第37話 夜の底に沈む




 孔蔵くぞうと二人で歩くのは、太畠うずはた青根あおね以来、ろうにとって二回目だった。

 二人は吉浪よしなみの街を出て野原の間に伸びる街道をゆっくりと歩いたが、日が西へ傾いても、宋十郎そうじゅうろうは追い付いてこなかった。

 彼らは峠の手前の鹿響かびこという湖畔の町で足を止め、宿を探すことにした。

「俺一人ならそこらのお寺にご厄介になってもいいんだが、あんた、まだお姫さまの着物を着てるんだもんなあ。あ、そうだよ、あんたも坊主の恰好すりゃあいいんじゃねえか?」

 夕暮れ時の細い通りを歩きつつ、孔蔵は言った。

 篭は答える。

「でも、着替えちゃったら、今度は宋十郎がおれたちのことを探せなくならないかな?」

「あー、なるほどな……ううむ、どんどんややこしくなってんな。もう、寺本てらもとどころじゃねえよ」

「寺本は、なんでおれを追ってくるのかな」

「ああ、そこだよな。あの雨巳って女忍なら、俺らよりは色々知ってそうだったんだがなあ。お、ありゃ旅籠じゃねえか。今夜はあそこで厄介になろうぜ」

 孔蔵の指した先には、軒先に灯籠を立てている旅籠があった。町はどうにも寂れた様子で、他にそれらしい佇まいの建物はない。

 彼らは、宿の戸を叩いた。







 部屋に食事を運んでくれた宿の女将によると、ほんの数年前に、この近くで戦があったということだった。

 以前は瑞城たまき領であった鹿響に、数千もの榁川むろかわ兵が攻め寄せ、兵だけでなく、一緒になって抵抗した庶民が何百人と死んだ。町がうら寂しいのは、まだ戦禍から立ち直っていないためである。この先の峠道にも落ち武者崩れの賊がうようよしているので気をつけろと、女将は随分心配してくれた。

 処刑された庶民たちの首塚が近所にあると聞き、篭はすっかり食欲を失った。

 箸を止めたついでに、ふと思い出したことを、孔蔵に訊ねた。

「あのさ、孔蔵は、動物や人間を殺したこと、ある?」

 山菜汁を啜っていた孔蔵が、むぐっと詰まったような音をたてた。

 口の中のものを飲み下し、坊主は篭を振り返った。

「そりゃあ、動物の話すりゃ、ないわけじゃねえよ。餓鬼の頃の俺ぁ浮浪児だったからな、腹減った時に兎とか魚とか、あと人んちから鶏盗んで食ったこともあったな。今もほんとのこと言えば、うっかり蚊を叩いちまったりとか、虫を踏んづけちまうことはあるんだけどよ」

「それは、食べるためとかだから、仕方ないよね? おれ、虫なら時々食ってるよ。じゃなくて、何ていうか、……戦とか? 殺さなくていいものを殺したことある?」

 孔蔵は思い切り眉を寄せると、難しい顔をした。

「殺さなくていいの線引きがどこかよくわかんねえけど……ないんじゃねえかな。俺は魔物を殺すっつうか、退治したことなら何度もあるが、人間をやったことは一度もねえよ。喧嘩でぼこぼこにしちまったことならあるけど……なんでだよ?」

 どこまでも怪訝そうに訊ね返され、篭はどう答えたものか、迷った。

 彼は茂都と歩いた峠で賊に襲われた時に、人を斬った。

 それは彼と同じ体に棲んでいる十馬がしたことかもしれないが、それ以来、彼の脳裏には、全身の血が逆流するような緊張感と共に燻る錆の臭いが、貼り付いている。さらにその前にも彼は、浜辺で黒い腕を呼び寄せて、來を握り潰した。

