第13話 山門の静寂に聴く




 街の外れにあるという寺へ向かって、彼らは歩いていた。

 渡喜とき宋十郎そうじゅうろうが街を歩き人と話して集めた情報によると、湫然寺しゅうねんじの今の僧正そうじょうはこの辺りでは有名な人物で、甘粕あまかす和尚おしょうと呼ばれているらしい。

 戒名を藍叡らんえいというその和尚は、北地ほくちで荒行を積んだあと鎌倉へ上ってきた修行僧だった。酒を密造していた寺院に乗り込んでいって、酒蔵を叩き壊して当時の僧正を追い出し、貯め込まれていた金を使って寺院を再建した。この時に残った酒粕で甘酒を作り、近隣の庶民に配って歩いたので、そういう綽名がついたのだという。それが三十年ほど前のことで、以来歳時の際に甘酒を作って振舞うのが、寺の習わしのようになっているそうだ。

 もっとも甘粕和尚が有名なのはその英雄譚によるもので、憑き物落としをするという話を知る町民は、ほとんどいなかった。そのため宋十郎は既に一度寺を訪ね、湫然寺が件の寺院であるかどうかを、確かめてきたということだった。

 和尚はとても気さくな老人で、突然現れた宋十郎にも面会し、彼が喜代きよろうの症状をかいつまんで説明したところ、まずは二人を診てみようと言った。


 町外れを小さな山沿いに進んだ場所に、その寺はあった。

 山門の扉は開け放されており、若い僧侶が門の脇を掃き清めている。

 僧侶は宋十郎の顔を見ると、彼らを門の内へ誘い、奥へ案内した。

 山中にあって案外と広い境内には、救護所のような小屋が僧房と並んで立てられており、病人や孤児が養われているようだった。

 庭では、二、三人の小さな子供が走り回っている。

 講堂と思しき伽藍がらんに上がるように勧められ、彼らは磨かれた板張りの床に座って待った。


 暫く待つと、還暦を少し過ぎたくらいの僧正が現れた。

 黒い着物の上に袈裟を掛け、数珠を提げている。あくのない、日焼けした小麦色の顔にまろやかな笑顔を浮かべ、和尚は手短に挨拶した。

「儂が藍叡だ。宋どのから既に経緯を聞いている。魔物憑きだそうだね。汝らさえよければ今すぐに診てみるが、いかがするかね」

 渡喜が目を瞬かせ、次いで声を発した。

「そんなにすぐ、落とせるものなのですか。お、和尚さまは、以前も魔物を落とされたことがおありなのですよね」

 そう言ってからすぐに渡喜は唇を手で押さえ、「すみません」と囁くように言った。

 藍叡和尚は首を振った。

「いや、我が子のこととなれば、親として医者の腕は気になるところだろうよ。儂は、確かに何度か妖魔を退治したことがある。人や物に憑いた魔物を落としたこともある。ただし儂の退魔法は、僧院で高僧に師事したものでなく、方々で学んだ術を自己流に使っているものだ。野良医者のようなものだが、病を治すためには全力を尽くすよ。いずれにしろ、落とせるものか、落とすべきものかは診てみぬことにはわからないが」

 語りながら、和尚の目は喜代と篭を見つめ、最後に渡喜へ戻っていった。

 渡喜はもう一度訊ねた。

「落とせないことや、落とすべきでない場合があるのですか」

 和尚は頷く。

「もちろん、妖魔があまりに強力なら、儂程度の力では敵わない場合もある。また、魔物憑きのように見えるものが、実はそうではない場合もある。その場合は、落とせないことも、落とさないほうがいいこともある」

 腹の前で組んだ両手を握り締め、渡喜は頷いた。

「わ、わかりました。あの、喜代を、私の子を、見ていただけないでしょうか。大きな額ではありませんが、お布施ふせの用意もあります」

 すると、和尚は笑った。

「お布施は、結構だよ。もちろん頂ければ裏の小屋で寝ている病人たちの役に立つが、ここでお布施をしたことで汝らが路頭に迷っては、儂らがしている仕事の意味がない。では、そちらの子を診てみようかね」

