第15話 魔物の名を呼ぶ




 護摩壇で炎が爆ぜる音が響く。

 ろうだか十馬とおまだった人型は、半ばで折れた刀を無造作に提げたまま、藍叡らんえい和尚と孔蔵くぞうの前に立っている。

 あしの葉がそこに立っているような静けさだった。

「こりゃ……」

 孔蔵が青ざめている。

 若い僧が何か言いかけたところで、座したままの和尚は印を結ぶと、呪文を唱えた。

オン

 先ほど孔蔵が唱えていたものとよく似ている。

 人型は一瞬痙攣したように見えたが、それだけで、次の瞬間には刀を握った腕を上げていた。

「和尚!」

 叫んだのは孔蔵である。

 宋十郎そうじゅうろうが床を蹴った一方で、孔蔵が師を庇うように腕を突き出していた。

 折れた刃が振り下ろされ、圧力が風となって巻き上がる。

 孔蔵が悲鳴を上げた。

 宋十郎の背後と頭上で、堂の壁と天井とが、巨大な鉈で叩かれたように大きく裂ける。

 彼は目をみはった。

 刃そのものは、孔蔵の腕から一寸のところで止まっている。しかし触れられていないはずの僧衣の袖が裂け、僧の腕からは物がぶつかるような重い音がした。

 既に足を動かしていた宋十郎は、混乱した思考のまま、人型に斬りかかった。

 人型は左腕を上げると、無造作に手の甲で彼の刃を叩き落とした。人とは思えない速さと力だった。

 心臓が凍る。

 折れた刀を握った右腕が上がった。伽藍を裂いた刃が来る、そう思った。

 和尚が唱えた。

縛日羅バサラ達摩ダラマ紇里キリク薩婆訶ソワカ

 人型がびくりと動きを止め、白髪の頭がぐるりと壇上を見上げた。二体の彫像が、炎の明かりの中にある。

「宋どの、兄君を呼べ」

 和尚の言葉に、宋十郎は耳を疑った。

 意味がわからない。だがいずれにしろ、彼はこの状況を何一つ正しく理解していない。

 人型が彫像に気を取られている間に、彼は、呪文を唱えるように言った。

十馬とおま

 人型は一歩踏み出し、鹿のように跳んで一息に壇上に登った。彫像に向かって刀を振り上げる後姿に向かい、宋十郎はもう一度呼びかける。

「十馬!」

 後姿が動きを止めて、首が少しこちらを向いた。

 彼を振り返った頭の左側から、髪が黒く変わり、左目が開いた。

 赤い虹彩。一方で、右目も黒く変わってゆく。

「十馬!」

 赤い瞳が彼を認識したのがわかった。

 髪が全て黒くなった。右手に握っていた刀を左手に持ち替えた。その左手の甲が黒い。いつの間にか、折れていたはずの刃の先が伸びている。

「宋」

 彼の方を向いた兄は言った。

「眠れと言ったり起きろと言ったり、勝手だなあ」

 十馬は壇上から彼を見つめ、辺りを見回した。

 宋十郎は、首の裏を冷たい汗が流れ落ちてゆくのを感じた。

 次の一手は何だ。今目の前にいる魔物が天井を裂くかどうかは知らないが、今の彼では手に負えないことを、彼は知っている。

 藍叡和尚の声がした。

「汝を呼んだのは儂だ、十馬どの」

 十馬の首が回り、赤い目が和尚を見た。そしてすぐに、彼の方へ向き直る。

 表情は虚ろだった。

「宋、おまえ、勝手に」

 刀を持たず、まだ人の肌色をした右手が、黒い髪の頭をがりがりと引っ掻いた。

 芝居の台詞を読むように、十馬の声が述べる。

「浄土、浄土、浄土って? そんな場所があるわけない。俺は休まず、痛みも知らない。爺さん、あんたは役立たずだ。まずはあんたから喰っちまおうか」

 再度、赤い瞳が和尚の方を向き、顔に薄笑みが浮かんだ。

 両目に強い光を宿し、藍叡和尚は語り掛けた。

「儂は汝を救いたい。そのために汝をここへ呼んだ。汝は汝を蝕むものの名を知っておるだろう。連中は何者か。なぜ汝を悩ませるのか」

 十馬は壇上から降りた。左手で握った刀の峰を肩の上で弾ませながら、床の上で裸足の右足をぶらぶらさせる。

「知ってあんたに何ができる? 名はしゅである、あんたも知ってるよね? 知ることは力でもあるが呪いでもある。聞いたら耳が穢れるよ。それより俺を殺さないの? それとも俺に喰われるの?」

