第38話 早く深く
面倒なことになった。
信じ難いことに、
二人の姫君に
しかし問題は、その取り調べの役人が、いつまで経っても現れないことであった。
やっと人が現れたのは、夜も更け亥の刻を過ぎた頃である。
こんな刻限にも役人が立ち働いていることに驚きを感じつつ、話を聞くと、どうやら彼が牢へ投げ込まれたことは、正式な記録に残っていなかったらしい。経緯を確認するのにあれこれ人を捕まえて訊ねて回るうちに、随分時間がかかってしまったとのことだった。
部屋を移され、いよいよ取り調べが始まった。
しかし膝の上に石を乗せられたり、頭を水桶に突っ込まれたりするわけでなく、床に座らされ、役人に質問を投げかけられただけである。
どこから来たのか、何者か、なぜ、どこへ行くのか。
彼は、彼の
宋十郎の説明は、内容としては十分であり、目の前の役人も、間者を疑うよりは課せられた仕事をやむなく消化している態度だった。
しかし、役人は何度も同じような質問を繰り返し、挙句、「お前が、
では、有秦まで人を遣って照会すればいいと彼が言うと、役人は曖昧に言った。
「瑞城領か
宋十郎は悟った。
この役人は、取り調べの結果が何であろうと、二人の姫が連れてきた容疑者を牢から出すことができないのである。案の定、訊ねてみると、元泰と主だった重臣たちは明日まで留守だという。
この役人の上司が戻ってくるまで、ここで座って待てと言うのか。
宋十郎は怒りを通り越して途方に暮れそうになったが、そんな時間は彼にはない。
咄嗟に思い付き、彼は役人に言った。
「一つ訊ねるが、私の荷物はあるか」
深夜の当直に疲れている様子の役人は、今はもう床几に腰掛けていたが、頷いた。
「あるぞ。それがどうした」
「私の荷の中に、
役人は怪訝そうな顔をしていたが、無実の罪で牢に繋がれている田舎武士を気の毒にも思ったらしく、朝を待って届けようと請け負ってくれた。
*
翌朝の、まだ早い刻限だった。
全くもって賭けでしかなかったが、
「こんなところで妾を呼びつけるのは誰かと思えば」
半地下の牢の床に座り、一応両手首を背中で縛められている彼を見て、薛香姫は夜空のような瞳を丸くした。
「なんとも愉快な男だな」
「……かたじけない」
姫の背後では、役人と姫の従者が、二人の会話に耳を傾けている。
薛香姫は喋った。
「瑞城の間者だと嫌疑をかけられているそうだな」
「その通りだ」
宋十郎が頷くと、薛香姫は顔を役人に向け、言った。
「この男は、瑞城の手の者ではない。妾が瑞城領を抜け出すのに手を貸したのはこやつだからな。あの簪は、その礼にくれてやったのだ」
役人は、ばつが悪そうに首を上下させた。
「左様でございましたか……」
「妾では証人に不足か?」
「い、いえ、滅相もございませんが……」
どうにも歯切れの悪い役人に向かって、薛香姫は、問い詰めるというよりはただ会話を楽しむように、訊ねた。
「うぬの主は、二人の奥方と榁川
役人の泳いでいた目が、姫を見つめ返した。薛香姫は続ける。
「うぬが無罪の侍を牢に繋ぎおくことで、泥を被るのは誰の名前か」
役人は不安に緩んでいた口元を、引き結んだ。薛香姫は、もう一度問う。
「元泰どのは、そんな汚名に相応しい主か。そんな些事に割く暇をお持ちなのか」
とうとう役人は首を振ると、ぼそぼそと言った。
「この男は、瑞城の間者ではありません」
薛香姫の顔が、明かりを灯したように笑う。
「妾も、そう思う。妾は隣国からの客にすぎぬが、うぬの証人だ。その裁定にどなたかがお怒りになったら、妾を呼べ」
