第7話 気狂いの剣




 満月が近い。

 秋の夜空で煌々と輝く月を背に負って、それは目を開いた。

 赤と黒の瞳。

 その瞬間、目の前の青年がろうでないことを、宋十郎そうじゅうろうは感じ取った。

 それが発したものは、殺気といってよかった。

 篭だったものは、突然足を踏み込み腕を伸ばすと、豊松とよまつの腰から脇差を抜き取った。

 瞬速。

 斬り付けられる寸前に、宋十郎は身を捻っていた。異変を感じ取るのがわずかでも遅ければ、彼は頬の皮でなく鼻を斬られていたかもしれない。

 宋十郎は全身のばねを使って退がり、その一歩二歩を紙一重で刃が追う。

 乱雑に見えて、ぎりぎりで獲物を殺さない位置を正確に狙う――宋十郎は誰よりもよくこの太刀筋を知っている。

 それの口元が笑ったのを見た。

「若さま!」

 豊松が叫んだ。同時に、刃が止まる。

 青年が、老侍を振り返った。

「……豊松?」

 間違いなく、そう言ったのは兄だった。

 宋十郎は、肩で息をしながら、目の前の青年――十馬とおまを見つめた。

 十馬は、自分の手にある脇差を見下ろし、そして庭を見回した。

「俺、生きてる?」

 兄はそう言うと、弟を振り返り、嗤った。

「お前、しくじったね」

 彼は奥歯を噛みしめた。

 十馬が一歩前に踏み出し、宋十郎は一歩退がった。

そう、剣を拾いなよ」

 弟は首を振った。

「私は、斬らぬし斬られる気もない」

 癖毛の頭を傾げて、兄はなお嗤い、一歩踏み出した。

「そういえば、伊奈いなはまだ生きてる?」

 これは挑発だ、反応してはいけない。

 宋十郎は自分に言い聞かせながら、一歩退がる。

 彼は言葉に力を籠めるつもりで、兄の名を呼んだ。

「十馬、ここは鬼の居場所ではない。――眠れ」

 ふと、十馬の目がどこかあてのない闇の中を彷徨った。

 黒く汚れた手が、脇差を地面に放る。

 裸足はだしの足が庭を横切り、隅にある小さな池の縁に立った。

 傅役もりやくや弟の視線など意に介さぬ様子で、池を覗き込み、十馬は黒く汚れた自分の顔を撫でた。

「あーあ……」

 失望したような、退屈したような声。

 途端、その体がぐらりと傾ぐ。

 池の縁に、十馬の体は倒れた。







 篭は目を覚ました。

 月と夜空が見える。

 体を起こすと、彼は庭の端、池の縁に転がっていた。

 豊松が駆け寄ってきて、彼の背を支えた。

「若さま、大丈夫ですか」

 軽い眩暈を感じながらも、篭は頷いた。

 顔に触れると、燃えるようだった痛みも傷も消えている。

「……え? おれ、寝てた?」

 刀を拾った宋十郎が、それを鞘に戻しつつ近付いてきた。

「寝歩きにしては、性質たちが悪い」

 細く息を吐き、宋十郎は言った。

 青白い顔を、豊松が見上げる。

「殿、何かご存じなのですか」

 その時、回廊の向こうから複数の足音が響いてきた。

 騒音を聞いた家人が、やっと音源に当たりをつけたのだろう。

 宋十郎は眉を寄せると、篭の腕を掴み、彼が立ち上がるのを手伝った。

「豊松、兄上を部屋へ」

「殿、何が起きておるのですか」

 篭のもう片腕を支えながら、豊松が宋十郎に詰め寄った。

「すぐに事情を説明する。まずは皆が集まってくる前に、兄上を部屋へ入れてくれぬか」

 宋十郎の意図は、老侍に伝わったようだった。

 篭は豊松に背を押されて回廊へ上がり、寝室へ入った。

 彼らが障子戸を閉める前に、宋十郎が豊松の脇差を拾い、持ち主に差し出した。

 豊松は刀を鞘に戻し、静かに戸を閉める。

 閉じられた障子戸の向こうで、足音と声がした。

「殿、今地響きのような音と、若さまの声が聞こえたような…」

「犬だ。野犬が出て、兄上が退治された」

「野犬でございますか。あの、茶室の窓がなくなっておりますが」

「犬の声を聞いて、兄上が戸でなく窓から外へ出られた。窓は直せばよい」

「若さまはご無事なのですか」

「大事ない。お前たちは戻ってくれ。兄上には豊松がついている」

 一通りの会話のあと、障子戸が開き、宋十郎が部屋へ入ってきた。

「では豊松、少し話そう」







 宋十郎は、十馬が鬼に憑かれていると豊松に話した。

 これで京へ行く理由がわかったと、豊松は言った。

「道理で、殿は茂十しげとみさまのもとへ通われておったのですね」

