第16話 道行きの灯
優れた巫祝は霊を降ろして占いをするだけでなく、現世以外のものや現時以外の時を見ることもあるらしいと和尚は言った。
子供である喜代はその力を全く扱えていないが、正しく使えるようになれば当人だけでなく多くの者たちの助けになることは間違いないので、
以上が渡喜から
優れた巫祝の質を持つ喜代に憑くものは比較的高位の神霊のはずであり、その辺りを漂う怨霊や動物霊などの雑霊は、その子供に近付くことはできないという。
よって、
またそれとは別に、十馬自身が赤い瞳を持っている理由もわからないままである。
一度とはいえ十馬に封魔の術を施した
「それから、やっと思い出したよ」
紙のように白い顔をしながら、和尚は皺の多い顔に笑顔を作った。
「汝は、
和尚の足元に座していた宋十郎は、深く頭を垂れた。
「恐らく汝は、まだ多くのことを語っていまい。しかし、それは汝が自らその責を負って、必要と断じたことなのだろう。この寺が、儂が助けになれる時は、またいつでもここを訪れてくれればよい。とはいえ、儂も偉そうなことを言ってもしばらくはこの有様だが」
そう言って、和尚はまた笑った。
宋十郎の隣に座っている
それを見て、和尚は付け足した。
「篭よ、そんな顔をするでないよ。これは、儂が自分の意志で負った傷だ。それに、北で青鬼に叩き潰された時よりははるかにましだから、すぐに良くなろうさ。儂は頑丈な爺いだ。もっとひどい怪我人や病人が、儂を待っとるからね」
すると、その枕元に座っていた
「和尚、あの、お話というのは」
ああ、と和尚は思い出したように、弟子の方へ眼差しを向けた。
「孔蔵よ、明日からお前は、宋十郎どのを助けて京へ行きなさい」
えっ、と声をあげた孔蔵は、驚愕のあまりその先の言葉を失ったようだった。
実は孔蔵の斜め横に座っていた宋十郎も同じであったが、彼は自分で驚愕を表す代わりに、孔蔵の飛び出しそうに見開かれた目玉を見つめた。
篭だけが、まだ和尚の白い顔を不安げに見つめている。
和尚は、弟子の顔を見て笑った。
「なんだ、その顔は」
やっと呼吸と言葉を取り戻したように、孔蔵は口を開けたり閉じたりしたあとに、言葉を繰り出した。
「えっ、そりゃあ、そうですよ。和尚、なんでですか」
どうということもなさそうに、和尚は答える。
「なんでって、お前、もうずっとぶつぶつと、俺は仏門には合わないとか御仏の道は歩めないとか、相手構わずぼやいておったろうが。皆聞いておるわ」
「えっ、じゃあ俺は、破門ですか」
今度は、孔蔵の声に悲愴さが加わった。和尚の調子は変わらない。
「破門も何も、昼間から酒を食らっとる時点でお前はもう破戒僧だろうが。門を出るかどうかはお前の自由だ。儂が言ったのは、宋十郎どのを助けて京までゆく道すがら、人や世の中を見てこいということだよ。僧門が合っているとかいないとか言う前に、それ以外の生き方を知らなければ、比べようもないだろうが」
孔蔵は、唇を噛みしめた。和尚は続ける。
「今まで、お前を離してやれなかったのは、儂の
「お、俺は、……破門ですか」
今度は、孔蔵の声に潤みが加わった。和尚は枕の上で、首を振った。
「馬鹿者、今言ったことを聞いとらんかったのか。もう、これだから……、違う。お前は仕事を終えたら、またここへ戻ってくればよい。その時かその手前かに、僧門がお前に合っているかは考えればよい。
だから、旅の道中で、寺や儂の名前を辱めるようなことはしてくれるなよ。お前は善良だが、短慮なのが玉に瑕だ。いくら善意で行おうと、正しく見聞きして考えねば、その行いは弱者を虐げ
剃髪した頭をうつむけると、孔蔵は唇を噛んだまま、膝の上で両拳を握り締めた。
和尚は布団の下から節の太い手を少し出すと、弟子の手の甲の上に置いた。
一方でその間も宋十郎は、黙って座したまま、和尚の言葉を待っている。
藍叡和尚が弟子に語ったこと自体には、彼は得心したし、同意する点も多々あった。
しかし彼はこの破戒僧が彼に同行するという話はまだ聞いてもいなければ、合意もしていない。
彼の視線になど恐らくとっくに気付いている和尚は、片手は孔蔵に握らせたまま、顔をやっと宋十郎の方へ向けた。
「すまない、宋どの。そういうことだ。孔蔵を、汝らの護衛として供させてくれぬか。孔蔵の力は、昨晩見ていただいた通りだ。きっと汝らのお役に立てることもあると思うが」
宋十郎は少し間を置いてから、答えた。
「大変、ありがたいお申し出です。ご厚意、感に堪えません。ただ、一つお伝えせねばならぬ点があります」
彼の隣で、篭が彼と孔蔵と和尚の顔を順に見つめている。孔蔵も、彼を振り返った。
和尚が特に何も言わないのを見て、彼は続けた。
「お察しの通り、私は籠原宋十郎です。我が家では倹約を
既に渡喜と喜代の親子と同行したことで、余分に金を使っているのである。頭数が増えれば、関所でかかる通行税の額も増す。渡喜が二晩の間に篭の着物を繕ってくれたのは助かったが、その着物は渡喜に、彼らが貰い受けた夫君の着物の対価として譲ってしまっていた。
