第24話 笑い泣く蛇
次の瞬間には、見覚えのある屋敷の座敷部屋にいた。
ここは
空気が酷く静かだと感じた次には、むしろ空気などここにないのだと、彼は気付いた。
開け放された襖の向こうに、布団の中で眠る人影が見える。
眠っているのは
胸騒ぎを感じる。
声がした。
「あの人は病気だからね」
振り返ると、黒と白の
「
篭は、人間に見える
「おれ、馬鹿な願い事をしちゃったよ。ごめんね」
それを言葉にするうちに彼は悲しくなり、みるみるうちに涙が溢れて、頬を伝った。
人の姿をした梟は、その彼を見て、睫毛を伏せた。
「君は、悪くないよ。私も君も、何も知らなかった」
首を振り、篭は薊に歩み寄った。
「ねえ、我儘を言うってわかってるけど、今度こそあの人の魂を、拾っていってくれないかな。おれはどうなってもいいよ。おれが馬鹿なことを願ったせいで、色々なひとが傷つくんだ。おれは病気の体の中で、同じ病気にかかってしまいそうに感じてるんだ。こうなるってわかっていたから、あの人は眠ってたのに、おれが起こしてしまった。お願いだよ、おれたちを助けて」
溢れる言葉を紡ぐうちに、滂々と涙が流れる。
薊も泣きそうな顔をしたが、堪えるように、言った。
「篭、あの人を救えるのは、君だけなんだ。君が、散らばったものを繋ぎ合わせるしかない」
聞くことを恐れていた言葉を受けて、篭は立ち竦んだ。
言葉を失った彼に背を向け、梟は飛び立とうとする。
しかし最後に振り返ると、言った。
「ごめんよ。でも、君は一人じゃない」
*
目が覚めた。
香の匂いがする。
篭は、白い布団の上にいた。
首を回して、体を起こす。
見たこともない、清潔で広い部屋の中にいた。調度が整えられた飾り棚も、優雅な絵が描かれた
何より左目や左手を覆う包帯もない。
頭を触り、顔を触る。混乱して部屋を見回すと、屏風の向こうで、人が身じろぎする気配がした。
立ち上がった男の頭が、屏風の向こうから現れた。
男は、夜の浜辺に現れた青白い肌の妖怪だった。
昨夜、闇の中で光って見えた目は、日の光の下では灰色をしており、髪は淡い虹色をしていた。いずれにしろ、人間には見えない。
「気分は」
前置きもなく、男は言った。
篭はまだ混乱した頭のまま、ただ思いついたことを答えた。
「ね、寝てた」
「おまえ、名前は」
またも前置きなく尋ねられ、正直に答える。
「篭」
「俺は
ひらめ、と篭は口の中で繰り返した。
比良目は喋る。
「おまえの着物、すげえ汚かったから、
篭は迷い、頷いた。襤褸がさらに汚れていたが、
「……悪い。でももう、捨てられてるかも」
比良目は眠そうにも見える単調な表情のまま、目を伏せた。
混乱に戸惑いが加わり、篭は、屏風の向こうから歩いてきた男を見つめた。
男は柳の木のように静かであり、悪意も脅威も感じさせない。見知らぬ場所にいる不安は残ったが、篭は徐々に落ち着きを取り戻す自分を感じた。
「あのさ、ここ、どこ?」
彼は尋ねた。比良目は、数えるように答える。
「俺の部屋。……
単語を聞きながら記憶を漁る。瑞城はこの辺り一帯の領主の名前で、その府中にある城ということは、瑞城氏の主城か何かだろう。そういえば、宋十郎が瑞城当主の息子を希人と呼んでいた。
つまり、この妖怪は瑞城領主の城に住んでいるのか。そしてなぜ、自分はそこにいるのだろう。
「おれ、なんでここにいるの?」
またも比良目は答える。
「城ん中で、他に
化物と言い切られて少し悲しく思ったが、彼の左目は赤く、左手は、いつの間にか指先まで黒く変わっていた。無理もないかもしれない。しかし、疑問の要点はそこではない。
「ええと……なんでおれ、その、居織城にいるの?」
「ああ……」
比良目は、少し考えるような素振りをした。
「
回答はもらったが、不明点だらけである。
「雨巳って? あと、宋十郎は……?」
ああ、と比良目は何か合点がいったような顔をした。
「雨巳って、
あの娘は雨巳というらしい。
「置いてきたって、どういうこと?」
「そのまんま、浜辺に置いてきた。斬りかかってきてどうしようもなかった。だからお前だけ連れてきた」
