第6話 影より出ずる
茶屋から離れ走っているうちに木組みの門を抜けたが、それが町の境界を表すものだと、
門を出た後も整備された街道が伸びていたが、そのうち人家がまばらになり、道の両側には林が続くようになった。
そこまで走って、彼はやっと速度を落とした。呼吸が乱れていてやかましかった。
ふと空を見上げた。
その雁を羨ましく思った。
冬が近づいてくるのに、もう南へ行くことはできない。
今の彼は雁が落とす影のように、地に縫い留められている。
彼は空を見上げたまま泣いた。
声をあげたわけではないが、胸と頭が痛み、涙が流れた。
自分で選んだ運命であろうとそうでなかろうと、彼はそれを一人で生き抜かねばならない。
喉が詰まって、やっと顔を地面へ向けた。
そちらへ首を回す。
林の中へ続く細道の奥に、何かがあった。
木々の落とす影の中に、面をつけた男が立っている。
濁った金色の目と裂けたような赤い口は、芝居ならば鬼神を表す面のようだった。奇妙な形の金色の着物を着て、巨大な金棒を持ち、異常に大柄に見えた。
鬼だ。
篭は顔を伏せた。自分の草鞋を履いた足元と、太刀を握り締めた左手が見えた。
『よう』
岩が転がるような声がした。
彼は顔を上げなかった。
「よう」
もう一度男の声が言った。
砂の上を歩く複数の足音が近付いてきた。
彼は声のした方を振り返った。
そこにいたのは面の巨人ではなく、昨日遭遇したような、汚れた身なりの男三人だった。
武器を携えた浪人たちは、のんびりとした足取りで近づいてくる。
「あんた、お侍か?」
男の一人が言った。
「
続けて、別の男が言った。
篭は迷い、しかし、頷いた。
「籠原の侍が、こんなところで何してる」
三人目がそう言い、手にしていた刀の柄に手をかけた。
一人目が、三人目を宥めるように言った。
「やめとこうぜ、町が近い」
二人目が言う。
「だが、誰が
「あんた、試合う相手でも探してるのか?」
三人目が、嘲るような笑いを浮かべながら言った。男は、彼の頬が涙で濡れているのを見、彼が着ている着物と袴とを順繰りに見下ろした。
「おい、刀は紋入りだ。この辺じゃ売れねえぞ」
一人目が言った。
「じゃあ、俺が使う」
そう言った三人目が、突然刀を抜いた。
咄嗟に身を引いていなければ、篭はそのまま顔面から上半身までを切り裂かれていただろう。
二振り三振りと続く切っ先を、篭は次々と後退しながら避けた。声をあげる隙も瞬きする余裕もない。
二人目も剣を抜いたのを見て、篭は体の向きを変えて走り始めた。
「くそ、速えぞ!」
すぐ背後で毒づく声が聞こえた。
「この野郎!」
声とともに、何かが彼の後頭部を打った。前のめりに転びながら、それが石であったのを見た。
三人目が追い付いてきて刀を振り下ろした。篭は反射的に体をひねり、太刀の鞘でその刃を受けた。まるで体がひとりでに動いたようだった。
弾かれた切っ先が跳ね上がる間に転がって身を起こし、握っていた鞘から刀を抜いた。
同時に、追い付いてきた二人目の剣を躱す。反撃を予期した男は身を竦めたが、篭はそのまま逃げ出した。
男たちは追ってきたが、篭は走り続けた。
石が飛んでくるのを警戒して時々振り返ったが、男たちは徐々に小さくなった。林のわきに畑が見え始めると、とうとう浪人たちは姿を消した。
畑で芋を掘っていた農夫が、抜身の刀を持った若者がとぼとぼと歩いているのを見て、目を丸くした。
篭は農夫の表情に気付き、刀身を鞘に収めると、町への道を歩いていった。
木組みの門をくぐる手前で、彼は馬に乗った
「どこへ行かれていたのですか」
蒼白の武士は馬を降りると、篭を馬上へ押し上げた。
「皆探しております。屋敷へお戻りください」
藤柾は彼が乗った馬の手綱を取ると、駆け足で進み始めた。
彼らが屋敷の門に入ると、下男に呼ばれて、厳しい表情の
「兄上、なぜ
篭は藤柾に手伝われながら馬を降り、宋十郎を見つめ返した。
友達になれると思ったんだ――
