第40話 そら言を繰る
旅籠の格子窓の外には、もう宵闇が広がっている。
頭の中では災害が起きている。
峠道で声を掛けてきた不審な青年は、
「
首を傾げ、訊ねた篭の顔には、感情の気配がない。
それを見た孔蔵は感じた。目の前の青年は、彼が知っている燕の半妖怪の篭ではない。
彼より先に、充國と呼ばれた九兵衛が反応した。
「は? 充國?」
こちらも心の底から混乱しているのがありありとわかる様子で、九兵衛が言った。
篭ではない青年は、傾げた頭をそのままに、言う。
「充國……じゃない?」
「そんなわけねえだろ」
九兵衛は斬り捨てるように言った。しかしその言い方にも、孔蔵は何か違和感を覚えた。
篭でない青年はもう一度問う。
「ええ……じゃあ誰?」
九兵衛は一度口籠り、やはりどこか不自然に名乗った。
「九兵衛だ」
「きゅうべえ」
篭でない青年は
一対の黒い瞳は、黒いびいどろのようだった。孔蔵はなぜかぎくりとした。
「あんたは?」
問われて、彼は答えた。
「……俺は、孔蔵だ。あんたは」
すると、青年は口の両端を上げて、笑った。
「
わかっていたのに、背に冷や水を浴びたように感じた。
孔蔵が言葉に迷っているうちに、十馬は続けて喋った。
「君らは、宋……
ひとまず答えるしかないと思い、孔蔵は頷いた。
「俺は、そうだ」
「宋十郎はどこにいるの?」
「宋どのは、事情あって、今別行動を取ってる」
「ここはどこ?」
「えっと……
「近畿に向かってる?
「京へ向かってる。なんだ、あんた、俺らがなんで旅してるのか、わかるのか」
思わず訊ねてしまった。
十馬はまた唇で笑うと、少し目を細めて孔蔵を見遣った。
「ううん。思いついたから、聞いただけ。宋十郎は、おれが化物だって君たちに話した?」
予想外の質問を投げつけられ、孔蔵はまたも返答に迷った。
九兵衛は狐目をぎょろぎょろさせながら、無言で彼と十馬の顔を見比べている。居合わせただけの若者に、聞かせていいものだろうか。
孔蔵は迷った挙句、頷いた。
「む、ああ。鬼が憑いてるって言い方をしてたが……」
「おれの鬼を見た?」
孔蔵は、隣で床の上に膝を突いている九兵衛を見た。
視線を受けた九兵衛は振り返るが、無言で彼を見つめ返しただけだった。何を考えているやら、さっぱりである。
二人を観察するように黒い瞳を向けていた十馬が、言った。
「九兵衛も、化物だよ」
なに、と孔蔵は声をあげた。
九兵衛が、びくりと硬直し、しかし次の瞬間には人間離れした速度で部屋の隅まで跳び退った。背負っていた長刀の柄に手を伸ばしている。
なんてこった。孔蔵は呆然とすべきか印を組むべきかの判断もつかず、十馬と九兵衛を交互に見た。十馬が喋る。
「九兵衛、君は
九兵衛の唇がわななき、若者は、明らかに警戒した様子で、答えた。
「俺は、遠夜の忍だ」
なぜか十馬が、あははと笑う。
「だよね、そうだと思った」
背筋に冷たいものを感じた孔蔵は、十馬に向かって何が可笑しいのかと問いたいのを堪え、九兵衛に向かって言った。
「
九兵衛はぎょろぎょろと孔蔵と十馬を見つめ、低く抑えた声で言う。
「遠夜忍は雨巳だけじゃねえ。おい十馬、お前目が覚めたなら、なんでお館さまに挨拶に来ない」
すると、十馬はまた首を傾げた。
「おれは、今目が覚めたんだけど。たぶんさっきまで起きてたのは、別の誰かじゃないかな? なんだ、充國が挨拶に来いって言ってるの?」
「挨拶に来いとは言ってねえ。ただ生きてるお前を、お館さまはご所望だ」
十馬はまた嗤い、傾げていた頭を、天井を仰ぐように反らした。
「それは無理だって、何度もあの人に言ったんだけど。九兵衛、君、充國に実際に会ったことないでしょ?」
