第11話 旅の風景




 彼は、床の上に座り込んでいた。

 視線が低く立ち上がれないのは、彼が人間の赤子だからである。

 目の前で、父が歩き回っている。

 男はあでやかな赤い着物を手にしており、その着物を抱きしめて咽び泣いた。

――明霞あか――

 男が呼んだのは、既に亡き着物の主の名前である。

 男の向こう、天井の隅で、嗤うように不気味な影が揺れた。

 男が振り返り、不吉の名で、彼を呼ぶ。

 幼子の彼は見上げることしかできない。







 ろうは目を覚ました。

 薄い布団の上、宿の部屋の中だった。暗い。

 心臓が鳴っており、握り締めた手が冷え切っていた。

 彼の隣では、いつから目覚めていたのか、宋十郎そうじゅうろうが布団に座って彼を見ている。

 その向こうでは、別の布団で渡喜とき喜代きよの親子が眠っていた。

「どうした」

 落とした声で宋十郎が言った。

 彼は継ぎだらけの古着の胸を掴み、答えた。

「夢、見てた」

 宋十郎は、何か難しいものを見つけたように、目を細めた。

「そうか。……もうじき、夜が明ける」

 格子窓の外は、白く濁り始めている。







 時は昨日へさかのぼる。

 盗賊とかわうそ忍者を追い払ったあと、篭と宋十郎は庶民に扮装した。

 彼らは渡喜の亡くなった夫の着物を着て、刀には布や紐を巻いて紋や銘柄を隠した。一着だけあったくくりばかまは宋十郎が使った。

 篭の左手には渡喜が包帯を巻き、黒いきずを隠してくれた。

「少し軽くなったね」

 篭は言った。場所を変え、渡喜の荷物を見せてもらっているうちに、彼の機嫌は随分回復した。

 一方で宋十郎は、心なしか憮然としていた。

「薄着になったのだから、当然だろう」

 喜代が篭の腰に飛びつき、篭は屈んで喜代を背負った。

 渡喜が、予備の背負い紐で、喜代を篭の背に括りつける。

 彼の束髪をもじゃもじゃと掻き回す子供を、母親が咎めた。

「喜代、おやめ」

「はは、大丈夫だよ」

 彼は笑うと、首を後ろに倒して髪を喜代の顔の上に乗せた。きゃっきゃと笑う声がする。

 荷物を背負い直していた宋十郎が言った。

「行くぞ。昼になってしまう」


 尾上橋おがみばしは、古くはおがばしと書いたそうだ。

 京に都が遷る以前から有秦ありはたには大きな集落があり、集落のそばにある山の神を祀るための社殿があったという。社殿から山へ向けて架けられた橋を、人々は拝み橋と呼んだ。