そう言おうとして、彼は口を噤んだ。
宋十郎は短く息を吐くと、篭の手にある太刀を目で指して、言った。
「刀を
いつの間にか宋十郎の背後には、篭に刀を貸してくれた少年と、
篭は進み出て、稟丸らしい少年に刀を差し出した。
弱々しい声で、何とか礼を言う。
「ありがとう。これのおかげで、助かった」
稟丸は刀を受け取ると礼をして、藤柾の背後へ下がっていった。
豊松が歩み寄ってきて、彼の背を撫でた。
「若さま、ご無事に戻られて何よりです。まずは一度、庭へ戻って水でも飲みましょう」
篭は、彼の背を押して歩く老侍に向かって言った。
「豊松、勝手に出かけて、ごめん」
「大丈夫でございますよ。伊奈さまのお願いでは、断れますまい」
老人は穏やかに微笑んだ。
その手に支えられるようにして、彼は宋十郎や家人たちの集まる門から離れた。
*
乗馬の稽古は、昼間に起きたことと比べれば些細な苦労に思えた。
それでも必死で体を動かしていた篭は、稽古が終わる日暮れ前にはくたびれ果てていた。
食欲もわかず、出された膳を何とか食い切ったあとは、さっさと着替えて眠ってしまいたかった。
燕だった時は夜通し空を飛ぶことができたが、人間はそうもいかないらしい。
小さな寝室で、行灯の明かりを頼りに浴衣の帯を結び終えた。
その時また油の上の炎が、ぽぽ、と音を立てた。
寒さを感じたが、彼は昨夜ほど驚かず、おびえなかった。
ただ、昼間に林の中で見た、面の鬼を思い出した。
あれはあの林に棲む鬼だったのか、
くすくすと笑う気配がして、障子窓の外を、影が横切った。
あの影は林の鬼とは違うものだと、それだけはなぜか理解することができた。
障子戸の向こうから、廊下を渡る足音がした。
体が硬くなる。
障子戸が開いた。
硬直していた彼の前に現れたのは、盆を持った豊松だった。
それを見て、篭は細く息を吐き出した。しかし、寒気は去らない。
「若さま、眠る前に茶をお持ちいたしました」
なるほど、捧げ持たれた盆の上には湯飲みが乗っていた。
彼はそれを、盆の上から受け取った。
「ありがとう」
微笑んだ豊松は、篭の隣に腰を下ろした。
「宋十郎さまが、後ほどお訪ねになると仰っておりました。恐らく、明日の話でしょう」
茶椀に近付けた口で、篭は訊ねた。
「明日、行くのかな?」
豊松は頷いた。
「そう、仰っておりました」
彼が茶を一口啜るほどの間が空いた。
「今日は、大変な一日でございましたな」
「うん……心配かけて、本当に、ごめん」
茶碗を置いた彼に向かって、老侍は首を振った。
「まさか、そういうことではございません。ただ、私は……心配なのです」
老侍は迷ったように、行灯の明かりに小さな目を向けた。
しかし再び篭の目を見つめて、言う。
「昼、伊奈さまは、若さまに何を仰ったのですか」
彼の返答を待たず、老侍は続けた。
「私は、心配なのです。殿は、なぜ若さまを京などへ連れてゆかれるのですか。貴方の病は良くなったではございませぬか。物忘れなど、全て学び直せばなんでもございませんでしょう」
豊松の声は静かだったが、言葉が進むにつれ、早さと鋭さを、少しずつ増していった。
「宋十郎さまは仔細を仰いませんが、京のお寺と聞き申しました。西方の寺といえば、私には亡き
それを言い終える頃には、豊松は身を乗り出し、篭の袖を掴まんばかりだった。
篭は口を開いたが、言葉が見つからない。
伊奈の言葉が、脳裏に蘇る。
いくつかの糸が解けたようで、別の糸が絡まってしまったようだった。行くな、戻って来るな、皆ばらばらのことを言う。どこかに本当があるなら、そこには嘘もあるのだろうか。
その時、行灯の明かりが、ふわりと揺らめいた。
豊松と彼の影が壁に投げ出されている。彼の影が歪んだかと思うと、その端がちぎれて壁の上を走った。それは壁と天井の上を滑ると、豊松の影に溶け込んだように見えた。
突然、脳天を突き抜けるような痺れがあった。
篭は呻き声をあげ、両手で頭を抱え込んだ。
「どうされました」
