第14話 闇夜に踊る




 幼い頃の記憶は、木々の間を進む、小さな背中から始まる。

 物心ついた頃から、宋十郎そうじゅうろうはいつも兄を追って歩いていた。

 彼よりも四月よつき早く生まれた兄は、彼よりそれほど大きいということはなかったが、色々なことを知っていた。

 兄はよく朝から一人で屋敷を抜け出しては、村の外れにある林へ出掛けてゆき、宋十郎は置いてゆかれぬようにと、その後を追った。

「兄上、あれは何の音ですか」

 雑木林の中を歩いている時、不思議な音を聞いたように思い、子供の宋十郎は訊ねた。

 前を行く、子供の兄が答える。

「あれは、鳥だよ。雉鳩きじばとの鳴声だよ」

 兄は、彼がする質問の答えなら、大体知っていた。

「あれが鳥ですか? 変な声ですね。本当にあれは鳩が鳴いている音ですか? 何か別のものじゃないのですか」

 彼は歩きながら、質問を続けた。

「別のって?」

「何か、虫とか、別のものです」

「ううん。鳥だよ。それに、雉鳩の声は変じゃないよ。おれは好きだよ。もっと変な声のやつは、ほかにいっぱいいるよ」

 兄は大きな木の根を飛び越えると、積もった落ち葉を散らしながら進んだ。

 彼はそれに続いて木の根を跨ぎ越えると、もう十歩も先を歩いている兄に、走って追い付いた。

「じゃあ、一番変な声で泣くものはなんですか」

 すぐに、兄は答えた。

「月の鳴声だよ」

「月が鳴くんですか」

「うん、鳴くよ。宋は、聞いたことない?」

 癖毛の束髪を揺らしながら、兄は進んでゆく。立ち止まって考える暇は、与えられない。

 聞いたことなどあるわけない、と宋十郎は答えただろうか。

 月はあれほど離れている。仮に鳴声をあげたとしても、その声がここまで届くだろうか。







 宋十郎は本堂の床の上に座り、僧侶たちが外縁と室内を仕切る落し戸を順に閉めてゆく様を見つめていた。

 宵の空とそこに浮かぶ半月が遮られ、伽藍の内側で、徐々に闇が濃くなってゆく。

 本堂の中心、釈迦しゃか如来にょらい千手せんじゅ観音かんのん菩薩ぼさつの前に護摩ごまだんが設えられ、彫像の輪郭を際立たせるように、赤い炎を揺らめかせている。

 護摩壇のすぐ手前に、両目を閉じたろうの体が横たわっている。

 先ほど和尚が調合した薬湯を飲んで、篭は眠っている。

 左手と左目を隠していた包帯は、取り去られていた。

 最後まで開いていた正面の扉から藍叡らんえい和尚が入ってくると、伽藍の戸は完全に締め切られた。

 和尚が患者、篭の正面に座ると、和尚の斜め後方に孔蔵くぞうが座った。

 若い僧侶は着物を替えて袈裟を羽織っており、数珠を提げていた。眼差しを見るからに、酒気は抜けたらしい。

 堂の中には、眠っている篭を含めて、四人の人間しかいない。

 先ほど堂へ入る前に、和尚は宋十郎に、儀式に居合わせるべきではないと言った。

 十馬とおまの体から祓われたものが彼を襲わぬとも限らず、何が出るかわからない以上、術者でない者はじょうへ入らぬほうがよいという。

 それに逆らって、術を見届けたいと彼は頼んだ。彼は何としても、十馬に憑いているものの正体を知らねばならない。

「私は長いこと魔物憑きの兄のそばにおりましたが、私自身は妖魔に侵されたことはありません。それに、十馬に憑いていた妖物と闘ったこともあります。できることなら、私自身、お二人が魔を祓われる方法を見て知りたいとも思っております」