深く頭を下げた役人は、釈放にも手続きが必要だということで、一度その場を辞した。
役人が去ると、宋十郎は姫に向かって瞼を伏せ、言った。
「礼の言葉もない」
彼を振り返り、薛香姫は笑った。
「気にするな、どうせ退屈しておったのだ。それに、縄をかけられてまで簪を返しに来てくれたとは、礼を言うのはこちらのほうぞ」
冗談は、宋十郎の不得手である。
言葉を選び損ねた彼が返す前に、姫は続けた。
「しかし、あれはうぬの主にやったものだったのだが」
宋十郎は、瞬きした。
またも彼が遅れた間に、姫は喋る。
「まあ、よい。それならばと思い、引き換えにこれを持ってきた」
薛香姫は帯の端に指を差し入れると、飾り模様の入った眼帯を取り出し、それを宋十郎の左目に掛けた。
姫君の両手が近付くとともに反射的に開いた彼の口は、しかし結局声を発さなかった。
言葉が見つからないまま、宋十郎は左の視界を塞がれる。
姫は彼から離れ、完成した隻眼の武士を見ると、はははと笑った。
「うぬはあまり、盗賊には見えぬな。恰好いい綽名をつけてやろう。
すると、薛香姫の背後で静かに立ち続けていた侍が、窘めるように、低く声を発した。
「……姫さま」
ははと、薛香姫は笑いを切る。
「すまぬ、うぬの腕が縛られておるゆえ、他に思いつかずにな。無礼をする気はなかった」
宋十郎は、頷いた。
ふと思い出す。
稚気に溢れた害のない冗談も悪戯も、遠い昔、彼の兄が、弟相手にしたものだった。
「感謝する」
彼が言うと、姫は微笑んだ。
「なんの」
そして、姫君を辛抱強く待ち続けている、従者の方へ足を向け、歩いてゆく。
部屋を出る間際に、振り返った。
「あとで、借りた着物も届けさせよう。隻眼の若君に宜しく伝えてくれ。
にやりと笑った白い顔が、戸口の向こうへ隠れた。
あの姫君はそれが彼の名でないと、どうやら勘付いているのだろう。
しかし姫君にとって彼の名は何だろうと構わず、返ってくる見込みのない貸しを作ることも、あの姫君は厭わないのだろう。
宋十郎は左の視界を遮られたまま、細く溜め息を吐く。
あとは、彼を釈放してくれる役人を待つばかりである。
*
出ると聞いたら大体出るのが盗賊なのだと、篭は学習しつつあった。
篭と孔蔵は、
着物の上に汚れた
「坊さん、荷と女を置いてきな。五対一じゃ、流石に分が悪ぃだろ」
垂衣と前髪の奥で、篭は眉を上げた。
男は数え間違いをしている。彼らは二人だ。しかしすぐに、どうやら自分は五対一の一でなく、荷物として数えられているのだろうと思い当たる。
孔蔵が言った。
「汝ら、賊なんぞに身を
孔蔵が言うと、山賊たちは口々に述べた。
「若い坊主に、何がわかる。俺らも食わなきゃなんねえんだ」
「畑を耕しても戦で燃される。獲れた米も侍が持ってっちまう。俺の家内と娘はな、雑兵どもに乱暴されて殺された。この世こそが畜生道だ。それなら畜生みてえに生きるしかねえ」
仲間の口上を聞き終えないうちに、五人のうち槍を持った男が、痺れを切らしたように駆け込んできた。
「くっそ」
唸る孔蔵の声を、篭は聞いた。同時に彼は思い出していた。
今まで賊に出くわした時、彼のそばには刀を持った宋十郎や
孔蔵が言った。
「篭どの、走れ!」
その時にはもう、槍の男が孔蔵に向かって凶器を突き出していた。坊主は見かけによらず素早く体を反らし、突き出された槍を避ける。槍の男を追うようにして、他の四人も駆け込んできた。
篭は踵を返すと、脇目も振らずにもと来た道を駆け始めた。山賊の三人が孔蔵へ向かい、二人が篭を追ってくる。