黙り込んだ九兵衛が、ぐりぐりと見開いた狐目で十馬を睨みつける。十馬は可笑しそうにそれを見返しつつ、喋った。
「じゃあもし会ったら、それはできませんって言っといてよ。じゃなきゃ君もう、遠夜の忍なんてやめたら? 代わりにおれのために働きなよ。九兵衛は何が欲しいのかな?」
唐突な勧誘と質問に、九兵衛の顔が明らかに混乱を表した。孔蔵も同じく混乱を感じている。
この会話はどこへゆくのだろうか。根拠はわからないが止めるべきであるように感じ、孔蔵は言葉を挟んだ。
「おい、ちょっと待て。充國って言ったが、あんたはなんで遠夜があんたを狙ってるのか、わかってんのか」
十馬は九兵衛を金縛りにさせていた両目を忍から外すと、孔蔵を振り返った。
「まあ……多分? 知ってても、追い払えないけどね」
「あんた、自分に何が憑いてんのか、わかってんのか」
「ううん……多分? 全部じゃないかもしれないけど?」
「じゃあ、そいつらが憑いてる理由もわかってんのか」
それは、彼の師である
彼の思考が硬直している間も、十馬は答える。
「まあ、大体? でも多分全部じゃないし、わかったからってどうにもならないことも多いけどね。なんだ、君はおれに憑いてるものを落としてくれるの? それともおれを落としに来たの?」
実際あんたも鬼扱いだ、そう言ったものか迷い、孔蔵は一瞬口を閉じた。その隙にも、彼を観察し続けている十馬は喋る。
「じゃあ、鬼を落とすのを手伝ってくれる? 名前を聞きたい?」
なぜか孔蔵は、身構えた。壁際の九兵衛も、同じく硬直したままだ。
本能的に、その名を聞きたくないと彼は感じた。しかし彼の口は制止の言葉を紡ぎ出せず、十馬の舌は止まらない。
「鬼の名前ね、
*
すっかり日は落ち、森も山も闇に沈んでいる。
女を背負って峠道を下り続けてきた宋十郎は、肩が軋み、膝が笑うのを感じていた。
昼過ぎに
夜闇に紛れて山賊が現れないとも限らず、今夜のうちに
野宿は、彼にはどうにかなっても女には辛かろう。どうしたものかと考えながら、ただ動く足を前に進めていたところ、下り坂の終わりに広がる畑の中に一粒、人家の明かりを見た。
そこから一軒家までの道のりがまた随分と長く感じられたが、宋十郎は家の前まで辿り着いた。恐らく農家であろうが、茶屋を兼ねているらしく、大きな玄関の表には暖簾の掛具が見て取れる。
背負われている女も疲れ切っているようだが、彼の肩の後ろで、頭を上げる気配がした。
宋十郎は戸を叩き、声をあげた。
農家の老夫婦は戸を開けると、若い侍と、侍に背負われた女を見て、二人を家へ招き入れた。
老夫婦の息子の嫁が湯を沸かし、女の足を診てくれた。
足はやはり
その間に老夫婦の息子が、夫婦の寝室を空け、彼らのために客間を用意してくれた。
しかしいざ部屋に入ると、客間に敷かれていたのは、明らかに夫婦のためのものと思しき大きな布団が一組である。
これは誤解だと農夫に訴えることもできるが、それをすれば恐らく、あの老夫婦からも今晩の寝室を奪うことになるのだろう。
先に部屋に入った彼が突っ立ったまま閉口していると、足を痛めた女と、それを助ける嫁が歩いてきた。
「どうぞ、ゆっくり休まれてください」
女の方も、部屋の中に入ると目を瞬きさせていたが、嫁は彼らの反応など気にした様子もなく、穏やかに会釈すると襖を閉めた。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、宋十郎は溜め息を吐いた。
女に向かって、言う。
「私は部屋の隅に座って眠るので、難しいかもしれないが、気にせずに眠るといい」
女の顔が彼の方を向き、小さな唇が言う。