「十馬どの、」

 和尚が言いかけたところで揺れていた足が止まり、板張りを踏みしめる。左手が刀を握り直した。

「腹が減ってきたからもう喋らないよ」

 左手で握った刃を突き出して右手は宙に待たせておく。宋十郎が何千回と見た十馬の構えだった。打ってこいといっている。

 誘いに乗り、宋十郎は駆けた。

「宋!」

 十馬の顔が笑っている。

 宋十郎は敵前に届いた。正面から打ち込むと見せかけて、刃を斜めに倒して薙ぎ下ろす。

 十馬の左手は刀身でそれを受ける。しなやかに刃の上を滑らせて、宋十郎の剣をきれいに払いのけた。同時に一歩踏み込んでいた十馬は、完全に彼の懐に入った。

 間合いに入られた彼は剣を振れない。

 斬られるのか、そう思った瞬間、横から現れた孔蔵が、十馬に向かって掌底を放った。

 大きく斜めに仰け反った十馬は、曲芸師のようにそのまま宙で一回転する。次に床に足を着いたと思った時には、真上に跳躍して天井まで舞い上がった。

 紙人形のように吹き上がり、十馬の影は裂けた天井の隙間を抜け、屋根の上へ消えた。

「しまった、逃がしてはいかん!」

 和尚が立ち上がり、しかしすぐに血で染まった胸を押さえてよろめいた。

 孔蔵が師を支えるのを背後に残し、宋十郎は剣を右手に走りだす。


 観音開きの正面扉を叩き開けると、半月と夜空の下、何人かの僧侶たちがばらばらと堂の周りに集まっていた。騒音を聞きつけたのだろう。

 宙から降ってきた十馬が、僧の一人に躍りかかった。

 瞬きする間に、僧侶が倒れる。

「やめろ!」

 無意味なことと知らぬはずもないのに、宋十郎は叫んでいた。

 両手に握った剣で、兄の姿をした魔物に斬りかかる。

 嗤った顔の十馬が振り返る。

 宋十郎の切っ先を当然のように躱しながら、十馬は繰り出した刀で彼の脇腹を薄く裂いた。

 殺す気がないのは明らかだが、なぜかはわからない。

 なぜかはわからないが、いずれにしろ宋十郎には好都合だ。彼が十馬の手を塞いでいる間は、他の誰かが獲物になることはない。

 しかし十馬は何度目かの彼の剣撃を躱すと、ひらりと身を翻し、すぐ傍で立ち竦んでいた僧侶へ飛びかかった。

 どうして今の隙に逃げなかった。見当違いの怒りを僧侶に対して感じながら、彼は兄の名前を呼んだ。

「十馬!」

 呼ばれた魔物の顔が肩越しに半分振り返る。

 その時宋十郎は、女が叫ぶ声を聞いた。

「待って!」

 渡喜ときの声だった。

 なぜ渡喜が、そう思った彼が首を回すと、僧侶たちの間を縫うようにして走ってくる小さな影があった。喜代きよである。その背後を、月光の下でもわかるほど青ざめた渡喜が追っている。

 今度は喜代が叫んだ。

「篭!」

 兄の姿をした魔物の顔が、子供の方を向いた。黒い右目と赤い左目が驚愕に見開かれる。

 彼には見えない何かを見ているのだろうと、宋十郎は悟った。

 喜代は続けた。

厄魂やえみのたまよ、眠りなさい。あなたの敵はここにはいない」

 はっきりとした口調は、明らかに子供のものではなかった。

 宋十郎はいつの間にか、剣を握ったまま子供の姿を凝視していた。十馬が、既に動きを止めていたからである。

「篭!」

 高い声がもう一度呼ぶと、硬直していた十馬の頭が傾き、足がよろめいた。

「う、い……」

 魔物が小さく呻き、ふらりとたたらを踏むと、左手から刀が滑り落ちた。

 地面にぶつかる寸前に、刀は儚い土細工のように砕け、砂漠の砂のように霧散する。

 痛みを堪えるように眇めた目で、魔物が子供を睨みつけた。

「おまえ……」

 微かな呟きを最後に、とうとう魔物は崩れ落ちた。

 砂の上に倒れた体は、眠るように両目を閉じていた。


 彼は刀を手にしたまま、ゆっくりとその体へ近付いた。

 同時に、喜代が歩み寄ってくる。

 眠っている体を挟んで、彼は子供の顔を見下ろした。

 喜代は老人のように穏やかに微笑むと、目を閉じ、そして突然意識を失ったように、倒れた。

「喜代!」

 背後で待ち構えていた渡喜が駆け寄ってきて、小さな体が地面にぶつかる前に抱き止めた。

 十馬の顔の両目がうっすらと開く。

 宋十郎は剣を握る両手に力を込める。

 しかし開いた目の表情を見て、すぐにそれが十馬ではないとわかった。

「篭」

 確認を込めて、彼は言った。

 篭は上半身を起こし、目を瞬きさせると、混乱した瞳で彼を見上げた。

「宋十郎……」

 そして篭は首を回し、眠っている喜代を見、背後で倒れている血まみれの僧侶を見た。

 仲間の僧侶たちがわあわあと声をあげながら、怪我人の胴に布か何かを巻きつけている最中だった。

 彼の背景で、和尚を抱えた孔蔵が堂の扉から出てくると、大声で喚いた。

「和尚が!胸を深く刺された。火と水を持ってこい!」

 篭は裂けた本堂の壁と天井を見上げ、呆然と言った。

「何があったの」

「鬼が出た」

 彼は答えた。

「ええと、鬼って……」

 言葉の意味を考え、理解が届いたのだろう、篭の顔は次第に蒼白になり、何かが決壊しそうな表情に変わった。

 決壊を止めるために、宋十郎は言った。

「落ち着け。魔物は確かに強力だったが、今夜はそれをわかっていてしたことだ。十馬以外にもいくつか魔物が出たが、白夜叉らしいものが何かも、多少わかったかもしれない。何よりまだ死人は出ていない。一刻も早く怪我人を手当てすることが重要だ」

 そして彼は目の前で喜代を抱きかかえている渡喜に向かって、問うた。

「喜代は大丈夫か」

 渡喜は頷いた。

 他者に向かう時は気弱に見えるが、この母親は実は太い肝を持っていることを、彼はこの数日を経て知っている。

「お渡喜、後ほど、何が起きたのか聞かせてもらえないか。それから少し篭を見ていてほしい。私は彼らを手伝ってくる」

「はい、お任せください」

 黒い瞳を彼に向け、渡喜は答えた。

 彼は謝意を込めて頷く。

 剣を鞘に収め、すぐそばで怪我人を運ぼうとしている僧侶たちに加わった。




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