第10話 竹林に風起つ
左手の竹藪の中から現れたのだが、先ほどその辺りに人影などあっただろうかと、宋十郎は訝った。
女は遊女のように組紐の帯を締め、結いもしない乱れ髪を肩へ垂らしている。美しい顔は、土気色をしていた。
「ああ、お助けください」
よろめきながら、うわ言のように女が言った。
このまま走れば衝突するというところで、宋十郎は足を止めた。
「賊に襲われました。旦那さま、お助け下さい」
剣を握ったままの宋十郎の胸へ縋り付くようにして、女は駆け寄ってきた。
戸惑いを目に表しながら、宋十郎は女と竹林の先を見比べる。
「私は今二人の賊を斬り、もう一人を追っている。お前が見た賊はどこだ」
「それは……」
女が細い指をどちらかへ向けようと宙に漂わせた時、渡喜が怯えた声を発した。
「
渡喜は宋十郎の足元を指さしていた。女と宋十郎が立つ地面が、妙に濡れていた。女の着物の裾や足首から、ぽたぽたと水が滴っている。
女の髪は確かに濡れたような輝きを放っているが、顔や体が湿っている様子はない。
宋十郎は悪寒を感じて女から身を引いた。
赤い唇が、にいと笑う。
「女連れは、良うないのう」
妖だ――
判断した宋十郎は、剣を振り上げて女に斬りつけた。
女は不自然な脚力で跳び、彼の背後にいた渡喜の隣に降り立った。
声をあげて跳び退さる渡喜。
ほほほ、と妖が笑う。
「
宋十郎は身を翻して剣を突き出すが、女はそれも後ろ跳びに躱す。
「遊んでおくれ」
美しかった女の顔の皮膚が灰色の鱗へ変わり、その姿が歪んで崩れた。
瞬きの間に、鎖が伸びて篭の胸元を狙った。
地面に尻をついたままで喜代を背負っていた彼はそれを避けきれず、刃物は彼の胸の辺りを浅く裂いて引いた。分銅が鋭い刃物になっている。
背負い紐が切れて、彼の背から喜代が落ちた。
篭は相手の意図を理解した。
「離れろ!」
彼が言うまでもなく喜代は走り、近くの木の影に隠れた。
忍は喋る。
「手合わせの前に、京へ行かれる理由もお聞かせ願えればありがたく存じます」
「言ったら、それ、しまってくれるの」
なぜ彼らが京へ行くと知っているのだろうと思いつつ、時間を与えられた篭は、跳びつくように刀を拾う。
「内容次第かと」
「おれが病気だから、それを治しに行くんだよ。お医者が、京にいるって」
「宋十郎さまのお手引きで?」
「そうだよ」
彼がそこまで答えたところで、再度、鎖鎌が伸びた。
せめて返答くらいしてもよいのではないか。最初から感じの悪い奴だと思ってはいた。
構えていた刀で咄嗟にそれを受けると、刀身に鎖が絡みついた。
思いのほか強い力で引き寄せられて前のめりになる。鎌に首を狙われていると気付き、大きく体を傾けて逃れた。
一瞬でも遅ければ、首を刈り取られていたかもしれない。
手や膝が、今更のように震えてきた。
絡め取られた太刀を捨て、篭は忍との間を取った。
腰に差していた脇差を抜く。これも奪われれば彼は丸腰になってしまう。
忍は奪った篭の太刀を放り、鎖を振った。
篭は大きく身を沈めて避けるが、次から次へ分銅が襲う。
木々の間を滑り器用に獲物を狙う武器から、躱して反って跳ねて逃れる。
とうとう一撃を避けきれず、篭は咄嗟に空いていた左腕でそれを受けた。鎖が腕に巻き付き、分銅が袖と皮膚を裂いた。
「あっつ」
彼が声を上げた間に、相手は鎖を手繰って目の前にいた。
至近距離から振り下ろされた鎌を反射的に脇差で受ける。これは十馬の体の反応だ。
くの字の鎌が彼の刃を引いたが、篭は柄を握り締めた。
脇差を振ろうとしたが、捕らえられた左腕を引かれる。彼が重心を失っている隙に、忍は跳び退さって距離を取った。
十馬ならどうだか知らないが、篭ではまるで歯が立たない。
忍が単調に言った。
「病み上がりですか」
篭は肩で息をしながら左腕の鎖を振りほどき、相手を睨んだ。
