旅立
第8話 鄙の宿にて
秋の静かで明るい日のもとを、彼らは黙々と歩いた。
ところで、
影とは、今まで彼が見て知っていた影のことではない。この現世にありながら、別の世界にいるものたちのことである。
行灯の影、木の影、岩の影、あらゆるものの陰で
突然見えるようになったのは、片目が鬼になったからだろうか。
左目は包帯で隠されているのに、あらゆる場所で、彼は無数の影を見た。
また一つ気付いたのは、
影は消えたり現れたりすることもあるが、この半日では、宋十郎の影を見つけられなかった。
彼は歩きながら、影が見えるようになったこと、宋十郎の影が見つからないことを話した。
宋十郎は表情を変えず、ただ質問を返した。
「お前の影はどんな姿をしている」
言われて、篭は初めて自分の影を探した。
「……なんか、よく見えない」
「どういうことだ」
「よく動くし、変わる。人の姿をしてたり、変な形をしてたり、空を飛ぼうとしたりする」
「なるほど」
それ以上、宋十郎は何も言わなかった。
篭は色々な影を見つめながら、街道を歩き続けた。
日が中天を過ぎた頃、篭は足に痛みを感じていた。
休憩を挟むことはあったが、彼らは夜明けから歩き通しだった。
飛ぶ鳥たちが、彼らの上を滑り抜けてゆく。
その影の欠片がぱらぱらとこぼれ、風に吹かれ、大気に溶けた。
飛べた頃は、地を行くものたちの苦労など想像したこともなかった。
「足が痛い」
何度か口にしていたら、今日は次の町で終わりにしようと、宋十郎が言った。
「歩く旅って、大変だね」
「馬に乗っていれば目立つし、
そう言う宋十郎が目で指した方向には、隆々と黒い峰が続いていた。
「うええ」
篭は呻き声を上げたが、宋十郎は黙って歩いていく。
覚悟を決め、その後を追った。
*
日暮れ前に、彼らは
「近頃この辺りも随分静かになりまして、今夜のお泊りはお客さま方だけです」
古い板張りの廊下を歩きながら、壮年の主は言った。
宋十郎が応える。
「寄木も以前はもう少し賑やかだったと記憶していたが」
「戦が長引いて北からの商人が途絶えましてね。うち以外は、半ば店じまいです」
「
「そのようですね。ですがここが
主は笑顔を作ると、座敷部屋に二人を通した。
「夕餉の支度が出来ましたら、お声掛け致します」
「よろしく頼む」
宋十郎が頷いたところで、格子戸が閉められた。
戸が閉まるが早いか、篭は畳の上に座り込んだ。
「足痛い、どっかちぎれてる」
彼は
指がまだ五本残っているのは意外だったが、指先や足首が血を流していた。
それを横目に見つつ、宋十郎は荷解きを始めた。
「豆が潰れただけだ。今から手当をする。だが、明日はもっと早く歩く。今日の調子では、京へ着くのに
「そんなに歩いたら、足がなくなっちゃうよ……」
「それに、道が変わっていたり、揉め事に出くわさないとも限らない。私も
「おがみばしって?」
「この先にある大きな町で、
確かによくわからず、篭はまた別の質問をした。
「何しに行ったの?」
「……
篭は瞬きした。頭の中で記憶が回転する。
「伊奈は、ありはたって町から来たって、言ってたよ」
「有秦は、深渓やこの寄木を含め、旧有秦領を広く指して言うことが多い。だが三蕊家の人々は、自家が有秦系の主流であるという思いが強いから、特に尾上橋を指して有秦と呼んだりする。……お前は伊奈と、どんな話をしたのだ」
ちらりと、宋十郎が振り返った。
「ええと……有秦は大きい町だけど、深渓のほうがきれいだって、伊奈は言ってた」
宋十郎の視線が下がる。
「そうか」
「おがみばしって大きいんだ?」
「有秦氏は、前の幕府の頃まで一帯を支配する大豪族だった。内紛で家が分裂したが、今でもこの辺りは三蕊や
長々と説明されたが、やはり篭にはよくわからなかった。
彼のとぼけた顔を見止めたのか、宋十郎は付け足す。
「私は籠原の当主として、
その話は理解できたので、篭は頷いた。
