越境

第39話 迷い旅の道連れは




 目の前で篭が地面の上に崩れ落ちるのを、孔蔵くぞうは信じられないものを見るように見つめた。

 魔物、青年、正体はわからないがとにかくろうは、盗賊頭を庇って槍に刺された。いや、篭が庇ったのは彼だ。篭は、彼に殺させまいとしたのだ。

 孔蔵は誰へのものともつかない、煮えるような怒りと失望を感じた。

 彼は武器を持ち歩かない。なぜなら武器は印を結ぶのに邪魔になるし、彼は己に殺生を禁じている。地元の下町では、素手の闘いで彼に勝てる者はおらず、言ってみれば、両手の拳が彼の武器だった。しかしそれを通すことができていたのは、彼が街の外へ出て、明日も知れない落人おちゅうどたちと本気で命の取り合いをしたことがなかったからだ。

 では彼は、殺すべきだったのか。いや、それこそ篭が、何に代えても彼に望まなかったことではないのか。

 わからない。

 だが今は、省みている暇はない。

 孔蔵は屈み込むと、篭の顔を覗き込んだ。

「篭どの、おい、聞こえるか、篭どの」

 触ることができないので、傷も脈も診ることができない。仮にできたところで、黒い泡を吹く魔物の体をどう扱ったらいいのかもわからない。いずれにしろこんなところで立ち往生していても危険しかないので、できることなら篭を抱えて峠を下りたいが、触れないのでそれもできない。

 尽くす手が見つからず躊躇しているうちに、篭の右肩と腹の傷の泡は落ち着いてきた。どうやら表面上は傷が塞がってきたのだろう。しかし、篭が青褪めた瞼を開く気配は全くない。

 こういう時、名案の一つも思い浮かばない己の頭が恨めしい。着物の裾を掴んで引き摺るしかないのかと途方に暮れそうになった時、山道の向こうから、落ち葉を踏む足音が近付いてきた。

 咄嗟に孔蔵は捨てた槍を拾い、足音に向かって振りかぶる。

 道の先に、小袖の上に長刀を背負った若者が立っていた。

 坊主に睨まれ、若者は狐を思わせる切れ長の目を瞬かせた。

 地を這うような低音で、孔蔵は言った。

「何用だ」

 若者は、二、三度瞬きを繰り返すと、どこかぎこちなく言った。

「あ……俺は、通りかかっただけだ。旅をしてる。なあ、お前らは、どうした」

 孔蔵は、眉を寄せて若者を睨んだ。

 若者は、逞しいとはいえずとも成長した手足を持っているのに、話し方と佇まいに、妙な不安定さがある。何より、安っぽい小袖を着流している割に、背に負った長刀は珍しい型の立派な逸品である。その有様も酷く、不自然である。

 実はこの若者は、黒装束と狗面を脱いだ遠夜えんや忍のらいだが、孔蔵は來を見るのは初めてである。

「見てわからんか。賊に襲われたのだ」

 孔蔵は答えてから、篭の着物が黒く汚れているのを隠すべきだったかと焦りを感じた。赤い左目は瞼の下に隠れているが、傷口が黒いのを不自然と思われれば、魔物だと悟られてしまう。