走るだけなら、彼は人並みの人間にはほとんど負けない。しかしそれは、足が自由に動けばの話である。裾の窄まった単衣では、足はいつもの歩幅で走れない。女の人たちはなぜこんな着物を着ているのだろうと、この時になって篭の疑問はますます深くなった。
「止まれ、でねえと斬っちまうぞ!」
追いかけてくる賊の声が背後に迫る。
こうなったら、とぶしかない。目撃者となるのは、五人の賊と孔蔵だけである。
賊が篭の背に飛びかかると同時に、彼は地面を蹴った。
しかしいつものように膝を開こうとして、それにも失敗した。篭は悟る、女着物を着て普通に動き回るには、剣と同じく稽古が必要だ。
実際にはそんなことを思っている場合ではない。彼は転んで、派手に地面に倒れ込んだ。
追い付いてきた山賊は鉈を手にしていた。地面の上で上体を起こした篭は、帯に差していた脇差を鞘ごと抜いた。
鉈を振り下ろされることを想定し、反射的に脇差の鞘を盾にするように目の前で握った。
だが男は鉈を振らずに、空いた片手で篭の脇差を鞘ごと掴んできた。
「こいつを寄越しな」
男は唸り、篭の手から脇差をもぎ取ろうとする。彼は抵抗し、柄を握っていた左手で脇差を鞘から抜こうとしたが、角度がまずく上手くいかない。
その隙に追いついてきたもう一人が、手にしていた薙刀の尻で、篭の頭を笠ごと殴りつけた。打ち付ける痛みと共に世界が揺れる。
倒れた彼の手から脇差がもぎ取られ、薙刀の尻が彼の胸を突いて地面へ押さえつけた。
頭への打撃により視界は回り続けているが、篭は以前ほど恐怖を感じていない。
刺されようが斬られようが恐らく彼はどうにもなれない。それより彼は、恐怖を感じることに怯えていた。落ち着け、と彼は自身に言い聞かせる。黒い腕も十馬も、まだその気配を匂わせていない。
鉈の男が、奪った脇差を放ると、仰向けに倒れている篭の腰に跨った。
「でけえ姉ちゃんだな、」
そう言いつつ、顎紐のかかっている笠を力任せに引き毟り、しかしその下から現れた彼の顔を見て、一瞬、動きを止めた。
男だと気付いたのか左目の色を見たのかあるいは両方か。
篭の視界がようやく定まりつつあるところ、彼に跨る男の背後に、金色の鬼の姿が見えた。
『おい、笑わせんじゃねえか』
岩を転がすような声が、いつになく、本当に笑っていた。滑稽すぎて腹がよじれて死にそうだという声音である。
それを聞いた篭のほうが、急に沸き立つような怒りを感じた。篭には何が可笑しいのかわからない。彼は必死であり、ここで起きているのは命の奪い合いである。
急に明確になった思考と視界の中、彼に跨っている男の腰に小刀が差されていることに気付いた。篭は男が唖然とした刹那の間に、男の腰から小刀を抜いて、その腹に突き立てた。
悲鳴があがり、鉈の男は彼の上から転げ落ちた。硬直していた薙刀の男が我に返ったように武器を返し、刃を彼に振り下ろす。その動きは、篭の目には妙にゆっくりとして見えた。先日、十馬が賊を斬った時と同じである。
彼は、振り下ろされる刃を、左腕の甲で、横へ弾き飛ばした。
方向を逸らされた刃物は、地面の上でのたうっていた鉈の男の腿の上に落ちる。
二度目の悲鳴が上がっているうちに、篭は跳び起き、地面に転がる脇差を掴んだ。
「来るな!」
脇差を抜きつつ薙刀男の方へ体を反し、彼は叫んだ。警告だが、同時に懇願でもあった。来れば、最後に死ぬのは男のほうである。
たった今人間離れした動きで刃を弾かれた男は、薙刀を構えたものの、間合いを詰めずに篭を睨んだ。