「ええと、尾上橋では話しちゃいけない。わかった」
宋十郎は篭の、包帯に覆われていない右目を見つめた。
「わかったというのは、まことだな」
篭はぎくりとした。彼は一度、約束を破っている。
「うん……」
曖昧に頷いている間に、宋十郎が続けた。
「狂人か痴呆のように扱われるのが嫌だと言うなら、仕方ない。守れない約束などせぬほうがましだ」
白い顔は荷物へ向き直り、手を動かし始めた。
篭は慌てた。
「ええと、違う。おれ、何もわからないし、喋らないほうがいいと思う。だから、次はちゃんと約束守れるか考えてた。また約束破らないか、心配になったんだ」
再び、白い顔が彼の方を向いた。
「ならば、できる限り努力するということで受け取っておく」
理由はわからないが、篭は胸を撫で下ろした。
*
窓の外で、日が落ちようとしている。
宋十郎は篭の足を処置した後、何か書物を読んでいた。
足に布を巻かれた篭は、寝転がって天井を眺めていた。
痛みが落ち着くと、別の感覚が頭を擡げてくる。
腹が減ったと思い、考えもなく立ち上がった。
格子戸を開けて部屋を出ようとしたところで、宋十郎が顔を上げた。
「どこへ行く」
「ええと……家を見て回っちゃだめ?」
「
そう言われて、そこへ行こうと思った。
「あ、うん」
「恐らく家の裏手にあるだろう。敷地の外へ出ないように」
釘を刺され、もう一度頷いた。
戸を閉めて、廊下へ出る。
細い廊下は案外と長く、奥から食べ物の匂いが漂ってくる。
匂いを追うように歩いていると、廊下の先に人影が現れた。
旅装の若い娘に見える。
目が合い、意味もなく篭は微笑んだ。
娘はすぐに視線を外すと、彼の目の前で立ち止まった。
ごく短い沈黙が生まれ、彼は訊ねた。
「ええと、何?」
彼は娘のうつむいた顔を見、次に、お互いに半歩よけなければすれ違えないと気付く。
「あ、ごめん」
体を引いて道を譲った。
娘は無言でそそくさとすれ違うと、廊下の先へ歩いていった。
一人で首を傾げた後、篭は厠を探して進んだ。
厠から戻る帰りに、今度は盆を持った店主と鉢合わせた。
「おっと、失礼いたしました」
店主が退がろうとするので、篭は体を引いた。
「どうぞ」
笑顔で言うと、店主は頭を下げながら進んできた。
盆の上には、麺と汁だけの
篭は店主について歩き始めた。
「それ、おれたちの?」
店主は笑い、首を振った。
「いえ、先ほど新しいお客様がいらっしゃいまして、その方のですよ。旦那さま方には、今お膳をお持ちします」
店主は玄関付近の土間へ入った。彼らが到着した時には、閉められていた部屋だった。
土間には四人掛けの机と椅子が二組置かれており、その一つに幼い子供と母親らしき女が腰掛けていた。
貧しい身なりで、荷物を足元に置いているが、旅装ですらない。
しかし、子供の周りに漂っている影が、篭の目を引いた。
蝶のようにひらひらと舞う小さな影が、時折虹色にきらめくのである。
子供のほうも、顔を上げると店主でなく、その背後の篭をまっすぐに見た。
店主が盆を母子の前に置いた。
「温かいうちにどうぞ」
母親が戸惑いがちに、店主を見上げる。
「あの、さっきお伝えしたように、お代がないんです」
「お代は結構だよ。お昼の残り物だからね」
「ですけど……」
その時、篭を見つめていた子供が、突然声を発した。
「おかあさん、ひとつ目お化けだ。ひとつ目お化けがこっちを見てる」
店主が篭を振り返り、母親がさっと青ざめた。
「
注目を浴びた篭は、びくりと身構えた。
「え、いや、なんで謝るの。おれ、一つ目お化けだよ。ほら、いっこしかない」
篭は笑いながら、包帯に隠れていない右目を指さした。
店主がほっとしたように肩を落とす。
母親はまだ青ざめている。
「申し訳ございません、この子はまだ子供で、」
「大丈夫、大丈夫だよ。あ、ねえ、おれのごはんまだ?」
助け舟を求めて、篭は店主を振り返った。彼にはなぜ母親が取り乱すのかがわからない。