なるほどと篭は頷く。
浜辺で比良目に打たれて意識を失ったことは覚えている。あれは眠りに落ちるのとは、また違う何かだった。今ならあれが、黒い鬼を止めるための手段だったとわかる。しかし彼が攻撃されたと思った宋十郎は、比良目に斬りかかったのだろう。
「敵じゃないって、言えばよかったのに」
彼は思ったことを口にした。
比良目は首を傾げて、髪が生えているほうの頭を掻いた。
「……面倒だった」
それなら仕方ない。
篭も思っていることを上手く言葉にできないうちに諦めてしまうことは、時々ある。
「じゃあおれ、宋十郎を探しに行っていい? 多分、心配してる」
すると比良目は、頷き、それから首を横に振った。どっちだろう。
「いいよ。でも、ちょっと後な。希人がおまえと話したいって」
今度は篭が首を傾げた。
*
雨巳は呆然としていた。
またしても、彼女は夜の森の中で
ただし、今回火の向こうで転がっている來は、意識不明の重体である。
容体はさておき、ここに彼女といるべきは來でなく、
比良目が彼女の獲物を横取りしたのである。
意味がわからない。
何が起きたのか、今一度反芻してみる。
浜辺で籠原宋十郎と対峙する來を見た時は、今度こそこの間抜けを蛇に食わせてやろうと思った。
來はまた十馬を追い詰めて黒鬼を出し、完全に畳まれた。しかも今回はひどくやられたので、治癒に随分時間がかかっている。
雨巳は、黒鬼に投げ飛ばされた來を拾いに行き、その間に比良目は宋十郎も黒鬼も片付けて、十馬を回収していった。
彼女に何も言わず、獲物を抱え、一人で去ったのである。
当初雨巳は、遠目に見える比良目が何をしているのか理解できなかった。水を操って波の上を進んでゆく比良目の姿がかなり遠ざかるまで、ただ見送ってしまったのである。
全く予期も想像もできなかった。
彼女が居織城を訪れて助力を求めた時、比良目は知己の願いを聞き入れた。その言葉にも嘘は感じられなかった。
彼女たちは居織城を出て、標的が辿っていると思しき街道沿いを東へ行った。雨巳は先行して、籠原の兄弟が浜辺の漁村に滞留しているらしいと掴んだ。
移動中に、無口な比良目といくつか会話をした。
世間話に類するような、他愛ない話である。
その会話の中に、あの老木を変心させるような何かがあったのだろうか。
いくら考えても、彼女にはわからない。
比良目は
九裡耶は、
その遠夜忍の中には妖術を扱う人間や、果ては魔物までおり、そういった連中は九裡耶の中でも特に朔部と呼ばれる。
雨巳は比良目の出自を知らないが、能力は知っている。水を操るのも一つだが、命宿る全てのものの芯に触れることができる。相手が肉体を持たない場合も、同様である。
敵を無効化するのに、これほど合理的で強力な能力はあまりない。
比良目は随分昔から遠夜のために働くことを拒み続けており、百年近く前、この強力な魔物を操るために遠夜の法師たちが集い、比良目の体に封魔の呪文を書き込んだ。
そうまでして遠夜は長いこと比良目を使い続けていたが、ある時比良目はとうとう働かなくなり、水を飲むことをやめて自ら命を絶とうとした。
遠夜はただ比良目を失うのは惜しいと思ったようで、遠夜のために働かせるのは諦めて、
当時の遠夜当主は瑞城と密約の証に、珍物や宝刀でなく、封を施した魔物を送り付けた。臆病者の遠夜があれほど強力な武器を他国にやってしまったのだから、遠夜は比良目が贈られた先ですぐに死ぬと踏んでいたのだろう。
しかし、意外にも比良目は生きた。
瑞城の秘された蔵の奥で、苔か何かのように生き延びていた。
雨巳は韋駄天に連れられて、何度か瑞城の蔵を訪れた。
韋駄天は公式に瑞城に断りを入れて旧友へ面会する場合もあれば、忍らしく蔵の小さな窓から語り掛けたこともあった。
比良目はいつも、水のように穏やかだった。牢獄は退屈だが、静かでいいとも言っていた。
その比良目が、瑞城の主が実質代替わりした時に、蔵から出された。
居織城の新城主である
その希人が比良目を牢から出し、人並みに着物を着せて寝室を与えているらしい。