 あの時か、その前からだろうか、自分の中に何か異質なものが生まれ、それが徐々に成長しているのを、彼は感じている。

 それが大きくなる分、もとあった何かは小さくなる。彼が十馬に塗り潰されてゆくという表現は正しいだろうか。それは、自分が少しずつ別の何かに変ってゆくようでもある。

 それが、果てしなく、悲しく、恐ろしい。

 なす術もなく、ただ、途方に暮れる。

 迷った挙句、彼はいつの間にか見下ろしていた茶碗を見つめたまま、言った。

「……おれ、人を斬ったんだ」

 孔蔵が、完全に黙り込んだ。

 沈黙が続き、しかし、それをどうにかしようと試みたかのように、孔蔵が言った。

「仕方なく、だろ」

 仕方なくとは、どういうことだろうか。

 先ほど自分で発した言葉が、急に曖昧になった。

 盗賊を斬ったのは十馬だ。しかし十馬ができたことを自身ができたら、彼も身を守るために盗賊を斬ったのではないか。

 つまり彼は、食われる燕であるより、食う隼になろうとしたということだろうか。

 彼は変わりつつある。体が腐ってゆくだけでなく、その中身まで変わってしまう。

 だから孔蔵は、虫も獣も食わないのかもしれない。線引きに迷ったら、まるごと全部殺すことをやめるしかない。

 眩暈がした。箸を握ったままの手が、かすかに震るのを感じた。寒い。

 うつむきそうになり、しかし首で重い頭を支えた。強くあらなければ。

 彼は言った。

「孔蔵は、人を殺さないほうがいいと思う」

 いつの間にか顔を白くしていた孔蔵が、彼を見つめていた。自分も同じくらい白い顔をしているのだろうかと、篭は頭の隅でぼんやりと思う。

 坊主は、彼の両目を見て、頷いた。

「篭どの、俺は、大丈夫だ。俺のことは、心配すんな」

 低い声が、ゆっくりと喋った。

「……それにな、一度人を斬ったとしても、あんたはあんたのままだ」

 孔蔵はなぜ、彼が考えていることが分かったのだろうか。

 篭は、坊主の濃い茶色の瞳を、見つめ返した。

「そりゃあな、その前と完全に同じってことはねえよ。でも、何もしなかったとしても、昨日と今日のあんたが全く同じってことはねえんだよ。一日経ってる以上、同じものなんて何一つないんだ。だから、大事なのは、どう変わるかだよ。今から、明日から、あんたがどうするか、何になりたいかだ」

 孔蔵が必死に喋っているのが、篭にはわかった。

 体が震える一方で、頭は奇妙に冷静だった。

 孔蔵の真剣そのものの言葉が、冷え切った脳の上を滑ってゆきそうに思い、彼は坊主の言葉と意図とを捉えようと、頭の中で足掻いた。足掻くうちに、少なくとも眩暈を忘れていた。

 彼が黙ったままでいるので、坊主が、言葉を付け足した。

「……ってな、和尚が昔、俺に言ったんだ。拾ってもらって坊主んなっても、俺ぁ何度も人を殴ったから。今も酒はやめれてねえしな」

 篭の顔色が多少ましになったのを見止めたのか、孔蔵は強張っていた顔を崩すと、ははと笑って見せた。

「まあ、たまに酒だけじゃなく肉料理も恋しいんだけどよ」

 そう言うと、孔蔵は顔を下げ、食いかけの山菜汁の器に、ぎこちなく口をつけた。

 いつの間にか、篭は箸を膳の上に置いていた。

 孔蔵を見つめる。

 坊主がいつも纏っている鎧のような影は、時々白や黄色に光ることがある。

 篭は膝を立てると、それを両腕で引き寄せ、孔蔵の影や、灯籠の明かりを、ぼんやりと眺めた。

「ありがとう」

 忘れかけていた言葉を一言だけ、忘れる前に、篭は発した。

「んん」

 孔蔵は頷くと、黙って汁を啜った。







 雨巳あまみは町人風の着物を着て、提灯の明かりに彩られた、夜の通りを歩いていた。

 ここ柳坂やなざかの宿場町は、古くからある歓楽街である。

 そう広くない通りに、二階建ての旅籠が長々と連なっている。旅籠の間には時折遊女屋が置かれ、張り見世の格子の向こうでは、遊女たちが通りを歩く旅人に微笑を送っている。

 戦が続き、付近の町や集落が寂れたり消滅したりする中、柳坂は賑やかな花街の顔をまだ残しているようだった。

 雨巳はひと際大きな旅籠を見つけると、その脇の細い裏路地に入った。

 彼女は目星をつけた格子窓のそばで立ち止まると、気配を殺し、耳をそばだてた。

「茶か、ありがたい。頼む。今日も朝から走り通しでな、……ああ」

 若い男の声がした。狙い通り、声の主は寺本てらもと昂輝のぶてるである。

 ここまで居場所を絞り込んで名前を知るまでには多少の苦労があった。しかし、方法がないわけではない。お偉いさんである寺本氏は旅するのに最も進みやすい街道を堂々と進み、真っ当な方法で関所を抜ける。偽名を使う必要もないので、関所の帳簿を盗み見れば、名はもちろんのこと、いつどこを通ったかを把握できる。もっとも先方は、それを隠してもいないのだろうが。