「準備はできておりますが……」
「ええと、今食べたいな。すごく腹減ったよ」
「ここでお召し上がりになるんですか?」
店主は目を瞬きさせた。
驚いているように見えたが、篭にはやはり理由がわからない。
「うん。だめなら、いいんだけど」
「いえ、とんでもございません、只今お持ちいたします。お連れさまはどうされますか」
「あ、うん。一緒に食べたいから、呼んでくるよ」
「承知いたしました」
店主は頷くと、奥の廊下へ早足に歩いていった。
篭は母親を宥めようとして、できるかぎり明るく微笑んだ。
子供の向かいの椅子を引きながら言う。
「ここ、座ってもいい?」
逆に、母親の顔は、ますます緊張を強くした。
伊奈といい、先ほどの娘といい、自分は女性に嫌われるのだろうか。
落ち込みかけていると、篭を見つめていた子供が言った。
「いいよ」
「ありがとう」
やっと居場所を得たように感じて彼は笑い、子供の向かいに座る。
「ごはん、食べないの?」
彼が言った時、入り口に宋十郎が現れた。
「篭、何をしている。厠は逆方向だぞ」
篭は手を振った。
「あ、宋十郎。厠はさっき行ったよ。夕餉だって」
「それは知っている。なぜここにいるかと聞いている」
「ごはんを運んでるおじさんを追いかけてきた。おれたちのも、ここに持ってきてって頼んだ」
「何を……」
そこまで言いかけると、宋十郎は
「お前、裸足で土間に降りたな。先ほど手当したばかりなのに」
眉を寄せながら、宋十郎が言った。
「篭、言わなかった私の落ち度でもあるが、私たちは――」
その時、間口に盆を抱えた店主と女将が現れた。
「旦那さま、お膳はどちらに置きますか」
訊ねられ、宋十郎は立ったまま閉口した。
「いや、私は……」
代わりに、篭は自分の前と隣を指す。
「ここで食べるよ」
店主と女将は言われた通りに膳を置くと、丁寧に会釈して去っていった。
母親は、相変わらず泡を食ったような顔をしている。
溜め息を吐き、宋十郎は観念したように、篭の隣に座った。
向かいの母親に向かって言う。
「すまない、私は深渓の者で、
静かな声を聞いて多少人心地を取り戻したように、母親が頭を下げた。
「も、申し訳ございません。あたしは、
宋十郎が箸を取ったのを見て、母親はおずおずと、自分の箸に手をつけた。
既に篭は、椀の中身を口に入れている。
「羣峰から寄木ならば、今朝出たばかりか。この時世に
「ええ、その、この子が病で。お医者に見せに
「それは、苦労するな。父親は?」
「亭主は、戦の怪我がもとで一昨年死にました。あたしだけじゃやっていけなくて、大きな国へ行けば奉公先が見つかるかもと思ったことも、あります」
篭は、宋十郎の目が細められるのを見た。
「ここの宿賃は」
「部屋を借りるお金はないんですが、ご亭主が土間を貸してくださって。饂飩まで恵んでいただきました」
箸を掴んだものの、母親は食事をしていない。
篭は自分の膳から芋煮の小鉢を掴むと、喜代の前に置いた。
「これ食べる?」
子供の目がきらきらと輝く。戸惑う母親の隣で、子供が言った。
「ありがとう」
宋十郎が言葉を足した。
「召し上がられよ。この男なら心配ない、腹が減ると羽虫を捕らえて食う」
実は、森を歩いていた時、篭は空腹を誤魔化そうとして三回ほど虫を食っていた。見られていないと思っていた。
横顔に宋十郎の視線を感じたが、彼は黙って食事を掻き込んだ。
やがて篭と宋十郎は食事を終えたが、
彼らは立ち上がり、篭は二人に笑いかけた。
「渡喜、喜代、おやすみ」
母親が深く頭を下げる。
彼らが土間を出ようとした時、喜代が言った。
「天狗さま、おやすみなさい」
すぐに渡喜の「こら、静かに」という、囁くような声が後に続いた。
*
「まず篭、手当した足が台無しだ」
部屋へ戻るなり、宋十郎が言った。
「ごめん……汚しちゃだめって、知らなかったんだ」