比良目の謎の行動の背景を読み解こうとすれば、希人が関わっているのではないか。あの年になっても、心境の変化というものはあるのかもしれない。
これらのことを今更思いついたところで、何にもならない。
雨巳は膝を抱え、溜息を吐いた。
最近溜息ばかり吐いている。
適当な小石を拾い、目を閉じて仰向けに寝かされている來に投げつけようとして、やめた。
結局この餓鬼を拾ってきたのは、彼女だ。
あれは反射だった。考えて為したことではなかった。
なぜこんな馬鹿餓鬼を拾いに行ったのだろうと、先日も自問したことを再び自分に問いかける。
見捨てることはできた。來は遠夜がいくつも抱える手駒のひとつだ。自分でした不始末で駒がくたばろうと、遠夜は気にしない。
だが、彼女は來を拾いに行った。
自分がどこから来た何者なのか、雨巳は知らない。
彼女は物心ついた時には、もう九裡耶で、朔部に属していた。
九裡耶では身寄りのない子供や私生児を集めて、遠夜に仕える忍へ育て上げる。里のほとんどの子供たちは彼女と同じように、どこから来た何者なのか、わからなかった。
忍の稽古は、常人の想像を絶する厳しいものである。
集められた子供たちは、そこへ来たその日から稽古を受ける。子供たちの十人のうち二、三人は、一人前の忍になる前に命を落とす。生き延びた者の三、四人は、不適格だとされていつの間にか里から姿を消す。一度里の秘密を知った者は生きて外界へ出ることは許されないので、消えた者たちがどこへ行ったのかは、消した者しか知らない。
生き延びて実際に遠夜の忍となる子供は、十人のうち半分にも満たない。
忍は武器であり道具である。その仕事の一つは殺すことである。そうせねば自分が殺される仕事である。そういう世界を生き延び、雨巳は一人前の忍になった。
仕事をするようになって他の忍を見るうちに、笑い方を知らない者が多いと気付いたのは、いつのことだったろうか。それに気付いたのは、彼女自身は笑うことができたためである。
雨巳は、
謡は、韋駄天の伴侶だった。少なくとも九裡耶の忍には珍しい。
人でない韋駄天は今でも青年の姿をしているが、人間の忍だった謡は、当時既に白髪の老婆だった。
侍が忍を飼う場合、普通は家を持つことを許さない。伴侶を持ち子を為すようになると、忍は主家でなく自家を守ることを優先するようになるからである。韋駄天と謡に例外が認められていた理由を、雨巳は知らない。二人の間に子はなく、謡はもう、随分前に死んでしまった。
そして雨巳には、
洋平のことを兄弟と呼ぶのが正しいかどうかはわからない。しかし彼女たちは、同じ場所で育った。
ある時、里の外から戻ってきた謡が、雨巳より小さな子供を連れていた。
子供は明らかに、人ではなかった。
幼子は虚ろな表情をして、疲れ果てているように見えた。
その子を示して、謡は雨巳に向かって言った。
「こいつはあんたの弟分だかんね。こいつを生かすも殺すも、手前次第だよ」
雨巳は人の言葉を覚えるより前から、虫や魚、動物の声を聴くことができた。正確には言葉そのものを理解するのではなく、相手の意思を感じ取るのである。
彼女にわからないのは人間と、それに近いものだけである。連中は感じていることや思っていることと違うことを言うし、考えることすらある。
彼女は、全く口をきかない幼い洋平が発する思いを、聴き取ることができた。
洋平は、自分がどこからやってきたか知っているようだった。しかし絶対、それを口にしない。ただ、混乱と悲しみを、心の底で叫んでいた。
まだ自分も子供だった雨巳は、弟分を生かして立派な忍にしようと決めた。自分自身、生き残れるかどうかわからなかったにも関わらず。
洋平はみるみるうちに育って、すぐに雨巳の背丈を抜いた。馬鹿力だが、何をやらせても不器用だった。雨巳は謡や他の忍から教えを受ける傍らで、時間の許す限り、洋平に武器の使い方や里の掟を教え込んだ。
洋平が初めて人の言葉を話したのは、雨巳が他の忍について、初めて外の世界、人の住む町へ出かけることになった日のことだった。
謡の家の間口へ、雨巳を迎えに、町人服の女忍がやってきた。