 渡喜は顔を赤くしたが、次に、はにかむように笑った。


 憑き物落としをするからには、藍叡和尚にもこの世ならぬものを視る能力があるようだが、詳しく視るには集中する必要があるらしい。

 和尚は喜代と渡喜を連れて、別の部屋へ移っていった。

 講堂で待っている間、篭は力強い柱と梁の造りや、軒先に吊るされた灯篭の透かし模様を眺めていた。

 人間はものを作るのが好きだと、彼は思う。

 黙って座っていた宋十郎が、突然言った。

「和尚の影は、どんな形をしている」

 篭は、宋十郎を振り返った。少し考えて、答える。

「和尚さんの影は、ぼんやりしてて、あんまり見えないよ。なんでだろう」

「そうか」

 それだけ言うと、宋十郎は沈黙に戻り、柱の向こうの庭を眺めていた。


 あまり時を置かず、渡喜と喜代は和尚に連れられて戻ってきた。

 喜代は相変わらず落ち着いているが、渡喜の顔が穏やかに輝いて見えた。悪い話を聞いたわけではなさそうである。

 和尚が微笑みながら、篭に声を掛けた。

「では、次は汝を診ようかね」

 和尚の顔を見上げ、宋十郎が言う。

「篭を診ていただくなら私も同席したいが、よろしいでしょうか」

「もちろん構わぬよ。では、こちらへ」

 篭は立ち上がり、和尚の後を歩いた。


 そこは、大人が三人では手狭に感じる、小さな部屋だった。

 茶室のようだが、畳も敷かれておらず飾り棚もない部屋は、応接よりは瞑想のための場所に見えた。

 そこに向かい合って腰を落ち着けるなり、藍叡和尚は話し始めた。

「実は、汝については、静黙して視るまでもないと思っている。儂程度の者にでも、汝が負っているものは明らかだからね。ただ、悪い話を聞かせねばならぬから、ここへ呼んだのだが」

 和尚は単刀直入だった。篭は唇を引き結んだ。

「儂は山に籠っておった頃、本物の鬼や化物も何度か見たが、汝のようなものは初めて見た。汝は恐らく半ば人で、半ば人ではない。人が化物になる例は聞いたことがあるが、その手前の状態といったところか。燕が憑いているというのも、珍しいね」

 篭は、宋十郎の変わらない表情を見遣った。どうやら彼の正体まで、宋十郎は和尚に語っていたらしい。

「その器――体には、たくさんの、怨念や妖魔のようなものが憑いている。あまりに多いから、この場で逐一見極めることができないが、相当古くて大きなものから弱小なものまで、様々なものがあるようだ。弱小なものは恐らく強いものにひかれて集まってきたのだろうが、強いものが憑く時は、確実に因果がある。

 弱いものなら儂の呪法でも多少散らせようが、強い者を祓うにはその前に因果を確かめねばならない。ただし、強い者どもは通常その正体を無闇に表さぬから、まずはそれを知るところから始めなければなるまいよ」

 既に、篭は泣きたくなってきた。数えきれないほどの不気味なものが自分の中に詰まっていると聞かされて平常でいられるほど、彼は気丈ではない。

 十馬とおまを助けて茂十しげとみの願いを叶えてやりたいというのは、身の程知らずの浅はかな願いだったのだろうか。

 黙り込んでいるうちに、彼は宋十郎の声を聞いた。

「篭は金色の鬼を見ています。先日襲ってきた賊は、それを凶鬼まがおにと呼んだそうです。また、一度喜代に憑りついた妖物が、十馬を白夜叉と呼びました。それが何のことか、お分かりになるでしょうか」

「その賊が何者か知らぬが、名前の付く鬼ならば、かなり上位の魔物であろうよ。今は姿が見えぬから、隠れているか、好きな時に現れるものだろう。何にしろ度々現れるのなら、確実に十馬どのと何かしらの因果がある。白夜叉というのが何かはよくわからぬが、悪霊が生きている人間を別のものに見立てたり、そのものへ変じさせようとすることはある。

 汝らの出生は有秦ありはただというが、有秦は古くから多くの人が住み、それだけに古い神々や魔物の逸話も多く残る場所だ。因縁は十馬どの個人でなく、土地や家系に関わるものである場合もある。故地の伝承などを調べてみることも、役に立つかもしれぬ」

 なるほど、と宋十郎は頷いた。

「先ほど、弱小のものは祓えると仰いましたが、今それをお願いすることに、意味はあるでしょうか」

「全く無意味というわけではない。小さなものが悪さをすることはよくある。ただ、大きなものがそれらを呼ぶ限り、根本の解決にはならぬがね」

 宋十郎はもう一度、和尚に訊ねた。

「篭の体は、もとは十馬のものでした。十馬は今では、その怨霊のひとつになっているということでしょうか。つまり、今見ると、この体の主は篭のように見えます。憑き物落としをした場合に、篭と十馬の魂、どちらがこの体に残るのでしょうか」

