第9話 影を追い来たるもの




 ろうは夢を見ていた。

 彼は空を飛んでいた。

 海を渡るのは、決して楽ではない。翼を休められない、過酷な旅だ。

 それでも、潮の香りも風の感触も全てが懐かしい。

 ただ、どういうことだろう、彼は自分がどこから来た者か、わからない。

 仲間たちを、かつて旅した場所の名前を、思い出すことができない。

 おぼろげだった。

 いつの間にか、彼は大地を見下ろしながら飛んでいる。

 木々と谷の間に伸びる街道を、人間が歩いている。

 着物を着た若者は、十馬とおまだ。

 人間は彼を見上げている。

 その足元に、広く広く黒い影が広がっている。

 若者の顔には、左目がない。

 驚いたような右目と彼の視線が交差する。

 そして彼は十馬であり、飛び去る鳥の姿を見上げていた。

 鳥の姿は日の光に溶け、彼は刀を握っている左手を見下ろす。

 左手からは黒い血が滴り、刀身へ伝っている。

 足元の影の中で、白い歯が笑ったような気がした。

 影の中から伸びてきた白い腕が刃を掴んだ。

 囁き声を聞いた。

しろ夜叉やしゃさま』







 篭は跳ね起きた。

 薄い布団の上、宿の部屋の中だった。暗い。

 心臓が駆けており、全身を冷たい汗が流れていた。

 隣の布団で宋十郎そうじゅうろうが両目を閉じている。

 静寂。

 くすくすと笑うような声を聞いた気がした。

 彼は首を巡らせる。

 廊下へ繋がる格子戸が、少し開いていた。

 隙間を満たす闇を下から上へ見上げて、彼は凍り付いた。

 上から、逆さになった子供の白い顔が、彼を見下ろしていた。

 喜代きよだ。

 喜代だが、喜代ではない。

 その小さな唇から、重い弦を弾くような音が流れた。

夜叉やしゃさま、夜叉さま、しろしゃさま』

 全身の毛が逆立った。

『この戸を、開けてくだされ。開けてくだされ。あの小僧をわしにくだされ。小僧の数珠を切ってくだされ。数珠が切れぬと、小僧を食えぬ』

 黒い腕を見た時とは、比べ物にならない悪寒を感じた。

 宋十郎を振り返ろうとして、思い止まった。

 彼は宋十郎と妖物ようぶつの間にいる。振り返ることで、妖物が宋十郎に気付いてしまうのではという考えが、なぜか彼の中に浮かんだ。

 全身の勇気を振り絞り、篭は体を起こした。

 妖物と合わせた目を逸らさぬように、立ち上がる。

『おお……』

 喜代の体を借りたそれが、目を見開いて感嘆の声を漏らした。

 今更のように、恐怖と後悔を感じた。

 宋十郎から見聞きするなと言われたのは、これのことである気がした。

 しかし既に彼は見つかってしまっており、しかも、魔物は子供の体を使っている。

 子供を救いたいという思いが、わずかに恐怖に打ち勝った。

 息を殺しながら、一歩、二歩を踏み出した。

 格子戸に手を掛け、隙間を開いた。

 自ずと魔物を見上げ、彼は言う代わりに、思った。

――去れ――

 途端、暗闇の奥に、金色の巨大な鬼が浮かび上がった。

『ひっ』

 虫のように壁に張り付いていた妖物が、壁から剥がれ落ちた。

 篭は、咄嗟に両腕を伸ばす。

 子供の体を抱きとめたものの、体勢を崩した篭は喜代を抱えて転倒した。

 騒音が響き、宋十郎が跳ね起きる。

 廊下の向こうから、足音が駆けてきた。

「どうした」

 刀を掴みながら宋十郎が言い、

「ああ、喜代」

 走ってきた渡喜ときが篭の腕の中の子供を見て、泣きそうな声を出した。

 いつの間にか、金色の鬼は消えている。

 喜代の顔は、ただ眠る子供のそれに戻っていた。







「では、喜代の病というのは」

 宋十郎が言った。

 彼らは座敷部屋に座っている。篭の布団には、子供が寝かされていた。

 渡喜が答えた。

「憑き物の病でございます」

 母親は、疲れ切った声で言った。

「昔から、人に見えないものを見て、不思議なことを言う子でした。特に亭主が死んだ頃から、時々おかしな振る舞いをするように……化物憑きだと、羣峰むれみねでは言われて、村にいられなくなりました」