白い顔に多少の色が戻ったように、和尚が笑った。
「ははは、そうであろうな。なに、心配はご無用、孔蔵の路銀は儂から孔蔵に預けるよ。それとも汝へ預けたほうがよいかもしれんな」
それを聞き、孔蔵が口を尖らせた。
「俺だって、財布の管理くらいはできますよ」
和尚は「どうだかなあ」と言って笑う。
この坊主が彼らに同行することは、これで決まったのだろう。
*
彼らはもう一晩を寺で過ごし、翌明け方に、西へ向かって発つことになった。
厄介だったのは、篭である。
渡喜と喜代が、孔蔵の同輩の僧侶たちと一緒に、門前まで出迎えに来てくれた。
それは良かったのだが、篭が喜代を抱き上げて離さなくなった。
喜代がいないと寂しい、一緒に行きたいと言う。
確かに昨晩、喜代が不思議な力を発揮しなければ、十馬はあの場にいた者たちを傷付け続けたかもしれない。篭が喜代に特別に懐いているのは、数日背負って歩き続けたとかお互いに会話が噛み合うとかいった理由だけではないのかもしれない。
しかし喜代はどんな力を持っていようと、まだ保護が必要な子供であり、湫然寺に残って学習を始めることも決まっている。
最後の方には、抱えられている喜代が篭の頭を撫で、青年の方を宥めているような有様になった。
喜代は言った。
「大丈夫だよ、篭はまた喜代に会うよ」
篭は、鼻声で言った。
「でも、喜代がいないと不安だよ」
「大丈夫だよ、三つ目さんが一緒に行くって」
そう言って、篭の頭を撫でている子供の目が、一瞬、宋十郎の方を向いた。
敢えて、彼は視線を逸らさずに受けた。睫毛一本動かしてはいない。
渡喜だけが、喜代の視線に気付いたような顔をした。
しかし渡喜はやはり何も言わないし、渡喜にとってそれは、さして重要でもないのだろう。
「三つ目さんが?」
何のことかわかっているのか、篭は少し頭を離すと、子供の顔を見つめた。
うん、と喜代が頷く。
「そっか……」
そう篭が呟いたのを見計らって、宋十郎は声を挟んだ。
「行くぞ。聞いただろう、何だろうと喜代は一緒には行くことはできない。それに私たちは、一刻も早く西へ向かわねばならない」
ぐずぐずというのが正しい表現で、篭はやっと喜代を地面の上に下ろすと、名残惜しげに子供の手を掴んだ。
「じゃあ、またね」
「うん、約束ね」
最後にそう言って、静かな表情の上に、喜代が小さな微笑みを乗せた。
篭は目尻から一粒だけ涙をこぼしたが、やっと子供の手を離した。
宋十郎の背後で、孔蔵が手にしていた笠を頭に乗せた。
「あの、」
喜代の向こうに立っていた渡喜が、一歩前に出た。
「篭さま、宋さま、本当にありがとうございました。私とこの子には恩人です。ご恩は、ずっと忘れません」
篭が、顔を赤くして首を振り、「ううん、ありがとう」と返した。
しかしすぐに口を噤み、渡喜と宋十郎の顔を見比べる。
宋十郎は彼の方を向いている渡喜の眼差しに向かって、頷いた。
「それは、私たちにとっても同じだった。お礼申し上げる。――では、達者で」
彼は渡喜に向かって頭を下げた。続いて、見送りに出てくれた僧侶たちにも頭を下げる。
礼を返してくれる僧侶たちに対して背を向けると、彼は歩き始めた。
孔蔵も、仲間たちとそれぞれ頷き合うと、宋十郎のあとを大股で歩き始めた。
「ありがとう」
最後にそう言い残した篭が、走って彼らに追い付いてきた。
先に歩いていた孔蔵を追い抜かして、篭が宋十郎の隣へやってくる。
「早く京について、病を治したい」
篭は言い、さらに続けた。
「そしたら十馬は豊松のところへ帰って、おれはもう一度燕に生まれ変わって、喜代やみんなのところへ行けるかもしれない」
孔蔵が目を丸くして、篭の言葉を聞いている。
宋十郎は兄の姿をしたものの方を、横目に振り返った。
篭は、先に延びる山道を見据え、その向こうの空を見上げていた。
「ならば、先を急ごう」
彼は言った。
*
街道沿いに、松並木が続いている。
海が近いせいか、秋の風が水の重みを含んでいる。
松の枝に腰かけているのは、この時も笠をかぶって
娘は片腕に細い蛇を絡ませたまま、ぼんやりと遠い野原を見つめていた。
彼女が
しかもこの先、
「阿呆が、阿呆を取ってこいって言うのなあ」
彼女が呟くと、持ち上げた腕に絡んでいる蛇が、小さな頭を擡げて彼女の瞳を覗き込んだ。
この蛇も、必要とあらばまた剣士の刀にかかって、彼女の代わりに死ぬのだ。
蛇たちはそれでも彼女を恨まない。不平も泣き言も言わない。
雨巳は唇の隙間から、細く溜め息を吐いた。
「人間どもは、阿呆ばかりで嫌んなるわな」
彼女の言葉に返す者はいない。
目を細めて東を睨むと、彼女の蛇を斬った若い剣士とやたらでかい坊主、ぼけた籠原十馬の三人が、遠く街道の上を、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「さてと、お仕事すっかね」
腕に蛇を乗せたまま、雨巳は松の枝から飛び降りた。
*
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