 和尚は、難しい顔をして腕組みした。

「はっきり言えるわけではないが……十馬という青年の魂は、今儂の目には見て取れない。埋もれてしまっているのかもしれない。しかし、肉体と霊魂には強い繋がりがある。よほど特別な力で断たない限り、憑き物落としをした場合に、本人の魂まで落ちてしまうということは、ないと思うがね……。逆に、篭どのがあとからそこに憑いたということなら、篭どのがこの体から祓われることは、普通に考えれば、あり得るだろうね」

 押し黙ったままの篭は、さらに気が沈むのを感じた。悪くすれば、彼は悪霊の仲間として祓われてしまうのだろうか。

 彼を十馬の体へ移した梟のけいは、病気の魂を回収に来たと言っていた。そもそもあの時に彼が余計なことを言わずに、薊に十馬の魂を持ち去らせていたら、宋十郎も彼もこんな遠くへ危険を冒して旅する必要はなかったのかもしれない。伊奈いなだって、あんなことを言うことはなかったに違いない。そして十馬の魂も、腐りかけた肉体の檻を出て、黄泉のいずこかで休息を得ていたかもしれない。

 もしかしたら、とんでもなく愚かなことをしてしまったのではないか。

 先ほどまで恐怖に縮んでいた心臓が、違う痛みを感じ始めた。

 息が苦しいと思ったら、彼は涙を流していた。

 嗚咽を堪えた瞬間に、和尚と宋十郎が振り返った。

 和尚が眉を下げた。

「どうしたね」

 涙と嗚咽を堪えようとして、篭は呼吸困難に陥った。口を開けたら声をあげて泣き出してしまいそうだった。

 宋十郎が、いつかも彼に向けたことがある、何か異質なものを見るような瞳で彼を見ている。

 和尚が何かに気付いたように、膝を立てて彼に歩み寄った。

「すまん、お前を祓ってしまおうというわけではないよ。ただ、仕組みとしてそういうことがあるかもしれないというだけだ。そう、大事なことを言い忘れておった。篭、お前の魂は、言ってみればその怨霊の坩堝るつぼにかけられている、封のようなものだよ。つまり、お前はそこに必要だということだ。お前がすこやかに思い、話し、行うことが、封印を保ち呪いをとどめる力になる。怒りや嘆きは力を弱くする。重いものを背負っていれば難しいことかもしれないが、汝はできる限り、笑っていたほうがいい」

 袈裟の袖を伸ばすと、和尚は篭の頭を抱きかかえた。

 線香の香りと、緑の匂いがした。

 篭はその中で、呼吸を整えながら、豊松とよまつのことを思い出した。

 十馬がこの世で死んだら悲しむ人がいるのである。彼は病を治して深渓へ戻ると、約束したではないか。

 徐々に呼吸を取り戻しながら、彼は和尚が宋十郎に向かって話すのを聞いた。

「宋十郎どの、これはあくまで申し出だが、十馬どのの体に退魔法を試してみるかね。細かいものを多少祓うだけでなく、憑いている大きなものの正体を探ろうと思う。どこまでやれるか全くわからぬが、少なくとも何かわかれば、除祓の糸口にはなるかもしれん」