「それで、鎌倉かまくらか」

「憑き物落としをするお坊さまがいらっしゃると、行商人から聞いたんです」

 篭は、喜代の枕元に座り、子供の寝顔を見つめていた。

 今は子供のそばを、虹色の影が漂っている。先ほど天井に貼り付いていた時には、それがなかった。

「おれのせいかな」

 彼が呟くと、渡喜と宋十郎が、彼を見た。

「なぜだ」

「さっき、喜代に憑いたやつ、おれをしろやしゃって呼んで……おれを、知ってるみたいだった」

しろ夜叉やしゃ?」

 怪訝そうに宋十郎が眉をひそめる。

 渡喜が、耐えかねたように声を発した。

「あの、一体、何のお話を……」

 答えようとした篭を制するように、宋十郎が言葉を発した。

「この際だから話してしまうと、この男も化物憑きだ」

 結局、篭は口を挟んだ。

「ねえ、おれも鎌倉で、治してもらえないかな?」

 彼は先ほど喜代に憑いていた魔物に、もう会いたくなかった。理由はわからないが、強くそう思った。

「やっぱり二人と一緒に鎌倉に行こうよ。そしたら二人は盗賊に襲われないかもしれないし、京まで行かなくても、おれも治るかも」

 懇願するように言うと、宋十郎は難しい表情を作った。

「しかし……それに、もう一人の化物憑きが同行することが、喜代にとって良いことかもわからないだろう」

 細々と、渡喜の声が言った。

「この子がおかしくなるのは、誰がいても同じです。それに、元々無事に鎌倉まで行けるとは、思っておりませんでした」

 宋十郎は眉を寄せ、額に指先を当てた。

「……お渡喜、その坊主だか寺だかの名はわかっているのか」

「はい、湫然寺しゅうねんじというお寺を探せと、聞きました」

「では、私たちもその湫然寺とやらを訪ねさせてもらう。夜明けとともに出たいのだが、差し支えないか」

 母親の沈み切っていた表情が、少し和らいだ。

「もちろん、ございません」

 そう言って渡喜は、深々と頭を下げた。

 宋十郎は細く息を吐いた。

「篭、私は眠れそうにないので、私の布団を使え。お前は眠った方がいい」

 傍らに置いていた剣を掴むと、宋十郎は立ち上がった。

 窓辺へ寄って腰を下ろし、壁に背を預ける。

「宋十郎は寝ないの?」

 質問に答えずに、宋十郎は別の質問を返す。

「先ほど化物はお前を何と呼んだと言った?」

「……しろやしゃ?」

 彼が答えると、宋十郎は闇を睨み、言った。

「それが何のことか、鎌倉で手掛かりを得られるかもしれない。それよりまた明日は歩く。幼子より足が遅いようでは話にならん。寝ろ」

 続けて、宋十郎は渡喜に向かって言った。

「この男はこちらで眠るので、お前はその子と一緒に眠るといい」

 篭は慌てて隣の布団へ這ってゆくと、その中に潜り込んだ。

 渡喜が礼を言う声が聞こえた。







 夜明けとともに、篭は宋十郎に起こされた。

 早い朝餉のあと、彼らは店主に見送られ、寄木よるぎの宿を出た。

 渡喜と喜代の母子が一緒である。