こいつの質問にはもう答えないと決めている。
先ほどまで
思わずその変身を見送ってしまった自分を愚かだと叱責するしかない。
宋十郎が剣を振り下ろすと、武者はいつの間にか手にしていた刀で、彼の剣を受け止めた。
確かな感触は、人間ならば相当の
「おおらっ」
太い掛け声とともに、武者は彼の刃を跳ね返す。
宋十郎の全身から汗が噴き出した。
「おら、おら、おら!」
武者は次々と刀を振り下ろす。
速さは大したものではないが、一撃の重さが尋常ではない。受け止めるたびに彼は型を崩され、次の一撃を躱す余裕を失う。
まさに打ち合いの暇潰しである。相手の意図が読めない。
宋十郎は困惑を押し隠しながら、渡喜を背に庇いつつ少しずつ後退していた。
武者の歩いた後には、濡れた足跡が残る。
このままでは疲弊するばかりで埒が明かない。頭を使え。集中しろ。
すると、渡喜が不意に彼の背後から離れて走りだした。
「むむ――」
武者の目がその動きを追い、次の剣撃に遅れが生じた。
今しかない。
宋十郎はその一瞬の隙に足を踏み込み、真っ直ぐに剣を突き出した。
それを防ごうと武者は咄嗟に刀を横に構えたが、直線はそれを紙一重で滑り抜けて男に届く。
着物を通して胸板に、深々と刃が刺さった。
武者の暗い土色の顔に、白灰色の鱗が浮かび上がり、瞳は黒から黄へ変わり、瞳孔が縦に伸びる。
次の瞬間、人の形は水音をたてて崩れた。
水飛沫は足元に水溜まりを作り、水溜まりの中に灰色の蛇が転がっている。これが妖の正体だったのだろう。
宋十郎は首を回すと、竹林の中を駆けつつあった渡喜に呼び掛けた。
「どうした」
渡喜が足を止めて、振り返る。
「女が走って行くのを見たんです。篭さまは、この先ですよね」
「恐らくそうだ。女?」
宋十郎は剣を提げたまま足を急がせると、渡喜に追い付いた。
「はい。
「行こう」
二人は落ち葉を蹴りながら、竹林を走った。
忍は、篭が振りほどいた鎖鎌を手早く巻き取ると背に差した。
空いた両手を、おもむろに胸の前で組む。
「かまいたち!」
またしても、木陰の喜代が叫んだ。
篭の目には、膨らんでいた忍の影が踊るように散らばったのが見えた。
風が起こり、彼は体のあちこちに鋭い痛みを感じて悲鳴をあげた。
着物と一緒に、腕や脛がところどころ裂けている。
忍は武器を使ったようには見えなかった。妖術を使う人間か、人でなく妖か。
「十馬さま、本当に全てお忘れですか」
忍の声に続いてまた風が起こり、先ほどよりも深い痛みを感じた。
為す術なく切り裂かれた篭は、声を上げて地面に倒れる。
彼は痛みに震えながら、斜め向きに敵を見上げた。
昨夜の化物といいこの忍といい、十馬の知り合いはろくでもない連中ばかりだ。
涙のせいで、視界が滲んでいる。
篭は腹が立ってきた。
木陰の喜代がおびえた目で攻防を見ている。忍は子供を殺す気はなさそうだが、ここで彼が死ねば、あの子はきっと別の盗賊に殺される。
彼が死ぬことと盗賊が死ぬこととあの子が死ぬことの間にある違いが何か、彼にはわからない。ただあの子供はそんな死に方をすべきでないと彼は思った。理由などわからないが、彼はただ、絶対に嫌だった。そしてそれを避けるには、目の前の十馬の知り合いを追い払わねばならない。
忍は完全に様子見の態で、芋虫のように地面に転がる彼を眺めている。
その視線を受けながら、脇差を握り締めて地面に突き立て、篭は震える膝を落ち葉の上に着いた。
その時、声を聞いた。
『よう』
岩を転がすような、聞き覚えのある声だった。
彼と同時に、忍までもが首を回した。
竹藪に、巨大な鬼が立っていた。
金色の着物を着て、家の柱ほどもある金棒を持ち、鬼神の面をかぶっている。
「
忍が覆面の下でかすかに漏らした声を、篭は聞いた。
鬼の面から、岩の声が発された。
『糞餓鬼が、糞つまらねえ餓鬼になっちまったなあ』
