第23話 迷い人魚が捜すのは
夜の海は、恐ろしく暗い。
人家の灯など一切届かず、自ら掲げている松明がなければ、頼りになるのは月明かりのみである。
舟を漕いでいる漁師は、名を
孔蔵は、辰次に訊ねた。
「いつもこんな夜に漁に出てるのか」
「いえ、普段は、夜明け前に出ます。夜の海は昔から、出ねえ方がいいって言いますね」
辰次は、淡々と答えた。肝は座っているようである。
「お
ぼんやりと孔蔵が言うと、辰次は頷いた。
「うちのお袋が言うことが当たってりゃ、そうなりますね。お坊さまは、前にも魔物退治をされたことがあるんですか」
今度は孔蔵が頷いた。
「ああ。俺のお師匠は、魔物退治の名手でな。小さいのから大きいのまで、色々相手するのを手伝ったよ。先日も、一働きしたところだ」
「そいつは頼もしいです。うちのお袋、妙な勘がありましてね。孔蔵さまを見かけた時、目の色が変わったので、きっとこの人には何かあるんだろうと思いましたよ」
まだ何もしていないのに褒められたような気がして、孔蔵は額を赤くした。
「まあ、これが上手く行かなきゃ、あんたらも俺たちも困っちまうんだ。辰次、化物が出てくれるよう、祈っといてくれよ」
漁師は頷き、二人はしばらく、波の音を聞きながら海の上を進んだ。
半刻も経っただろうか。
波に揺られてぼんやりしていた孔蔵は、ふと、波間に何か白いものを見たように思った。
上がり下がりを繰り返す波間に見えるそれは、真っ黒な海の中で、ぼうと光を放っているようにすら見える。
少しずつ近付いてくるそれを見つめるうち、それが人の、女の顔だと気が付いた。
「おい、出たぞ」
孔蔵は彼の師である
視線の先を辰次が振り返り、流石の肝っ玉漁師も息を呑んだ。
濡れた髪を貼り付けた白い女の顔は、能面のように無機質でありながら、悲鳴のような鋭い何かを湛えていた。
先手を打とうかと孔蔵は考え、しかし考えを改めた。
辰次は既に舟を漕ぐのをやめている。彼らが黙っているうちに、顔は少しずつ、波に従い近付いてきた。
とうとう、顔は、数歩先まで近付いた。
孔蔵は、覚悟を決めて、手の平を握りしめた。辰次が必死に目を逸らすまいとしているのが、伝わってくる。
『みつからぬのです』
細い、女の声が言った。
松明の明かりの中に、濡れた頭が浮かんでいる。
「何が、見つからんのだ」
彼は問うた。
女は言う。
『ぬしさまら、ご存知ありませぬか』
言葉が届いていない。これは良くないと、孔蔵は感じた。
「何を探しているのか教えてくれぬか」
女は、問いに答えない。
『ぬしさまらが、されたのですか』
こりゃあいかん――
孔蔵が思うと同時に、水の上に漂っていた女の頭が、宙に浮き上がった。
恐ろしく首の長い女だと思ったが、頭の下に連なっていたのは首ではなく、蛇のような胴体だった。蛇のように細長いが、鱗や水掻きの様子は魚のようでもある。
孔蔵は目を見開き、辰次は凍り付いた。
『お返しください』
彼らを見下ろす女の唇が言った。
孔蔵は、松明を辰次に託し、胸元で印を結んだ。
『お返し』
印を見たからだろうか、叫び声とともに、首は彼らに襲いかかってきた。
整った形のささやかな唇が、真横に大きく裂ける。開いた口の中には、魚を思わせるような細かく鋭い歯が、びっしりと並んでいた。
頭が辰次でなく自分を狙っていると見定めて、孔蔵は呪文を唱え始めた。
「
言葉に招かれた力が瞬時に魔物を縛り、女の頭が動きを止めた。
ぎいとかぐうというような唸り声が、魔物の裂けた口から漏れる。
縛められた魔物は、唯一動かせる首を振り、怒りを表現するように、鼓膜を震わせる悲鳴をあげた。
孔蔵は今度こそ、問いかけた。
「汝、何を探す。何故、人を殺す。それがわからぬうちは、失せ物は見つからぬぞ」
魔物は答えない。
ただ、つんざくような悲鳴をあげるばかりである。
「お前が探している四人の下手人は、もう何十年も前に死んでいる。お前が死んでから、随分時間が経ったのだ。お前の仇は、どこを漁っても見つからん」
魔物は反応しない。首を振り、唸り声をあげる。
すると、辰次が震える声で言った。
「男、男じゃないか。探しものは、消えた良人じゃないのか」
そうだ、言われてみればそれ以外にないだろう。
女は消えた男を探して、危険を顧みずに遥々一人旅をしてきて、見知らぬ土地で殺されたのだ。
これは、苦手なやつだと孔蔵は唇を舐めた。
彼は力づくで魔を祓うのは得意である。彼の師である藍叡和尚は、魔霊調伏の神である