 寄木を出てしばらくは山道さんどうが続き、すぐに小さな喜代の足が遅れ始めた。

 宋十郎の提案で、篭の荷物を宋十郎が持ち、篭が喜代を背負って歩くことになった。

「申し訳ございません」

 繰り返す渡喜に向かって、宋十郎は話題を変えるように、言った。

「しかし、鎌倉は遠い。同じ有秦ありはた領内であるし、追ヶ原おいがはらを訪ねようとは思わなかったのか。追ヶ原には、遠夜えんやお抱えの法師が大勢いると聞くが」

 渡喜は、宋十郎の斜め後ろを歩きながら答えた。

「大きな声じゃ言えませんが、羣峰むれみねや付近の者は、追ヶ原には近付きません。先代のご当主が亡くなってから、赤鬼が出るって噂です」

 渡喜の背後から、篭は声をあげた。

「赤鬼?」

「村では、盗賊だろうって言ってました。でも、真っ赤な髪の鬼を見たって者もいて……追ヶ原の街道では辻斬りや失せ人が多くて、地元の百姓は、日が落ちると外へ出ません」

 篭より先に、宋十郎が低い声で応えた。

「興味深い話ではある。今の遠夜当主はあまり為政を顧みない。国が乱れると妖言ようげんが飛び交うというが、つまるところ原因は人だ。赤鬼はまことの妖か、苛政かせいの象徴か」

 宋十郎にまとめられると、篭は話についていけなくなる。

 篭はふうんと頷きつつ、彼の背に紐で括られている、喜代の顔を振り返った。

 大人しい子供は、彼の着物の肩を掴んできょろきょろしている。

「喜代、昨日の夜中のこと、おぼえてる?」

 彼が訊ねると、子供はぶんぶんと首を振った。

「ううん」

「そっか、おれと同じだね。俺は一昨日の夜のこと、思い出せないんだ」

「天狗さま」

 唐突に言われたが、自分のことだろうと思ったので、応えた。

「なに?」

「とんで」

「え?」

「とんで」

 大真面目で言う子供の顔を、篭は見つめた。

 何を言われているのか、よくわからない。

「とぶって?」

「とぶ」

 そう言いながら、子供は両腕をばたばたと動かし、よろめいた篭は慌てて重心を取った。

「おれ、飛べないよ?」

 少なくとも、今はそうである。

「とべるって、三つ目さんが言ってるよ」

 喜代の瞳と、蝶のような影が、きらきらと輝いた。

 思わず篭は辺りを見回す。三つ目さんとやらがその辺りにいるのだろうか。

「三つ目さん、どれ?」

 彼が訊ねると、子供は前方を指さした。渡喜と宋十郎が歩いている。

「三つ目さん、見えないや。喜代はおれとは違うものが見えるんだね」

「うん」

 ためらいなく、子供は頷いた。

 そうか、飛べるのか。

 しかし彼に翼はない。

 どうやって?

 篭は考えながら山道を歩いた。







 足が痛い。

 足だけでなく脚も背中も肩も痛いのだが、篭は歩き続けた。

 彼が痛いと言えば、休憩を取ることになるか、喜代を自分で歩かせることになるだろう。すると彼らが進む速度は遅くなり、尾上橋おがみばしへ朝のうちに着けなくなってしまう。