 再び、昂輝の声が漏れ聞こえてくる。

「何だ? え? 芸者など頼んだ覚えはないのだが……いや、私が言ったのは、酒くらいなら飲んでもいいかと……、おい、陣明じんめい、お前何とか言え」

「まあまあ殿、折角ご用意してくれはるちゅうことですから。ここらも今日びはお客さん少のうて困ってはるでしょうし、お唄聞きながらお酒頂くのもよろしやおへんか。殿はどうせ、今夜は宿からお出にならへんのでしょう」

 影貫かげぬきの声である。雨巳は息を詰めた。

 影貫はその気になれば、壁や扉の数枚を隔てていようと、近くに雨巳のような妖物がいれば、その気配を察することができるはずである。そしてそれを探る影貫の気配も、雨巳は逆に感じることができる。影貫は敢えて今は警戒を解いているのだろうか、辺りを探るような気は、あの忍から発されていない。

 しかし、芸妓が来るというのは雨巳にとって吉報である。芸妓があのお偉いさまに、時間潰しにでも四方山よもやまばなしをさせてくれれば、その中に彼女の探す情報が含まれている可能性もある。座敷に入る芸者が誰かわかれば、いくらか金を渡して、彼女が望むような話を振ってもらうこともできる。

 雨巳はちらりと格子窓の隙間から、二人の客を接待した旅籠の倅が急ぎ足に玄関へ歩いてゆくのを見た。

 彼女自身も足早に、それに合わせて裏路地を進んだ。







 半刻後、雨巳は再び旅籠の屋根の上にいた。

 秋の澄んだ夜空に、星が輝いている。

 屋根のすぐ下では、寺本昂輝と影貫が、芸妓の奏でる三味線の音色を肴に酒を飲んでいる。

 やがて、静かに幻惑するような音が止むと、影貫がぱらぱらと手を拍った。

「いや、旅の疲れを癒すには、弦楽の響きが一番どすなあ。酔いもよう回ります」

 対して盃を手にしたままの昂輝は、ゆるゆると頷いた。

 芸妓の一人が近付いて、昂輝の杯に酒を注ぎつつ言う。

「旦那さま、お疲れのご様子でございますね」

 この芸妓は、座敷に入る前のところを雨巳が捕まえて金を渡し、寺本主従にお役目について訊ねてくれと頼んだ娘である。利発そうな瞳の若い娘は、名を桜葉さくらばという。

 昂輝は、重いものを支えるような首を、ゆっくり上下させた。

「都を出て一月近くになる。毎日馬に乗り通しだし、東方の水は体に合わぬし、味噌は妙な臭いがするし、……あ、いや、ここのはそうでもなかったがな」

 楽器を置いた女たちが、ふふふと優しく笑う。昂輝は自己嫌悪に陥ったように、はああと溜め息を吐き、項垂れた。

 桜葉が言う。

「都からおいでになって、一月も東方を駆け回って、私どもにはどんなお暮しか思いもよりませぬけど、さぞ大きなお役目を負ってらっしゃるのでしょうね」

 酒を啜り、昂輝は首を振る。

「いや、そうならばいいんだがな。悲しいことに、そうでもないのよ。私の仕事は、重要なようで、そうでないような……お上もな、てんやわんやで、何かせねばならんと言いつつも、何をさせたらよいかわからぬ。で、話もきちんとまとまらぬうち、私のような役人の小倅に、曖昧な仕事と不気味な忍を押し付けて何とかしてみろと放り出す。時宜じぎに適わず目的も手段も噛み合っておらぬのに、こちらが手ぶらで帰れば、それはそれでお叱りを食らう。これが天下の幕府の有り様なのだから、世が昏いと嘆かれているのもよくわかる」