 しかし篭が化物であることなどとっくに知る來は、気にする様子もなく槍を向けられたまま、地面の上の篭を見下ろした。

「こいつ、死にかけてんのか」

 ぐっと言葉に詰まってから、孔蔵は首を振った。

「いや」

 すると、若者は、妙に軽い調子で言った。

「もしかして、お前一人じゃ運べないから、困ってんだろ」

 孔蔵は再び眉を寄せた。

 確かにその通りなのだが、彼のがたいで一人で運べないと肯定するのも、妙な話である。しかし一方で、事情は明かせない。

 若者は喋った。

「じゃ、俺が運ぶの、手伝ってやるよ」

 愛想笑いのような顔が、何か動物を思わせる。孔蔵の肚の中で、こいつは妙だと勘が騒いでいる。だが同時に、それは今の彼に最も必要な申し出だった。

 孔蔵が答えを返す前に、若者は勝手に歩み寄ってくると、倒れている篭の前に屈み込んで、軽々と意識のない体を担ぎ上げた。

「じゃ、行こうぜ。ええと、こっち……か?」

 若者は、孔蔵と篭の進行方向であった西方を指す。

 不審極まりない男だと孔蔵は思ったが、彼では篭を運べないのだから、助けを借りる他ない。

 孔蔵は頷いた。







 峠道を下り、田畑の間を抜ける間、孔蔵は奇妙な若者に素性を訊ねた。

「お前、名は何ていう」

 篭を担いでいる若者は、少し間を空けて答えた。

「……やの、きゅうべえ」

 九兵衛きゅうべえとやらに、孔蔵は続けて問いを投げかける。

「なんでこんなところを、一人で歩いてるんだ」

 また間が空き、九兵衛は答えた。

「あー……武者修行の旅だよ。俺の刀、見えんだろ?」

「妙に長い刀だな」

「ああ、……親父が刀鍛冶なんだよ。俺は侍じゃねえけど、腕が立つからって、里を出て腕を磨いてんだ」

「で、どこの出なんだ」

 まるで役人のように訊ねた孔蔵に、九兵衛は答える。

「あー……瑞城たまきの、田舎だよ。言っても、お前知らないと思うぜ。榁川むろかわの役人にゃ、内緒な」

 ふむと孔蔵は頷いた。返答がいちいち遅いのが気になるが、若者は今のところ妙なことは言っていない。彼は言った。

「俺は、孔蔵だ」

 九兵衛はうんと頷くと、ぎこちなく笑った。


 西に向かって峠を下れば、斐日野いびのの町に着く。

 時刻は夕暮れ時に近づいており、孔蔵は篭を担いだ九兵衛を連れ、部屋を貸してくれる旅籠を探した。

 宿は見つかったものの、怪我人がいると見ると、宿の亭主は慌てた様子で言った。

「うちじゃ、湯くらいしか用意できませんよ。近所に寺がありますから、そちらへ行かれたらいかがですか」

 孔蔵が坊主であることもあって亭主はそう言ったのだろうが、彼は首を振った。その寺の者が、篭が物怪だと気付いてなお、彼らを受け入れてくれるとは限らない。

 九兵衛に篭を板の間に運び入れてもらうと、彼らは篭を薄い布団の上に横たえた。

 孔蔵が篭の笠や自分の荷物を部屋の端に下ろしている間、若者は篭の上に屈みこむと、まじまじと患者を見下ろした。

 九兵衛は黒く汚れた着物の肩と腹を指さして、言いかける。

「これ、」

 それを遮るように、孔蔵は言った。

「おい、九兵衛。ここまで本当に助かった。もう十分だ。俺は傷を診にゃならんから、お前はどこへなりとも行って構わんぞ」

 瞬きした九兵衛は、笑顔のようにも見える曖昧な表情を浮かべると、言った。

「俺、まだこいつのことが心配なんだ。他に手伝えることってねえのかよ」

 見知らぬ、まだ口を利いたこともない、しかも女装している男の怪我人をそこまで心配してやるとは、この若者は随分と情の厚い男ではないか。いや、嘘にしたって胡散臭いだろう。理由が何であれ、このまま九兵衛に居座られては困る。

 すると、地面の上に転がされていた篭の指先が、ひくりと動いた。

「あ、起きたぜ」

 九兵衛が言い、孔蔵は篭を見下ろした。しまった、左目を隠さなければいけない。

 慌てた孔蔵は床に置いたばかりの市女笠いちめがさを掴むと、大股で篭と九兵衛に歩み寄った。

 笠は間に合わず、彼の目の前で、横たわっていた篭が上体を起こした。

 篭の両目は開いており、しかし、その両目が黒かった。

 孔蔵は口を引き結ぶ。

 黒い両目を瞬きさせ、篭は孔蔵を見、九兵衛を見て、狐目の顔に視線を止めたまま、首を傾げた。

充國みつくに?」

 孔蔵はなぜかその瞬間、目の前の青年が篭でないと悟った。

 だとすればこの青年は、籠原かごはら十馬とおまだ。







 宋十郎そうじゅうろうは一人、夕暮れ時の薄闇に沈みつつある峠道を急いでいた。

 瑞城間者の疑いをかけられて一度吉浪よしなみ城の牢へ投げ込まれたものの、最終的には事情を説明して釈放された。彼からすればそれは当然だとしても、少々時間を取られてしまった。

 篭は扮装させてあるし孔蔵という供もおり、遠夜忍への警戒もひとまず不要と考えられる今、それほど懸念材料はないはずである。それでも不安を凶兆のように感じるのは、彼の性格故だろうか。いずれにしろ一刻も早く追い付こうと、彼は足を急がせていた。