「ですが……」
艶のある女である。
仮に二組に別れた布団が並べられていたとしても、何となく同じ部屋で眠るとは言い辛いように感じる。先日の雨巳の時とは、事情も違う。
「他家の奥方か、輿入れ前の娘であるなら、見知らぬ男と同衾はできぬだろう」
言ってから、随分無粋な口をきいたと、宋十郎は省みた。
すると、女は柔らかく微笑んだ。
「わたくしは、遊女でございます」
女は痛めた足を労わるように、しかし優美な仕草で着物の裾を払いながら、布団の端に腰を下ろした。
それで着物や化粧の説明がつくと、宋十郎は納得した。斐日野の先には
「遊女がなぜ、
立ったまま、彼は訊ねた。女は答える。
「旦那さま、遊女が
「室に望まれたということか。ならばそなたは、花嫁だ」
そう言いながら、宋十郎は部屋の隅へ行き、壁際に腰を下ろした。疲れ果てているのは事実である。
腰の刀を外していると、女が言った。
「室とは言いますけれども、我が殿となられる方は既に三人の奥方と、五人のお子をお持ちです。わたくしは、閨室の飾りにすぎません」
女の目が、薄暗い行灯の明かりを眺めた。
「……しかし、花嫁は、花嫁ではないか」
彼には、他に言葉が見つからなかった。
女は問うた。
「旦那さまの、奥方さまのお名前をお聞きしてもよろしゅうございますか?」
拒否する理由が見つからず、彼は答えた。
「伊奈という」
着物の裾を撫でながら、女は言う。
「伊奈さまは、幸せなかたですね。あなたさまのようにまことのある殿方が、夫君であらせられるなんて」
その言葉を聞き、彼は胸の辺りに、靄がかかったように感じた。
女の言葉は甘く柔らかいが、彼の中で、何かが鳴っている。
彼は言った。
「伊奈は、幸せではない」
女が、顔を上げて彼を見た。
なぜですかと問われる前に、彼は言っていた。
「伊奈は、別の者を想っている」
なぜそんなことを、会ったばかりの女に向かって言ったのか、彼はわからなかった。会ったばかりの女相手でなくとも、彼はその事実を、今まで言葉にしたことすらなかった。
女は哀愁の籠った目を見せたが、同時に、微笑んだ。
「あなたさまにも、想うお方がいらっしゃるのですか」
彼は迷い、しかし、首を振った。女が問う。
「あなたさまを想う女をお探しになろうとは、お思いにならないのですか」
もう一度、彼は首を振った。
「身の丈以上のものを望むことに、意味はない。どれだけ何を尽くしても、得られないこともある。私にできるのは、与えられたものを、できる限り守ることだ」
それすら、思った通りには叶わない。
言葉の続きを、彼は飲み込んだ。
何かが、軋んでいる。先ほど茶を飲んだばかりなのに、喉の奥が、妙に乾いた。
すると女は、深い黒の両目で彼の瞳を見つめ、優しく微笑んだ。
「旦那さま。……わたくしは、いつかきっと伊奈さまが、あなたさまを心の底から想う日が来ると、そう思いますわ」
その言葉は、彼にはまことのように聞こえない。
女はまことではなく、優しさを言葉にしたのだろう。
女を求めた男は、その優しい言葉にひかれたのではないか。
何かが軋み、呼吸を重く感じる。
そなたの夫となる者は、恐らく心からそなたを想っているはずだ。
そう言おうとして、しかし、彼は
心から想うとは、どういうことだろうか。
行灯の明かりの中で黒く濡れたように見える女の目は、彼には読み取ることができない。
その男は、そなたのことを心から想っているはずだ。
彼はそう言いたかった。
しかし、疲れ切って乾いた舌の上では、それは言葉にならなかった。
*
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