魔物の悲鳴は言葉を成さないが、何故、何故と言っているように聞こえる。
この女は魔物になり果てたが、その中にあるのは良人を想う孤独な魂だったはずだ。
女を正気に戻すことができるのは、その良人に違いない。しかし彼は、異界から故人を呼ぶような力は持ってはいない。
彼は考え、迷った末に、女の頭に向かって両腕を差し出した。
魔物の頬に、両手をかざす。これは彼の師が、迷ったものの体を抱きしめてやれない時に、代わりによく行っていたことだった。
触れさせずに漂わせた両手とそれに囲われた頭とが、ぼんやりと明るく輝く。
彼は、相手に言葉が届くことを祈りながら、ゆっくりと言った。
「すまん、あんたの許嫁を捜してやることは、できない。でも、ここにいないなら、きっと男は先に浄土へ昇ったんだ。だから、あんたも、男のもとへ帰った方がいい」
彼の手と声が強張っていた。
情けないことだが、相手が魔物だからではない。男を想う女だからだ。
若い彼はまだ、女を本当に愛したことはない。自分が知らぬものを人に説くのは、身の程知らずだと彼は思う。しかし彼が言葉に込めた思いは真実である。彼は、哀れな女を二度も殺したくない。
すると、黙っていた辰次が、指をさして声を発した。指の先には、水面の上に浮かぶ男の姿がある。
男の輪郭は淡い燐光を帯びており、青白い顔の表情は哀しげだが、穏やかだった。
男が言った。
『畝』
魔物が、男を振り返った。孔蔵は両手を女から離す。
女の、闇に沈んでいた瞳に光が戻り、裂けていた唇は人の形を取り戻してゆく。
『ここにいたのか』
静かな声が言った。
『ずっと捜していた』
女の両目から、はらりと涙が零れた。
男は水の上を滑るように、女へ近付く。
『灯籠が見えたのだ。だから初めて、お前を見つけることができた』
女の両目からはらはらと涙が零れる度に、女の体からぽろぽろと鱗が落ちてゆく。
女の体は膨らみ、縮み、人の形へ戻ってゆく。
『待たせて、悪かった』
男の眦からも、涙が零れた。
『ああ、お久しゅうございます』
震える唇が、女の声を発した。
『畝、帰ろう』
いつの間にか女には、人の腕が戻っていた。
男はその手を掴むと、波の上を、ゆっくりと歩きだした。
女がそれに従う。
二人の姿は、茫とした淡い光を残して、消えてしまった。
後には静かに注ぐ月光が残されただけである。
燐光が失せるのを見届けていた孔蔵の隣で、辰次が、不意に飲み込んでいたらしい息を吐き出した。
「へ、うへぇ」
おかしな溜め息を聞き、孔蔵は振り返った。
「なんだ、ああいうのを見たのは、初めてか」
辰次は頷いた。
「そりゃ、そうですよ。孔蔵さまは、そうじゃないようですが。いや、若いのに大したもんだ」
首を振りつつ、孔蔵は返した。
「いやいや、俺は何もしてないだろう。見たろ、さっきの。女を連れて帰ったのは、男だよ」
いやいやと、今度は辰次が首を振った。
「男が言ってたじゃないですか、初めて明かりを見つけたって。そりゃきっと、あんたが灯した不思議な火のことでしょう。仏の迎え火みたいなもんですかね」
褒められて悪い気はしなかったが、孔蔵は素直に頷けなかった。
やはり女を迎えに来たのは男だし、彼は、そのきっかけを作ったにすぎないだろう。
しかし、思えば、そのきっかけがなければ始まらないこともあるのかもしれない。人助けとは、そういうものだろうか。
まだ結局、わからないことだらけである。
ううんと、孔蔵は唸り声をあげた。
「女心は、恐ろしいな」
突然そんなことを言った彼を、辰次は素っ頓狂な顔で見返した。
「何ですか、いきなり」
「男を想う心のために、鬼にも仏にもなるんだろう」
いやいや、と辰次は首を振った。
「女にも、よりますよ」
「そうかな?」
「そうですよ。例えば、うちのかかあが俺を慕って化けて出てくれるとは、到底思えねえ」
わははと、孔蔵は笑った。
「奥方は、怨まない
「まあ、そうとも言いますね」
辰次のどこか誇らしげに見える顔を見て、彼は微笑んだ。
良い家庭と幸せそうな人を見るのが、彼は好きである。
それがお前の一番の力だと、彼の師は言っていた。
さてと、と辰次が
「戻りますか。さっさと帰って、かかあとおっ母を安心させてやらにゃあ」
おう、と孔蔵は頷いた。
静かな夜の海を眺める。
海の魔物はもう秋に漁師を襲うことはないだろう。
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