 先ほど鹿響かびこの茶屋で訊ねたところでは、昨晩はでかい坊主と背の高い女が隣の旅籠で一泊していったとのことだったので、遅くとも明日には二人に追い付けるだろう。

 宋十郎は夜闇の中でも視界に不便を感じない。一晩中でも歩き続けることはできるが、夜が更ければ人間相手に情報を集めることはできないので、二人を追い抜いてしまうかもしれない。夜更け前に斐日野の町くらいへは、辿り着きたいものである。

 延々と続く山道を登り、恐らく峠の折り返し地点に届いたのだろう、道の傾斜が緩やかになった辺りで、ふと、声を聞いたような気がした。

 深い森の中に続く道の左手は、ほとんど崖と呼んで差し支えない急斜面である。その急斜面に杭を打ち込んだように木々が立ち並ぶ薄闇の間に、さめざめとすすり泣くような女の声が聞こえる。

 妖か生霊の類かと疑いたくなるような状況だが、あいにく彼の五感ははっきりと、この先に生きた人間と死んだ人間がいることを伝えてくる。

 早足をそのまま進めれば、山道の上に、駕籠かごとそれを担いでいたと思われる男二人の亡骸が転がっていた。少し離れた場所には、護衛と思しき浪人風の男も倒れている。荷や武器の類は全て持ち去られているようなので、盗賊の集団にでも襲われたのだろう。

 すすり泣きは、左手に続く崖の下から聞こえる。

 もう日が落ちようとしており、彼は先を急いでいる。

 聞かなかったことにして過ぎ去るべきだろうか。

 しかし、足がひとりでに、歩調を緩めていた。

 孔蔵と篭ならば、声の主を探すのではないか。

 彼は迷った挙句、立ち止まり、左を向いた。

 道の端に歩み寄り、ほとんど崖のような斜面を見下ろす。

 薄暗い斜面の少し下、距離にして七、八歩ほどだろうか、斜めに幹を伸ばした木の根元に、赤い着物の女が引っ掛かっていた。木の幹に腹を乗せ、両腕で幹を抱くようにしている。

 あの女が、そこに転がっている駕籠の乗り手だろう。

 宋十郎は細く溜め息を吐くと、下に向かって声を発した。

「おい」

 すすり泣きが止み、赤い着物の女が、青白い顔を上げた。

 彼は訊ねた。

「落ちたようだが、怪我はないか」

 掠れた涙声が答えた。

「足が……右の足が動かないのです」

 落ちた時に、折ったのか挫いたのか。いずれにしろ、自力で上がってくることはできないのだろう。

「今下りてゆく、動かず待っていろ」

 そう声を掛けて、宋十郎は背負っていた荷を下ろし、腰に差していた太刀と脇差を帯から抜いた。

 しかし、無事に女を引き上げられるかと自分に問うと、確信はない。歩いて七歩と、七歩の距離だけ崖を下って登るのは、わけが違う。女を襲った賊も、あの位置では引き上げられないと諦めて去ったのではないか。賊ならば、いくら女や金が欲しくても、命を賭けてまでそれをしようと思わない。

 だが、孔蔵と篭なら、何としてでも女を引き上げようとするだろう。

 宋十郎は土から突き出た岩や木々の幹を足場としながら、崖だか斜面だかを、這うようにして下りていった。


 土の表面を埋める雑草や羊歯類に邪魔されながらも、ゆっくりと壁面をくだり、宋十郎は女が引っ掛かっている木の隣まで辿り着いた。

 ふと見下ろすと、斜面は底の見えない薄闇の中へ延々と続いている。

 彼は短く溜め息を吐くと、不安に溢れた目で彼の動きを見守っている女の方へ、顔を向けた。

「今から、お前のすぐそばの細い木に足を移すので、私の背に移れ。私は両手を使えないし、その木は二人分の体重を長く支えられないかもしれないので、すると決めたら迷っている暇はない。できるか?」

 女の顔は恐怖で蒼褪めていたが、他に方法がないことはわかり切っている。女は頷いた。

「では、行くぞ」

 むしろ自分自身に言い聞かせるように宋十郎は言うと、右足を女のすぐそばから生えている、細い木の幹に移した。案の定、弱い根が既にぐらつくのを感じた。

 女が引きつったような息を吐き、幹を掴んでいた両腕を伸ばすと、思い切って宋十郎の背中の着物と肩を、それぞれの手で掴んだ。

「ううっ」

 女はありったけの力を振り絞っているのだろう、呻き声を上げながら、それでも何とか彼の背にしがみ付いた。両腕が彼の首にかかる。首を絞められ呼吸が詰まったが、宋十郎はそのまま腕と足を動かし、斜面を這い登り始めた。足をかけていた細い木は、彼が足を上げた瞬間に根元から抜け折れた。