 尾上橋の付近では、大小様々なやしろを見掛けた。何の用途かわからない小屋に、紙垂しでをつけた注連しめなわがかけてあるようなものも、街道沿いの道なりにいくつか見た。

 あれは何かと訊ねた篭に、渡喜が土地に伝わる昔話を聞かせてくれたのだった。

 そういう風景を抜け、柵で囲われた町の手前に差し掛かると、木組みの門が現れた。

 深渓みたににあった門だけのものとは異なり、屋根のついた検問所が併設されていた。

「余計なことは言わぬように」

 検問所の手前で、宋十郎に念を押され、篭は頷いた。

 関所の中には何人もの人が滞留していた。荷車を曳いた農夫、馬を連れた商人、笠をかぶった旅人などが、順番待ちをしている。

 彼らも待たされた。

 退屈してきた篭は、渡喜に教えてもらって、喜代と手遊びをし始めた。

 宋十郎は黙って立っていたが、やがて順番を呼ばれると、帳簿を手にした役人らしき男と話し始めた。

 やがて戻ってきた宋十郎が「行くぞ」と言ったところを見ると、彼らは無事に検問を抜けたようだった。


 尾上橋は賑やかな町だった。

 大通りには商店が並び、路地裏には小さな屋台が点々としている。気取って歩く侍、急ぎ足の商売人、路の端に座り込んで呆然としている浮浪者など、様々な姿を見かけた。

 町の中に入ってしまうと、この町がはたして深渓の何倍あるのか、よくわからない。

 通りを歩きながら、伊奈いなの言葉を思い出して、篭は言った。

「尾上橋にはいくつお茶屋さんがあるかな?」

 宋十郎はしかし、篭の期待からは外れた回答を寄越した。

「茶屋は高い。私たちはもっと安い店を探す。それにまだ正午前だ」

 実際に宋十郎は通りすがりの屋台で握り飯を買っただけで、尾上橋を出た。

 出る際にも別の関所を抜けたが、宋十郎と渡喜は、入った時よりも長々と尋問を受けていた。

三蕊みしべは、叢生くさなりの間者を心配しているようだ」

 検問を抜けたあと、宋十郎は少し疲れたような声で言った。

「侍姿のままではとても抜けられなかった」

 その言葉は、渡喜に向かって発されたようだった。

 渡喜が頭を下げ、それに対して宋十郎が会釈を返した。

 あの動作は恐らく、『ありがとう』に相当するものなのだろう。

 歩きながら、篭は二人のやり取りを横目に見ていた。


 その晩は坂見原さかみばらという町まで歩き、四人で安宿の板の間を借りた。

 この時も宋十郎が篭の足の手当てをしてくれたのだが、前の晩と同じく、歩いて痛めた足から滲むのは赤い血であり、傷が勝手に癒える気配もない。

「これもすぐに治ればいいのに」

 ぼやいた彼に対し、宋十郎は答えた。

「見たところ、魔物に受けた傷は異常に早く塞がるのではないか。そうでない傷まで塞がるようになれば、お前の体は完全に人間でなくなる」

 篭は閉口した。

 痛みも傷も、この世の生き物であることの証のようなものだろうか。

 傷の手当てが終わると、妙なものを見る暇もなく、篭は喜代と一緒に泥のような眠りに落ちた。

 宋十郎と渡喜はまだ何やら話していたようだが、気にしている余裕もなかった。


 篭は、その晩に夢を見た。

 人間になってから夢を見たのは初めてではない。

 初めの夢は恐ろしかったが、その後に喜代のことがあって、忘れてしまっていた。

 この晩に見た夢はとても悲しい夢で、しかしひどく現実的だった。

 宋十郎に夢の話をすべきだろうかとも思ったが、渡喜と喜代が起きてきて、皆で朝の支度をするうちに、彼は夢について考える暇を失った。

 宿の者が準備してくれた朝餉を掻き込むと、薄明りと朝靄の中、南へ向かって発った。







 叢生の施政は領民の評判が良く、叢生領には流民や野盗が少ない。

 そう言ったのは宋十郎だが、実際に彼らは坂見原から鎌倉かまくらの間で、先日のような賊に襲われることはなかった。

 一度、貧しい身なりの浮浪者集団に出くわしたが、その集団は彼らの様子を窺うばかりで、とうとう飛び掛かってくることはなかった。太刀を握った宋十郎が威嚇していた効果もあったのかもしれない。

 あれは追ヶ原おいがはらあたりからの流民だろうと、渡喜と宋十郎は話していた。


 日暮れ前に何とか鎌倉に辿り着き、またしても検問の列に並んだ。

 さすがに篭も喜代も疲れ切っており、この時は手遊びもしないで、ただ土の上に座り込んで待った。

 喜代は篭に背負われていることが多かったが、篭の足があまりに遅くなると、時々下ろされて自分の足で歩いていた。

 宋十郎と渡喜が関所の役人とやりとりし、宋十郎が所定の通行税を支払うことで、彼らは何とか関所を抜けることができた。

 適当に流民を名乗ると、台帳に記録された上で移民用の耕作地へ移されてしまうらしく、二人は商売を始めるために移住してきたという話を作ったようだった。

 鎌倉は、尾上橋とはまた風情の違う、広い都市だった。

 山裾に平野が広がり、海が近いことを感じさせる。夕暮れ時にもかかわらず、大路おおじ小路しょうじを行き来する人影はまだ絶えない。

 潮の気配を感じた篭の心は浮き立ったが、なにせこの時も倒れたいほど疲れていた。

 彼は喜代と手を繋ぎ、宿を探して歩く宋十郎と渡喜の後を歩いた。

 もう日が落ちるので、湫然寺しゅうねんじとやらを探すのは明日の朝にしようという話になった。

 やっと辿り着いた安宿で布団に転がるなり、篭は眠りについた。







 示された赤い着物に腕を通す。

 彼は小さな子供だった。

 着物を彼に着せた侍女は、続けて彼の髪を結う。

 男の声が名を呼んだ。

 彼は立ち上がり縁側へ行く。

 父は、やってきた彼を隣へ座らせた。

 歌を教えてやろうと男は言う。


――あきやまの しろいつきがないたらば

 ぼくしゅをとって ねやにうめ

 つないだいぬに ばんさせる――


 男の声を聞き、男の声を追って重ねる。

 歌声に合わせ、さざめくように影が揺れていた。 




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