 寺本の四男坊は長文を呟くと、また酒を啜った。

 そこに、影貫が口を挟む。

「まあまあ殿、そないに言わはったらあきまへんえ。ここの娘さんらかて、天が落ちてこぬかと日々憂いながら祈り暮らしてはる天下の民草なんどすから」

 しかし宥められるどころか、昂輝の口調はますます苦みを増す。

「だがな陣明、すると私は、一体いつになったら京に戻れるのだ。もしや私は、放逐されたも同然なのか」

「いやいや、殿……」

 影貫が言葉尻を窄めたところで、再び桜葉が喋った。

「ですけれど、忍の方がお付きなんでしょう? 御所に役立つお話を集められれば、旦那さまは都へお帰りになれるのでございませんか?」

 再び、昂輝は首を振る。

「この忍、陣明はな、影貫と呼ばれていて、ただの忍ではないのよ。聞いてまさかと思うだろうが、この陣明は、人でなく妖物の声を聞き、妖物を倒し、時に使役する、恐らく日ノ本唯一の忍なのだ。そんな者を、この時世で何にどうやって使うのだと思わんか」

 ええとどよめく遊女たちの声を背景に、影貫が唇を尖らせた。

「殿もいけずなお人やなぁ。ほんになんべんも、俺まで化生けしょうみたいに言わんとくりゃす。殿と俺とは、殿がこないな赤子ややこの頃からの仲やおへんか」

 そう言いつつ影貫は、座った自身の胸辺りで手の平を左右させる。

 すかさず、桜葉が言った。

「では、東方に、御所のお方々が恐れるような妖物が、いるということなのですか」

 昂輝はまたも首を振る。

「いや、お上が望まれているのは、妖物でなく人を倒すことなのだ。今の世の中、何より強く恐ろしいのは、人であろう。近畿に群がる領主どもは何千という鉄砲を掻き集め、改良し鋳造し、血みどろの争いを繰り広げておる。鉄砲の群れには、どんな悪鬼羅刹も太刀打ちできぬわ」

 まあ怖いと、再び遊女たちがどよめいて見せる。桜葉は訊ねた。

「そんな恐ろしいご領主は、どなたなのですか。一番たくさん鉄砲を集めてらっしゃるご領主?」

「殿、殿」

 影貫が、横から呼び掛けた。

 しかし酔っている昂輝は、桜葉に答える。

「将軍家が嫌いな領主と言えば、今日び、知らぬ者などおらんと思ったが」

 ええ誰ですか、と娘たちが口々に訊ねる。

 影貫は細めている目をますます細くすると、膝の上に立てた腕で頬杖をついた。昂輝が答える。

「そうだな、色々おるが、今一番の目の上のこぶは、夏納かのうだ。しかし一領主を目の上の、と言わねばならん時点で、悩みの深さがわかるというものだろう」

 桜葉が問う。

「では陣明さまが夏納のお城へ忍び込んで、ご当主を倒されれば、一件落着でございますね」

「まさか、そんな簡単にはいかぬ。それに万が一できたとしても、それを我らがなしたと言われてはまずいだろう。だからこそ妖物を使ってそれをさせられればよいと思ったのだが……比良目ひらめも当てが外れたな、陣明」

 最後のところで昂輝は影貫を振り返った。影貫は、頷く。

「あれは、妖物とは違てましたから。それよか、殿。もうお疲れや思います。深酒しはったら明日ますます辛うなりまへんか」

 うんにゃ、と昂輝は頷いた。実際に、顔はもう棗のように赤い。

 若殿は杯を膳の上に置いて、「水をくれ」と言った。

 どうやら今夜は、ここでお開きのようである。

 月夜の下、屋根の上の雨巳は、へえと一人頷いた。

 今の将軍家は、自力で天下に号令を下せないほどに弱体化している。その将軍家を後援している最大の勢力が、夏納領主の飛梁ひばりである。結果として、将軍家は夏納の傀儡政権の様相を呈しつつあるが、御所の周辺には、この飛梁を除きたいという声があるのだろう。

 単純に鬼を暗殺に使うというのは、雨巳が当初比良目や十馬について持っていた予想と同じである。

 これを半鐘へ知らせるか。來は今、どうしているだろうか。




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