 既に、辺りは宵闇の中に落ちている。

 半ば呼吸困難に陥りつつも、宋十郎はひたすら足場を確かめ、手足を動かすことにのみ集中した。随分長い時が経ったように感じたが、彼はとうとう女を背に張り付けたまま、崖を登り切った。

 平坦な道の上に戻るなり、女はやっと彼の首を離し、地面の上に座り込んだ。彼も落ち葉の上に膝をつき、全身で息をしながら、何度か咳をした。

 意識して呼吸を静めつつ、彼は刀を帯に差すと、女に向かって言った。

「足はどうだ」

 女は首を振る。華やかな柄の着物を着、顔にも化粧を施している。芸妓か何かだろうかと、宋十郎は思う。

「動きません」

 彼は頷くと、荷を背でなく腹に結び付けつつ、もう一度言った。

「私は斐日野へ向かう。そこまで送ってゆくが、それでも良いか」

 女は繰り返し、頷いた。

「ありがとうございます」

 宋十郎は再び女を背に負うと、夜闇に落ちた峠道を、二本の足で下り始めた。







 雨巳あまみは夜の森の中、木々の間を渡っていた。

 半鐘はんしょうからからすが送られてきた。伝書によると、來の痕跡を見つけたので一度戻れと言う。

 呼び出された先は斐日野である。山から見下ろせる人家の明かりが途切れた辺りに、崩れかけた祠堂しどうがあった。近頃はどこへ行っても、こういった廃墟を目にする。

 屋根が半分崩れ落ちた拝殿の中に、半鐘はいた。雨巳が近付いた時には、既に立ち上がっていた。

「寺本はどうだ」

 彼女の顔を見るなり半鐘は問う。もちろん雨巳は、この男から挨拶や世間話を聞けるとは期待していない。

「ん。聞いてきたわな。どうやら影貫かげぬきが付いてるのは寺本の四男坊で、組織だって動いてるっつうより、当世の戦に使いどころのねえ影貫を持て余してるご様子だわ。夏納を潰してえって御所が頻々ひんぴん密使を地方に送ってるって話も、西じゃ皆さんご存じのようだけど、その辺りとも関わりあんのかもな」

 半鐘は頷いた。

「影貫が十馬を追う理由は、武器として使うためか」

「どうやらそうね」

「影貫は、遠夜に仕えぬか」

 雨巳は眉を上げた。その発想はなかった。

「ねえんでないの。影貫はその昔御所が作った忍で、代々御所に仕えてっし、いくら遠夜で重用されたとしても京以外の場所に骨埋めてえと思わねえんでない。四男坊とも仲良くやってるご様子だし」

 半鐘は自身が人間のくせに、時にまるで人間を見ない。それがこの男の弱みでもあるのだが、まあ、雨巳は人の弱みが好きである。

「で、來は」

 何やら思案し始めた様子の半鐘の横顔に、声を掛ける。半鐘は答えるまでに、わずかな間を挟んだ。

「……今は、十馬とあの坊主の供をしている」

「はああ?」

 思わず、盛大に眉を歪めた。

 そんな彼女の態度を咎めるよりは肯定する面持ちで、半鐘は続けた。

「詳細はあとで話すが、今日の昼頃、十馬と坊主が中山なかやまとうげの中腹で賊に襲われた。來はそれを助けに入り、九兵衛などと名乗ったうえ、今は連中と斐日野の宿に入っている」

 雨巳はひたすら驚き呆れた。

 あの來は、今更飴玉作戦を、しかも一人でやる気になったというのだろうか。あの餓鬼は、人間のふりをできるほど、人間の常識や世知を身に付けてはいない。今頃はもう正体を見破られ、坊主に消し炭にされているのではないか。

 彼女の表情を見て、半鐘が頷いた。

「來は必要だ。明日になり連中が宿から出たら、回収に向かう」

 雨巳は顔を元に戻すと、半鐘を見遣った。

「なあ、それ、やらせてくんねえか? まだあんたは連中に面割れてねえっしょ。隠せるもんは隠しといたほうがいいんでないかと」

 半鐘の目が細められ、雨巳を見つめ返した。

 さあ望部頭領よ、どう出る。




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