言い訳に対し、宋十郎は呆れたように頷いた。
「そうだろうな。布を替える。足を貸せ」
彼らは畳の上に座る。
宋十郎は汚れた布を巻き取りながら、言葉を続けた。
「二つ目に、他人に関わるな。お前は魔物憑きだし、私たちは素性を隠して旅をしている。三つ目に、武士は庶民と飯を食うものではない。私はお前の人間好きを悪いとは思わないが、分別のない振る舞いを蔑む者もいるし、あちら側も恐縮する。恐らくあの母親は私たちがいたせいで、ほとんど飯を食えなかった」
最後の言葉は、篭に衝撃を与えた。
「えっ、渡喜があんなにのろのろしてたのって、おれたちのせいだったの?」
「そうだろう。普通庶民は武士と飯を食わないし、もし同じ場で食すことがあれば、武士が食べ終わるのを待ってから食べ始めるのが礼法だ」
「何それ、なんで?」
「それは、そういう決まりだ。身分が違う。高い身分の者は、低い身分の者より先に飯を食う」
「えー……? 人間の種類が違う? 食べ物が違う?」
「人間は一種類しかいないし、同じものを食べる。家柄や身分の差はあるが」
「えー……変なの」
それ以上宋十郎は何も言わず、篭の足に清潔な布を巻きつけた。
理解不能なことに対する思考を投げ出した篭は、別の思い付きを口にした。
「そういえば、喜代の周りに、蝶みたいなきれいな影がいたよ。病気って言ってたけど、大丈夫かな」
荷物を片付けながら、宋十郎は返した。
「病のことはわからないが、無事に鎌倉に着けるかが問題だろう」
「あ、盗賊?」
篭は、朝の宋十郎の言葉を思い出した。
「あの人たちは、侮られないかな?」
宋十郎の眉間に、皺が寄せられた。
「この時世に、母親と幼子の二人旅だ。正気ならばしない。何かよほどの事情があるのだろう」
また宋十郎は難しい物言いをしたが、恐らく絶望的らしいということは、篭にも感じ取れた。
「おれたちも鎌倉を通るんだよね?」
「付近を通るが、私たちにできることはない。不憫な者を路上で見るたびに情をかけていては、永遠に京に着くことなどできない」
眉間に皺を寄せたまま、宋十郎は立ち上がった。
「お前が汚した布を洗うため、水を借りてくる。おかしな音などは聞いていないか」
ひとまず、篭は頷いた。
「今朝から影はいっぱい見るけど、悪い感じはしないよ」
「良し。私が外す間、決してこの部屋から出るな。何かあってもここで待つように。すぐ戻る」
そう言い置くと、宋十郎は布を手にして、部屋を出て行った。
残された篭は、ぼんやりと格子戸を眺める。
あの親子は燕で、盗賊たちは
しかし、人間は一種類しかいないとも、宋十郎は言った。
それに燕も、仲間と力を合わせて、隼を追い払うことはある。
篭は畳の上に寝転がると、さらに考えた。
*
粗末な小屋の中である。
闇の深い時刻だが、
男が一人、火の隣で
暗い色の皮膚と酷く短い黒い髪は、夜の闇に紛れてしまいそうだった。
すぐ隣は土間になっており、土間の端の戸口が開いた。
現れたのは、篭が旅籠の廊下ですれ違った、旅装の娘である。
「
娘が頭から笠を下ろし、男を呼んだ。
上がった男の顔には表情がない。薄い瞼の下の目は、鉛のようだった。
戸を閉め、土間を横切りながら娘は話した。
「深渓へ行ったにしちゃ早い戻りだ、だろ? 実は行かずに戻ってきたんだ」
男のそばの
「寄木の旅籠を覗いたらな、なんとな、黒鬼さんを見かけたんよ」
男が声を発した。
「籠原十馬か」
娘は頷いた。
「しかも宋十郎の旦那がご一緒でさあ。こりゃ、お館さまにご報告だな?」
「いや」
「ん? ほっとくか?」
「連中の行き先は」
ああ、と娘は草葺きの天井を仰いだ。
「京まで行くとか何とか言うとったわな」
韋駄天と呼ばれた男は、闇を睨むように目を細めた。
「
「へい、合点でさ」
雨巳と呼ばれた娘は、目を細めて笑った。
*
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