 母子と一緒に行きたいと言ったのは自分だ。

 大人しい喜代は、彼が話し掛けない限り一言も発しない。

 一行は黙々と歩き続け、街道が竹林に入ったとき、篭は木々の間を横切る影を見た。

 がさがさと落ち葉を踏む足音がする。

 音源を振り返った宋十郎が、腰の太刀に手を添えた。

 篭も、影の行き先へ視線を走らせる。

 林の中を、盗賊らしき三人の男が歩いてきていた。

 侮られてしまったのか。

「どちらへ行かれるんですかい」

 男の一人が言った。ぼろぼろの鎧を中途半端に着て、剣を提げている。

「何の用だ」

 宋十郎が返した。

「夜逃げですかな」

 別の男が言った。

 宋十郎は負っていた荷物の紐を片手で解くと、無造作にそれを地面へ落とした。背後にいた渡喜が、すかさずそれを拾った。

「命が惜しくば、去れ」

 剣士の声が重くなった。手が太刀の柄を握り、半ばまで剣を抜いた。

「俺らも食わねえと、生きてゆけんのですよ」

 初めの男が錆びかけた刀を抜きながら、奇妙な笑いを顔に浮かべる。

 別の男が生唾を呑むのを、篭は見た。

 刃を抜き放ちながら、宋十郎が早口に言った。

「篭、剣を抜け。逃げろ。追い付かれたらためらうな、殺せ」

 背中の喜代の緊張と早くなる自分の心臓を感じながら、篭は不器用に剣を抜いた。

 宋十郎は、荷物を抱えた渡喜を庇うようにして立った。

 男たちが武器を抜き駆けてくるが早いか、篭は走りだした。


 二人の男が宋十郎に斬りかかってきた。

 普通に避けては、彼の背後にいる渡喜に刃が届いてしまう。

 瞬時に判断した宋十郎は片足を引き、左肘で渡喜を突き飛ばしながら身を捻った。刃の一つを躱すと、続けてもう一つを剣で受ける。

 全身に込めた力で受けた刃を弾き返し、相手が反った刹那の間に首を横に薙いだ。

 生死は決した。

 仲間が首を斬られて昏倒するのを見た盗賊の目に、驚愕と恐怖が浮かんだ。

 隙を逃さず、曖昧に振り下ろされた刃も力ずくで跳ね返すと、宋十郎は二人目を斬り下ろした。

 重い音と共に落ち葉の上に男が倒れる。

 全身が緊張で痺れているのを、宋十郎は感じた。

 荷物を両腕に抱えた渡喜が、篭が駆けていった竹林を振り返った。

「喜代……!」

「追うぞ」

 彼は息をつく間もなく、刀を手にしたまま走り始めた。


 篭は竹林を走っていた。

 自分の呼吸がやかましく、それ以上に胸が灼けそうだった。足の痛みはとうに忘れた。

 喜代は彼の背にしがみついている。

 彼の足は普段より随分遅いが、それでも盗賊は辛うじて彼に追い付かない。

 しかし竹の根が地面から突き出しているところで、篭はそれに躓いた。

「あっ」

 喜代の声が聞こえた。

 彼は咄嗟に刀を投げ出し、前に突き出した肘から地面に倒れた。痛いなどと言っている余裕はない。

 起き上がろうと上半身を捻った眼前に、錆びた武器を振りかざした男が迫っていた。

 斬られる――

 そう思った瞬間、目の前の男の胴が、古い鎧ごと横薙ぎに裂かれた。

 倒れる男を目で追いながら、篭は何とか喜代ごと上半身を起こした。

籠原かごはら十馬とおまさま」

 男の声がして、篭は背後を振り返った。

 人影が立っていた。

 いわゆるしのび装束しょうぞくに身を包み、顔かたちも窺えず、年齢も判然としない。

 篭は混乱した。この男は味方だろうか。

 忍の手には鎖鎌があったが、切り伏せられた盗賊の傷と比べると、些か小ぶりに見えた。

 忍が言葉を続ける。

「我があるじ遠夜えんや充國みつくにこうから伝言を預かって参りました。久方ぶりにお目覚めになられたようですが、ご挨拶も使者もないゆえ、主は訝っておられます」

 どうやら十馬の知り合いらしい。

 それよりも篭には、忍の頭上で揺らめく大きな影が気になっていた。その影は、明らかに彼に敵意を向けている。

「あんたの名前は?」

 彼が訊ねると、忍の目が怪訝そうにしかめられた。

「聞いて何とされますか」

「おれ、何も、覚えてないんだ。だからあんたも、あんたの主のことも、わからない」

 忍がますます目を細める。

 篭の背にいる喜代が、突然忍を指さして叫んだ。

「いたち、からたち!」

 鎖鎌を握っていた忍の体が、強張った。

「……ご事情が変わったとお見受けしました。木っ端のような野盗に殺されようとしていた貴方の腕がどの程度落ちたのか、確かめて主へ奏上させていただく」

 忍の影が黒く膨らんだ。




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