豊松の声が聞こえた。
彼は頭を抱えたまま、それでも何とか視線を上げた。
彼の目の前に豊松がいた。しかしそれは、真っ黒な鬼の姿をしていた。
驚いた篭は跳び退さった。
瞬きすると、もう豊松は元の姿に戻っていた。
今度はその背後で、障子戸がするすると開いた。戸の向こうに立っていたのは、やはり黒い鬼だった。
背骨を悪寒が走る。
「おに、だ」
縺れる舌で彼は言うと、老侍を庇うように背後へ押しやった。
「若さま、」
困惑した豊松の声に続き、聞き覚えのある青年の声がした。
「何をしておいでか」
次の瞬間には、篭の前には鬼でなく、宋十郎が立っていた。不審そうに彼を見つめ返している。
篭は世界が回転するような眩暈を覚えた。
視界の隅で、宋十郎の影が伸びてちぎれ、庭の方へ走るのが見えた。篭は眩暈を堪え、影を追いかけ庭へ出ようとした。
その時、彼の背後で障子窓が弾けた。
窓を突き破って生えたのは、黒く巨大な鬼の腕だった。
腕が振り回されて、巨大な平手を食らった豊松が壁にぶち当たった。
続けて逆向きに腕が振られ、篭と宋十郎はその手に打たれて廊下へ弾き飛ばされた。
篭は廊下で跳ね起きた。
首と胴のない巨大な黒い肩が、裏庭の土の上に鎮座していた。異様に長い腕には、肘が三つほどある。
「何だ、これは」
呆然と放たれた宋十郎の声を、篭は聞いた。
鬼の腕が再び振られる。
その先にいた宋十郎は抜いた刀でそれを受けたが、巨大な手に刀ごと殴り飛ばされた。
剣士は地面の上に転がり落ちても刀を手放さなかったが、間を置かずに鬼のこぶしが振り下ろされる。
篭は腕に飛びかかり、こぶしが剣士を打つ寸前に、腕に体当たりした。
軌道を逸れたこぶしは宋十郎でなく、すぐそばの地面を叩いた。
「やめろ!」
篭は叫んでいた。
なぜか彼は、目の前の腕が、林で見た面の鬼には到底及ばぬ類のものだとわかった。この程度のものに、豊松と宋十郎を殺させたくない。
鬼のこぶしが開き、その爪が伸びた。刀のような爪が振り回される。宋十郎は転がって躱し、篭は跳び退さった。
彼は腕に飛びつくとそれに跨って腕を殴ったが、手応えらしきものは全くない。
腕が振り回され、篭は転がり落ちる。
跳ね起きながら、地面の上の宋十郎に鬼の爪が斬りかかるのを見た。
宋十郎は片手で握った刀で爪を受けたが、刀は薙がれて剣士の手を離れる。
剣士は刀を追ったが、届くより先に、鬼の爪が頭上に振り下ろされる。
振り下ろされた爪の前に、篭は跳び込んでいた。
鬼の切っ先は、彼の顔半分を斬り下ろした。
悲鳴か雄叫びかわからない、自分の声を聞いた。
途端、巨大な腕は一瞬で消え失せた。
篭は顔を両手で覆い、その場に膝をついた。
顔面の左側が燃えているようだった。
体を起こした宋十郎が彼の肩を支え、血まみれの顔を覗き込もうとした。
「篭、待て、今、人を呼ぶ」
宋十郎の声が、少し震えて聞こえた。
少し離れた場所から、豊松の呻き声がした。
「う、う、若さま……」
やがて部屋から這うようにして出てきた豊松も、地面の上で蹲っている篭を見つけて駆け寄ってきた。
「若さま」
「兄上が、左目を切った」
「何という……、湯と薬を、」
狼狽した豊松が立ち上がりかけた時、篭は腕を伸ばして、手探りで傳役の袖を掴んだ。
彼は、血まみれの顔から、手を離した。
黒く染まった顔半分の、左眉の上から左顎にかけて、深い刀傷が走っていた。
その傷の上で黒い血がぶくぶくと小さな泡を立てたかと思うと、泡が傷を埋め、みるみるうちに傷を塞いでゆく。
月光の中で、彼の裂けた顔は、汚れているだけの元の形へ戻っていった。
篭は目を開いた。
開いた右目は黒かったが、傷の癒えた左目は金色に光り、虹彩は血のような赤色をしていた。
頭の隅で、誰かが囁いた気がした。
『大嫌いだ』
篭は顔を灼く痛みとともに、意識が遠のいてゆくのを感じた。
*
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