ゆっくりとした、重い、しかしどこまでも愉悦に満ちた声だった。
恐怖とも違う悪寒が、彼の背筋を走り腹で弾けた。
鬼が金棒を振る前に、忍は大きく跳んでいた。しかし巨大な金棒は、軌跡にある何本もの竹を一瞬でへし折り、宙で忍を叩き落とした。
忍は声もなく飛び、地面に落ちる前に姿を変え、なんと大きな
「
女の声がした。
見ると、竹林の間に、駆けてくる女があった。市女笠をかぶっている。篭が寄木で見掛けた旅装の娘である。
娘はそこで巨大な鬼を見ると、ひっと声をあげて足を止めた。あの娘にも、この鬼は見えるのだ。
金色の鬼は金棒をひと振りして肩に担ぐと、面の顔で篭を見下ろした。
『餓鬼よ、腹が減ったら俺の片目を返してもらうぜ。しかしなんだ、覚えちゃねえのか』
岩の声が
竹林の向こうから剣を持った宋十郎と、渡喜が走ってくる。
篭がもう一度振り返ると、金色の鬼は消えていた。
「空獺、馬鹿野郎!」
凍り付いていた旅装の娘が息を吹き返したように叫ぶと、落ち葉の上に転がっている獺に駆け寄った。
娘は獺を抱いて立ち上がると、地面の上で脇差に寄りかかったままの篭など見えないかのように、風のように駆け、竹林の奥へ消えた。
間もなく、宋十郎と渡喜がやってくる。
「篭、何があった」
宋十郎は市女笠の消えた方を目で追っていたが、その視線を篭へ戻した。
一方で渡喜は抱えていた荷物を投げ出すと、娘に駆け寄って行った。
木陰から飛び出してきた喜代が、母親に抱き着いた。
篭は結局落ち葉の上に腰を落とす。
痛みに、彼は呻いた。
隣に膝をついた宋十郎が、彼の傷を診た。
大小様々の切り傷は消して浅くないが、奇妙なことに血は流れていない。
しかしそこで、傷口から黒い泡が溢れてきた。
傷は徐々に塞がってゆく。
「これは……左目を斬られた時と同じだ」
警戒した面持ちで、宋十郎は言った。抜身のままの剣を握る剣士の手に力が籠もる。
篭は痛みと混乱に青褪めながら、不気味な色の泡と、その汚れを残して塞がった傷を見つめた。
ひどく気分が悪く、眩暈を感じ始めていた。
「おれ、人間じゃない……」
そしてふと、左手の甲に残った
脇差を離し、右手の指先で触れるが、黒い皮膚には感覚がない。
「十馬と同じだ」
宋十郎が呟いた。
篭の意識が遠のきかけたところに、喜代が飛びついてきた。
首にしがみつかれて、彼は思わず、子供の髪を撫でた。
子供が泣いているのがわかった。
「ああ、大丈夫。おれ、大丈夫だよ。びっくりさせた、ごめんね」
彼は、のろのろと言葉を繰り出しながら、感じていた眩暈が、少しずつ遠ざかってゆくのを感じた。
彼らの様子を見て安堵したように宋十郎が立ち上がり、やっと刀身を鞘に収めた。
その時、渡喜が恐る恐る声を発した。
「貴方さまは、
宋十郎だけでなく篭も、渡喜を振り返った。
「
一度黙り込んだ宋十郎は、表情を消した顔で答える。
「ならば、どうする」
母親はびくりと肩を竦めたが、腹の前で両手を握ると、意を決したように言葉を続けた。
「貴方さまは、
宋十郎の眉が、明らかに
「お尋ね者とはどういうことだ」
「あ、あたしも、詳しいことはわかりません。
遠夜と聞いて、篭は先ほどの
落ち葉の上に座り込んで、膝の上に喜代を乗せたまま、彼は言った。
「さっきおれを切った獺も、えんやみつくにこうから伝言があるって言ってたよ」
「何だと?」
宋十郎の声に、やや驚きがあった。
篭は賊を殺した忍だか妖物だかと、それを追い払った金色の鬼と、獺に変わった忍を拾って消えた娘の話をした。
「その獺も鬼も、十馬を知ってるみたいだった。みんな知り合いだよ」
「金色の鬼はわからないが、充國は今の遠夜当主だ。遠夜は
白い眉間の皺はますます深くなる。
もう一度渡喜が言った。
「あの、ご事情はわかりませんが、尾上橋を抜ければすぐに