その迎えを見て、洋平は、眉間に思い切り皺を集め、舌足らずに言った。
「雨巳、もう、かえってこねえのか」
今、喋ったのか。しかも、何を言うのか。
雨巳は笑い出してしまった。しかも、笑いは暫く止まらなかった。
「馬鹿、勉強に行くだけだって、昨晩も言ってたでねえの」
彼女は笑い、棒のように立ち尽くしている洋平を、両腕で抱きしめた。
それは、絶対に涙を流さない洋平が本当は泣きたい時に、彼女が昔からしてやっていたことだった。
月日はもう少し流れて、雨巳は生き延びた。洋平も、遠夜のために忍として働くことを許された。
大概のことを卒なくこなす雨巳は、諜報から暗殺まで、色々な仕事を任されるようになった。対して洋平の仕事は、細かい仕掛けを必要としない殺しが多かった。
里を逃げ出した抜け忍や、遠夜が始末したがっている人間を、夜闇に紛れて殺す。標的が供を連れていれば、それを全て皆殺しにした。洋平は、馬や牛でも、素手で捻り殺すことができた。
手際が悪い洋平は、数えで二回ほど、標的の連れや惨劇を目撃した通行人を殺し損ねたことがあった。
追ヶ原には赤い髪の鬼が出るという噂が、遠夜領で囁かれるようになった。
ある時韋駄天が、籠原の若い当主を殺すようにという命を、主から受けた。
主が十馬を殺したがる理由がわからないと、韋駄天は零した。何かがおかしいとも呟き、迷った挙句、熟練の老忍を送ることに決めたようだった。
するとその矢先に主から、赤鬼を当てろと下知があった。
こういった気まぐれは、稀にあった。意図や効率のほどは不明だが、何故か果たすべき目的だけでなく、その方法にまで指図がある。
標的はただの人間のようだが、注意を怠らず極力手短に済ませるように。韋駄天は洋平に繰り返し言い聞かせて、赤鬼を送り出した。
赤鬼が殺しに行った人間は、実は黒鬼だった。さらにもう一匹、別の鬼も連れていた。
洋平は死んだ。
雨巳は泣いた。
謡が死んだ時でさえ涙を流さなかった自分が、笑えるだけでなく泣けるのだと知ったのは、この時だった。
彼女はそして、自分が怒れるのだということも、この時知った。
雨巳は不条理だとわかりながら、韋駄天を責めた。しかし韋駄天が主に向かって、しくじった赤鬼の代わりに自分が十馬を殺しに行くと申し出て退けられたと聞いて、怒っているのが自分だけでないことにも気付いた。
結局遠夜は、十馬を殺す気などなかったのである。
では、洋平は何のために死んだのだろう。どんな下らないもののために、彼女は洋平を失ったのだろう。
それが忍だと、謡が言ったことがあった。忍は忍耐の忍であり、人を殺す忍は、殺されてもそれを恨めない。
では、なぜ韋駄天と謡は、雨巳に笑うことや泣くことを教えたのだろう。笑いも泣きもしない忍を、彼女は大勢知っている。
確かなのは、韋駄天が何かを必死で守ろうとしているということだけだ。
生まれてすぐに捨てられるはずだった化物に、來と名付けたのは韋駄天だ。その文字は、先の時間と祝福を意味するらしい。
その來を、雨巳は拾いに行ったのだ。
考えても、解は見つからなかった。
焚火の炎を目に映す傍らで、起きた事実だけを雨巳は見つめる。
理由は何であれ、十馬は比良目、つまり瑞城に奪われてしまった。
瑞城は敗戦続きで弱体化した同盟国であるとはいえ、広域を一国として領する。遠夜のための凶器を、やすやすと明け渡してよい相手ではない。
雨巳は独断で事を起こした上、派手にしくじったのである。來のことは言い訳にできるが、結果の前では所詮、言い訳は言い訳でしかない。
さて、どうするか。
凶器を瑞城に渡すくらいなら、京へ行かせたほうがましだろう。
そう考え、ふと思い立つ。
それこそ、十馬を持ち逃げした比良目くらい意味不明な、破れかぶれの策である。策ともいえない。
宋十郎とお供の坊主なら、十馬を取り戻すための妙案を思いつくだろうか。
どうせ失敗している。駄目で元々である。
雨巳は立ち上がった。
*
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