「伯父上は、兄上を京の術者に診せようとしていた。まさか先ほどのような妖異よういを目にすることになろうとは、思っていなかったが」

「若さまに、何が起きているのですか」

 豊松の厳しい表情と、宋十郎の頬の傷とを見比べていた篭は、膝を立てて両腕で引き寄せた。彼は黙ったまま、顎を膝の間に埋めた。

 横で、宋十郎の声が答える。

「わからない。わからぬが、兄上に憑いているものの仕業であることは確かだろう。かようなことがまた起きれば、家人や領民もやがて気付く。予定通り、明日の早朝には発つ。豊松、何か兄上の左目を隠すようなものはないだろうか」

「眼帯のような気の利いたものはございませんので、布か何かで覆うしかないでしょう。しばしお待ちくだされ」

 豊松は立ち上がると、廊下へ出て行った。


 障子戸が閉じると、宋十郎が篭の顔を見つめた。

「左目は、見えるのか」

 篭は頷いた。

「少し熱い気がするけど、見えるよ」

「先ほど、顔を切られたあとのことを憶えているか」

 次は首を振った。

「その間、お前は十馬になっていた」

「え」

 驚きが、声に現れた。

「太刀筋も話し方も、十馬のものだった」

「じゃあ、」

「だがあの十馬は、正気とは思えなかった。もう少しで、私は斬られるところだった」

 やはり、十馬の魂はこの体の中に棲んでいるのだ。

「茂十が死ぬ前、梟が来たって言ったよね。梟が、十馬のことを病気の魂って呼んでた」

「お前と同居している十馬の魂は、鬼になりかけているのだろう。赤くなった左目は以前の十馬と同じだ。十馬は皮膚も黒くなっていた。お前の体は、まだ黒くなってはいない。悪くなる前に、和上に会わなければ」

 宋十郎の言葉に、彼は身震いした。

 痛みや飢えは辛く恐ろしいが、自分が別の何かに変わってゆくと考えた時、全く別種の恐怖を感じた。体が鬼になってしまった場合、彼の魂はどこへゆくのだろう。

 その時、障子戸が開いて豊松が戻ってきた。

「お待たせいたしました」

 豊松の手には桶と手拭い、そして包帯があった。







 篭と宋十郎は、翌日の夜明け前に屋敷を発った。

 彼らは二人とも、袴の上の帯に二本の太刀を差して、荷物を背負っていた。

 篭の頭には、左目だけを隠すように包帯が巻かれている。

 見送りは豊松と藤柾ふじまさだけである。

 ――伊奈いなはまだ眠っているだろうか。

 まだ薄闇の中にある屋敷の屋根を見上げながら、篭は考えた。

 豊松が彼の手を握り、祈るように言った。

「若さま、どうか京へゆき、病を癒して一刻も早くお戻りください。それまでこの老臣は、いつまでもお待ち申し上げております」

 篭は豊松の両手を握り返すと、頷いた。

「うん、病気治して、戻るよ。豊松に会いにくる」

 彼の隣から藤柾を見据えた宋十郎が、静かに言った。

「藤柾。私の留守中、籠原かごはら深渓みたにを頼む。繰り返すが、そう長く空けるつもりはない。有事の際は、十士郎とおしろうどのを頼ってほしい」

「心得ております」

 藤柾は折り目正しく頷いた。

「では、行こう」

 宋十郎の一言に押され、彼らは二人に背を向け、歩き始めた。

 豊松と藤柾が深く腰を折った。

 遠ざかってゆく彼らを振り返り、篭は手を振った。







 ところで、予想外のことが一つあった。

 彼らは馬でなく、徒歩で京へ向かうのである。

「馬は? 馬で十日じゃないの?」

 深渓を出て間もなくの田舎道で篭が問うと、宋十郎は答えた。

「馬で十日だとは言った。しかし馬で行くとは言っていない」

「歩いてたら、また盗賊にあわない? おれ、昨日も町の外で、汚れた服の人にあったよ」

 宋十郎は眉を寄せた。

「揉めなかったのか」

「剣で斬られそうになったけど、走って逃げた」

 眉間に皺を寄せたまま、宋十郎は彼の質問に答えた。

「賊に襲われたのは、お前が侮られたからだ。今は二人とも、立派な大小を差している。隙がなければ襲われない。ぼんやりせずに前を見て歩くことだ」

 どうやら、彼は今のままではいけないということだろう。

 彼は、隙をなくすことができるだろうか。

 考え込みながら、篭は宋十郎のあとを歩いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る