかしそこへ、半鐘が斬りかかる。

 刀を拾う間のない影貫は、紙一重で半鐘の剣を躱し続けていたが、とうとう一撃がその胸を薙いだ。

「んうっ」

 呻いたものの、影貫は着物の下に、鎖帷子くさりかたびらを着込んでいたようである。

 それよりも、背後で引きつった呼吸を繰り返していた來の体が、ふと静かになった。

 來の体が起き上がる。しかし來は長刀を捨て、四つ足で地面の上に立っていた。


 雨巳はやっと、点滅の収まってきた視界で、奇妙な姿勢の來を睨んだ。

 このままでは三匹揃って影貫の餌食になる。

 地面に縫い付けられたような体を起こそうと、雨巳は全神経を集中させた。

 体を裂かれるような痛みが走る。腕の感覚は戻っていないが、彼女は地面の上で体を転がすことに成功した。

 四つ足の來が駆け、半鐘に跳びかかった。四肢に紫色の炎が灯っている。半鐘が目を剥いた。

 迷う間もなく、半鐘は交差させた剣で來を防いだ。來の生身の腕に刃物が切り込む。同時に、紫の鬼火は瞬く間に双剣を覆った。

 咄嗟に半鐘が剣を捨てる間、両腕を刻まれた來はぐるるああと唸り声をあげて跳び退った。赤い血が、落ち葉の上に滴る。

 雨巳は歯を食いしばり、両目を閉じた。

 彼女は術を行うのに両手を使うが、あれは力を呼ぶための舞であり、儀式のようなものだ。しかし強力な術者は、術を行うのに儀式も呪文も必要としない。

 自分にもできないか。するしかない。雨巳は念じた。蛇の声を聞くだけでなく、蛇と彼女の力の源に、彼女の意思を届ける。

 半鐘が取り落とした双剣が、紫の鬼火に焼かれ、みるみるうちに錆びて腐れた。半鐘は腰に巻いていた鎖鎌を取る。四つ足で歩き、忍を睨みつける來の口から漏れるのは、唸り声ばかりである。

 刀を拾った影貫が、目を細めた薄笑いのまま、優雅ともいえる動作で刃を鞘に収めた。

 影貫がふと、足元を見下ろした。一匹の蛇がするすると、落ち葉の上を這い寄ってくる。

 収めたばかりの剣を影貫が抜いたのと、蛇が鎧武者となり立ち上がったのは、同時だった。

 術を行った雨巳は目をうっすらと開いた。頭が冗談でなく、割れそうに痛い。

 武者の剣を受け止める影貫に、鎖鎌の分銅を振りながら半鐘が駆け込んで行くのを見た。

 煙が漂っている。どうやら半鐘は來相手に爆薬を使い、僅かな時間を稼いだようだ。

 暴発音も、雨巳の耳には届いていなかったらしい。頭痛のあまり、腕どころか首から下の感覚も失せている。

 半鐘と武者、双方から交互に斬りかかられる影貫は、それでもよくそれを防ぎ躱していたが、とうとう堪りかねたように大きく退がると、体の向きを変えて飛ぶように駆け去った。

 再び立ち上がった來が、半鐘に跳びかかる。來は全身に火傷を負っているが、痛みなど気にしている様子はない。

 振り返ったばかりの半鐘に、鎖分銅を振るだけの間合いは残されていない。そこへ飛び出してきた武者が、來の体当たりを食らって紫色に燃え上がった。

――ごめんな。

 雨巳は、彼女のために死んでゆくものを見送る度、本当はいつも心の中で唱えていた。

 亡骸はつもってゆく。

 それらのものを犠牲にしてまで、彼女は何のために生きるのだろう。

 韋駄天が必死に守っているものが何か、あと少しでわかる気がしている。

 それを知るまで、死にたくない。

 來、死ぬな。

 雨巳の意識は、白く溶けた。




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