 彼がそう言うと、和尚は難しい顔をしたが、言った。

「宋十郎どの、汝には何か別の、強いものがついているようだ。儂には何者かわからぬが、それが汝に特別な力を与えているように見える。ご自身で、気付いておられるか」

 宋十郎は、静かに頷いた。

 和尚は、溜め息交じりに、ふむと唸った。

「ご自身で仰らなかったので、あるいは隠されているのかもしれぬが、汝らは有秦ありはたの武家の子らであろう。あの辺りは、森の神の国だ。汝にはその加護があるのかもしれんな。それに、意志は固いのだろう。危険を知った上で臨むというのなら、そうしなさい」

 今、彼は堂の端に座し、二本の太刀を腰に差している。

 深渓みたにの屋敷では、彼は鬼を斬ることができなかった。

 今宵再び見えることがあれば、彼の生身の剣は鬼に届くだろうか。







 和尚が誦唱ずしょうする声が響いている。

 彼が法要ほうようの際に耳にしたことのある読経どきょうとは、全く異なる言葉と響きだった。退魔のための経や祈りというものがあるのだろう。

 誦唱の声は時に孔蔵のものと代わり、随分と長く続いた。

 炎の揺らめきが和尚の顔を照らし、その眉間に、汗が滲んでいる。

 仰臥ぎょうがしたままの篭の顔は、赤い明かりの中で、奇妙に青褪めて見えた。

あらわせ

 読経の中で、和尚がそう言ったのを聞いた。

 その瞬間、篭の体がびくりと震えた。

 体の、首の影が落ちている辺りから、黒い小さな人型のものが立ち上がった。

 赤子ほどの大きさで、酷く痩せているのに腹が膨れている。

 あれくらいならば宋十郎でも聞いたことがある。餓鬼という小鬼だった。

のぼれ

 和尚の呟く声に合わせて、その餓鬼が炎をあげて燃え尽きた。黒い煙が、天井へ上ってゆく。

 孔蔵が、その様子を細めた目で睨んでいる。

 そのあとも袖の影から髪の影から、餓鬼や小鬼、正体の分からぬ悪霊がぽろぽろと現れては、煙となって昇っていった。

 それが一通り済んで止むと、誦唱の声に合わせて、また篭の体が震え始めた。

 唇の隙間から、暗い緑色をした煙のようなものが、細く立ち上り始めた。

 読経の声が大きくなり、眠っている篭の口が開いたと思うと、奇妙なことに、そこから緑色をした若芽が立ち上がった。

 若芽はみるみるうちに成長し、伸びて硬くなり枝を張り、一息もつかぬ間に小さな木のようになった。

 同時に、眠っている篭の髪が、白く変色してゆく。

 その様を凝視しながら、宋十郎は無意識に、刀の柄を握っていた。

 彼と同じように呆気にとられた孔蔵が、小さく叫ぶ。

「和尚」

 しかし和尚は応えない。

 眉間に皺を集め汗を流しながら誦唱を続ける師の様子を見て、孔蔵も声を合わせて呪文を唱え始めた。

 二つの声が重なる。

 途端に屋根が破裂するような音が響き、篭の口から伸びていた木が真二つに裂けた。

 いつかも見たような黒い巨大な腕が、天井から生えていた。

 目を開いた和尚が唸った。

「まだだ」

 和尚は数珠を巻いた手を胸の前で組み、呪文を唱え続ける。その和尚に、黒い腕が襲い掛かった。

 立ち上がった孔蔵が、師と魔物の間に立ちはだかった。

オン!」

 若い僧が印を結んでそう叫ぶと、腕は孔蔵を張り飛ばす寸前のところで、見えない壁にぶつかったように動きを止めた。

 孔蔵が続きを唱え、和尚もまだ誦唱を続けている。異なる二つの言葉が堂に響いた。

 黒い腕は一度引き、再度振り下ろして僧を狙うが、見えない糸に絡め取られたように硬直した。孔蔵の呪文が腕を縛めているらしいと宋十郎は気付いた。

 腰を浮かせて太刀を掴んでいたが、このままなら彼の出番などないかもしれない。

 そう思った時、視界の端で横たわっている篭の影が、妙に長く伸び始めたのが見えた。