 宋十郎は間を置かず、答えた。

「ありがたいお申し出です。ぜひ、お願いしたく思います」

 すると、和尚は篭の頭を離し、彼の瞳を覗き込んだ。

「そういうことだ。お前は、それでよろしいかね?」

 退魔法というものが具体的に何をするものか知らないし、恐ろしくないわけはなかったが、篭は頷いた。彼だって、十馬に付きまとう不気味な連中のことは、好きではない。

 それを認めると和尚は敢えて力強く笑って見せ、彼の肩を叩いた。

「よし。では、今夜やってみよう。宵を過ぎてからになるので、それまでは講堂で休んでいなさい。久し振りなので、儂も色々支度が必要だ」

 もう一度篭は頷き、和尚の顔を見つめ返して、やっと取り戻した呼吸で言った。

「ありがとう」

 和尚は目を細め、微笑み返した。


 その時、戸の向こうから、荒々しい足音が近付いてきた。

「和尚!」

 大声と共に、乱暴に戸が引き開けられる。

 現れたのは、先ほど街中で篭を殴りかけた、大柄な坊主だった。

 振り返るなり、和尚は坊主を睨みつけた。

孔蔵くぞう、来客中だぞ」

 若い坊主は喚いた。

「んなこた知ってますよ、和尚はいっつも客人か病人の相手をしてばっかでしょう。暇のある時なんぞありゃしない。今日こそ、俺の話を聞いてもらいますよ」

 そこまで言って、坊主は和尚の袖に隠れている、襤褸ぼろを着て包帯を巻いた若者に気付いたらしかった。

 坊主の丸い瞳が大きく見開かれる。

「あっ、そいつ! そいつは妖魔ですよ、和尚」

 和尚は篭から離れ長身の弟子の前に立つと、その顔を睨み上げた。

「喧しい、そんなことわかっておるわ。それよりお前、酒臭いぞ。酔っ払いと話しても話にならんと、何度言わせれば気が済むのだ。頭を冷やして出直してこい。そこを退かんか」

 孔蔵は一度何かを言いかけたが、悔しそうに歯噛みした。どこか萎れたように肩を落とすと、体を引いて戸口を空けた。

 和尚は篭と宋十郎を振り返ると、穏やかな手つきで、空いたばかりの戸口へ誘った。

「騒がしくして申し訳ない。講堂へ戻ろうかね」

 宋十郎が立ち上がり、若い坊主には一瞥もくれず、早々に茶室を出た。

 篭はその後を追いつつ、ちらりと坊主を見遣る。

 孔蔵のほうは立ち尽くして足元を見下ろすばかりで、彼のほうなど見向きもしていなかった。


 講堂へ続く石畳を歩きながら、和尚は溜め息交じりに話した。

「恥ずかしいところをお見せした。あれは、あれでもうちの門弟だ。根は悪い男ではないのだが、儂の教導が行き届かぬせいで、ああした無作法を働く」

 しかし宋十郎はそれには答えず、篭のほうを振り返った。

「孔蔵どのと仰いましたか。あの御仁は篭、お前を見知っていたようだったが」

 篭は頷いた。

「うん……おれを叩いたお坊さんは、あの人だよ」

「なんと、そんなことがあったのかね」

 和尚の言葉に、宋十郎が答えた。

「いえ、ご子弟は無闇に篭を殴ったわけではなく、盗人と間違えたのだそうです」

「なんと……」

 ますます深い溜め息を吐くと、和尚は篭を振り返った。

「怪我はないかね? 孔蔵はああ見えて、いや、見たままだが、腕っ節だけが取り柄の男だ」

 襟の合わせを覗き込み、篭は火傷が消えていることに気が付いた。

 そういえば、いつの間にか痛みもなくなっていた。

「傷が消えてる」

 彼が言うと、宋十郎も振り返って、彼の胸元を見た。

「確かに、消えている。先ほどまで、孔蔵どのが触れたという場所が、火傷のように腫れていたのです。それが消えました」

 今の宋十郎の言葉は、和尚に向けたものだろう。

 和尚は眉を寄せて、頷いた。

「孔蔵は、……これはあとでお話しようと思っていたのだが、大した霊力の持ち主でな。霊力とは、修験者が退魔に用いる法力の根源のようなものだが、あいつは意図せずに常にそれを撒き散らしている。人間には大体の場合無害だが、篭どのの体は半ば人でないから、孔蔵の霊力が凶器になることは、十分あり得る。ただし、篭どのの体は半ば人でないゆえに、そういった傷から回復するのも早いのかもしれない」

 つまり、孔蔵には近寄らないほうがいいらしいということだけが、篭の意識に残った。和尚は続ける。

「実は今宵の退魔法の際には、孔蔵を呼ぶつもりだった。粗忽で未熟者ではあるが、あれで本当に大した術者なのだ。後ほどご紹介をと考えていたが、あんなところを見せてしまい、不安に思われたろう。だが、退魔の能力だけ取れば、儂よりもよほど強力だ。仕事はきちんとする男であるし、儂も監督しておるので、信頼してほしい」

 結局孔蔵には近寄らなければならないらしい。篭が覚悟を決めようとしているそばで、宋十郎が答えた。

「触れるだけで傷を負わせるのですから、魔物退治には頼もしいお味方です。ご厚情に感謝申し上げる」

 目の前に、講堂へ上がる階段が迫っていた。

 階段の上に立った喜代が、にこにこと篭を見つめていた。




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