その時、孔蔵の声が吠えた。
「
途端に、彼と孔蔵の間にあった金色の鬼の姿が掻き消えた。孔蔵の呪文はその鬼に向けたもののようだった。どうやら山賊たちに、あの金色の鬼は見えていなかった。
篭の視界に入った孔蔵は、脇に槍を手挟んで印を結んでいた。しかしそこに、山賊頭が刀を振り上げかかってゆく。戎衣が裂け、鼻血を流しているが、致命傷は見当たらない。
「ぬうおおっ」
孔蔵は体を反しながら槍を振ると、彼に届く寸前の切っ先ごと、山賊頭を槍の胴体で張り飛ばした。
その間にもまた、別の男が孔蔵の背に跳びかかる。槍を孔蔵に奪われたらしいその男は、隠し持っていたらしい小刀を構えていた。
篭の注意が逸れた隙に、薙刀男が彼めがけて斜めに武器を振り下ろしてきた。背後に跳ぶ余裕のなかった篭は、反射的に抜き身の脇差でそれを受ける。
むぐっと孔蔵が呻く声が聞こえた。坊主は背に小刀を受けたのだった。
孔蔵は小刀の男を肘で払い、槍の尻で弾き飛ばす。
篭の中でいつもの恐怖心が沸き立った。孔蔵が、傷付く。死んでしまう。
どうか、自分にも守らせてくれ。
篭は、薙刀を受け止めていた脇差を下げ、落ちてくる刃を右肩に受けた。
痛みに声をあげたが、左腕と脇差は空いた。篭は自由になった刃物を振って、薙刀男の間合いに入り、相手の胴を刺し貫いた。
「篭どの!」
孔蔵が叫ぶ声がした。
「くっそお」
続いて孔蔵の声が唸る。坊主はいよいよ賊を殺す気だと、篭にはわかった。
脇差を薙刀男の胴から抜くなり、篭は体を反転させて駆けた。
孔蔵は別の一人を槍で払ったが、なんとも諦めの悪い盗賊頭が、再び剣を振って坊主に斬りかかってゆく。孔蔵は槍でそれを払った。そして、敵の胴を刃物で突こうと肘を引く。
篭は、その前へ飛び出していった。
孔蔵の目が見開かれる。
篭は、自分の腹に鋼の穂先が潜り込むのを感じながら、それに押されて後方へ吹っ飛んだ。
彼の背が、彼を避けきれなかった山賊頭にぶち当たる。
その様を孔蔵の背後から目撃していた二人の賊が、理解できない事態に動きを止めている。
だが、痛みは思ったほどでもない。
既に右肩から黒い泡を滴らせている篭は、彼を受け止めた形の盗賊頭に向かって体を反しつつ、左手で握った脇差を振りかぶり、相手の肩口に叩き下ろした。
鮮血が迸り、戎衣を着た男が地面に倒れる。残った二人の山賊が、篭の左目と黒い泡と死にゆく頭を見て、色を失う。しかしその手前で篭を見つめている孔蔵が、誰よりも青褪めて見えた。
槍で抉られた腹からも、ぶくぶくと泡立つような音が聞こえる。
孔蔵の向こうで、
篭はやっと脇差を落とし、震える両手で腹を押さえた。痛みはどんどん薄れてゆく。震えているのは痛みのためではない。彼はまた殺した。恐怖と悲しみが、黒い泡のように広がってゆく。その一方で、彼は安心もした。孔蔵は、まだ殺していない。
いつものように、涙がせり上がってきた。彼は動悸と荒くなる呼吸を抑えようとして、唇を噛んだ。
「篭どの」
槍を投げ捨てた孔蔵が彼の肩を掴もうとして、それをできずに手を止めた。
とうとう、抑えきれなかった涙の一粒が、篭の頬を伝って零れ落ちた。
悔しい。怖い。悲しい。悔しい。
急激にやってきた眩暈は、意識の混濁をもたらした。
速く深く深く深く、彼は落ちてゆく。
混乱する思考を置き去りにして、彼の視界は暗転した。
『ご馳走さん』
岩のような声が、どこかで囁き嗤うのを聞いた。
*
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