 口から生えていた木が炭のように黒く変わってぼろぼろと崩れ、その残骸が床に転がる。

 その間を縫うようにして影が這い、堂の戸口まで届いたところで、大きく膨らんだ。

 影の中から現れたのは、熊ほどもある、巨大な蜘蛛だった。

 蜘蛛は現れるなり、目にもとまらぬ速さで壇へ向かって這い始めた。

 今度こそ宋十郎は床を蹴って立ち上がる。既に抜刀していたが、僅かに魔物に届かない。

「和尚!」

 彼は呼んだが、その声が響く頃には、蜘蛛の足が藍叡和尚に迫っていた。

 和尚は目を開かず、誦唱も止めない。

 剣のように鋭い足が、和尚の胸に突き立てられた。

「うおおおっ」

 叫んだのは和尚ではなく孔蔵である。

 若い僧は雄叫びをあげ、両手の印を組み替えた。

 剃髪した頭に太い血管が浮く。

發吒ハッタ!」

 唸り声と共に、巨大な黒い腕は、見えぬ糸に引き千切られたように弾けた。

 不気味な破片が飛び散るのにも構わず、宋十郎は蜘蛛の尻に斬りかかった。

 黒い体は鋼のように硬く、刃は弾き返される。

 蜘蛛の頭が彼の方を向いた。

 突かれてもなお和尚は呪文を唱えていたが、その目が開いて、巨大な蜘蛛を睨み上げた。

「汝は何者だ」

 魔物は再度和尚を振り返り、先ほど胸を刺し貫けなかった足を上げると、それを鎌のように擡げた。

 孔蔵が蜘蛛へ体を向け、印を結び直して別な呪文を唱えた。黒い腕がそうなったように、蜘蛛の動きが縛られる。

 井戸の底から響くような、静かだが妙に耳に残る声が、くすくすと笑った。

 蜘蛛の大きな顔が軋むような音を立てて割れ、その間から、白い女のめんが現れた。

 舞台で見るような白塗りの小面こおもてが、赤い唇をうっすらと開き、微笑んでいる。

『ぬしは、我とことばを交わすかえ』

 腕から背中から、全身の皮膚が粟立つのを、宋十郎は感じた。

 これは恐怖だと、彼は感じた。しかし何が恐ろしいのか、彼にはわからない。

 魔物は孔蔵の糸に縛られたまま、喋り続けた。

『僧ども、僧ども、ぬしらはただの肉じゃ。誰が餌と詞を交わそうか』

 藍叡和尚が、震える手で数珠を握り締めたまま、白い面を見上げた。袈裟の胸が、血で染まって黒く見える。

「悪霊、なぜ若者に憑く。肉を食ろうても苦痛は消えず汝はやすまらぬ。名乗れ、さすれば仏のもとへ還る舟に汝の名を書き、御霊を浄土へ送ろうぞ」

 声は哄笑した。

『浄土、浄土、浄土とな。そんな場所はありはせぬ。われは眠らず、痛みも覚えぬ。爺い、ぬしはさしずめ塵芥じゃ。まずはぬしから喰ろうてやろう』

 そこで孔蔵が印を結び変え、呪文のような唸り声を上げた。

 見えない糸に縛られていた蜘蛛の四肢が激しく軋む。

「待て、」

 和尚が短く言葉を吐く。孔蔵に向けたものだと宋十郎が気付いたのは、次の瞬間だった。

 小面の顔が歯を見せ、にいと笑う。

しろ夜叉やしゃさま』

 一言残すが早いか、蜘蛛の体が、千々に分かれて弾け飛んだ。

 宋十郎はその時見た。一息に縮んだ蜘蛛の影が床の上を滑り、先ほどの逆回しを見るように、篭の影に吸い込まれてゆく。

 横たわっている篭の髪が、真っ白に変わっていた。

 仰臥していた青年の体が、音もなく起き上がった。

 左目が閉じられており、唯一開いている右目が、森に棲む獣のように光っていた。

 立ち上がった白い髪の人型は、右手を左の袖に入れる。

 右手が袖から抜き出したのは、刃の折れた古い刀だった。

 今度こそ、宋十郎は剣を握り締める。

 恐怖が去り、突如として緊張がやってきた。




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