眉を厳しくしたまま、宋十郎が渡喜を振り返った。
「忠告には、感謝する」
剣士の意志を汲み取ったらしく、母親は唇を引き結んだ。
しかし間を置かず、再び言葉を発した。
「そ、それでは、あたし、籠原さまがご無事に叢生を抜けられるよう、手伝いをしとうございます」
宋十郎の眉が、疑問によって少し緩められた。
「手伝いとはどういうことだ」
胸の奥から勇気を絞り出すように、渡喜は話した。
「あの、お二人は、どう見てもお武家様です。それに、ご存じとは思いますが、籠原のご兄弟は、有秦では有名です。お二方は身分を隠して旅をされているとお察ししますが、今の恰好では、尾上橋の検問で見破られてしまうと思います」
「つまり」
宋十郎の眉間に皺が戻ってきた。
「あ、あたし、宿賃にするつもりで、死んだ亭主の着物を持ち歩いております。ご、ご無礼は承知ですが、この着物を差し上げますので、尾上橋を抜けるまでは、お召し物だけでも変えたほうが、よ、よいのではと……」
渡喜の言葉尻は、少し震えていた。
着物を貸すことまでも、それとも渡喜の言葉の何かが、無礼に当たるのだろうか。人間の世界は不思議に満ちている。
篭は渡喜と宋十郎の顔を見比べた。
震える声で、渡喜が付け足した。
「この子の命を救ってくださって、ありがとうございます」
ふと、宋十郎が眉間の皺を消し、細く溜め息を吐いた。
「それは、とても助かる。私はお前の見破った通り、深渓の籠原宋十郎だ。あちらの男は病でぼけてしまっているが、兄の十馬だ。……私は田舎武者だ。変装が必要だなどとは、思いつきもしなかった」
強張っていた渡喜の肩が緩んだのを、篭は見た。
言葉を続ける先を迷ったように、宋十郎は彷徨わせた視線を地面の上の篭に戻し、付け足した。
「それに、この男は早速着物を一揃え駄目にしたところだ」
篭は首を傾げた。彼の着物に傷をつけたのは、彼ではなく獺忍者である。
「あたし、繕います。良いお着物ですから、もったいのうございます」
渡喜が頷いた。
「それも、とても助かる」
宋十郎は言った。
*
川のほとりに座り込んで、娘が呆とどこかを眺めていた。
すぐ隣の岩の上には、市女笠が転がっている。
彼女の前には、いくつも石が積まれていた。
突然影が立ち上がったように、娘の背後に黒装束の男が現れた。
「
暗い色の皮膚をした、ひどく短い髪の男だった。
娘は、顔を上げて男の顔を見た。
「
「空獺はどうだ」
「ん。まだ、生きてるよ。まあでも、次働けるのは年が明けてからだわな」
頷いた後、男は話題を変えた。
「仔細を聞いてなかった。空獺をやったのは十馬か」
雨巳は首を振った。
「いんや。凶鬼が出た」
韋駄天と呼ばれた男の表情は、それでも動かない。
娘の言葉は続く。
「十馬は黒鬼を出さなかった。ついでにぼけ爺いか子供みたいになってて、お館さまの名前も剣の使い方も何も全部忘れてて、役立たずになっちまってた。ただ、凶鬼の目をまだ持ってんね。空獺をやったのは、凶鬼だよ」
「十馬は、それでどうやって凶鬼を呼んだ」
「知らねえ。いきなり出たって、空獺は言ってた」
「空獺は、出張りすぎたか」
短いが、沈黙が落ちる。
雨巳の視線が、積まれた石へ向いた。
「あんた、
男の鉛の両目に、刹那、滲むような黄色がぎらりと灯った。
娘は、黙り込んだ。
しかし、韋駄天が言葉を返さないだろうことを、彼女は知っている。
もう一度口を開く。
「籠原は、ぼけた十馬を医者に見せるために京へ行くんだって、十馬が自分で言ってた」
「黒鬼を戻しにか」
「あるいは、完全に消しちまうかだな」
とうに鉛色に戻っている韋駄天の瞳が、下を向いた。
「殿下と話す。呼ぶまで、休め」
表情のない横顔を眺めながら、雨巳は頷いた。
*
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