瑞鳥カラス

尾手メシ

第1話

 古来より、人は様々なものに神の声を聞いてきた。風の音、雲の形、動物の鳴き声。その中でも鳥は特別なものである。異界である天とこの世である地上の間に存在して、二つの世界を自由に行き来する。世界の理から外れた、神の代弁者である。


 鳥の中でも、カラスは不吉の象徴としてよく知られている。カラスが死体を啄むからである。カラスが鳴くその下には、死体という不幸が横たわっている。カラスの鳴き声を聞く時、人は不吉という神からの声を受け取るのだ。カラスの鳴き声の下に不幸が無い時、それは幸福の兆しではなく、未だ現出していない不吉の前触れである。



 綾乃にとって、カラスは瑞鳥である。

 始まりは綾乃が小学校に上がってすぐの頃、学校からの帰り道でのことである。いつもは気にも止めない暗い路地で、一羽のカラスがけたたましく鳴いていた。綾乃が路地を覗き込むと、それに驚いたのか偶々だったのか、カラスが飛び立っていった。後には百円玉が一枚残されていた。たかが百円だが、当時の綾乃にとっては大金だった。慎重にそれを拾うと、綾乃は大事にポケットに仕舞った。

 それからというもの、カラスが鳴いていると、綾乃は決まってその場所を覗くようになった。大抵は何も無いが、時たま何かを拾うことがある。一円玉や十円玉、おもちゃの指輪などの、大人から見れば大したことのないものばかりだったが、綾乃にとっては宝だった。

 ある時、意地悪な男子に追いかけられたことがあったが、その時もカラスは綾乃に味方した。数羽のカラスが鳴いたことで、怖がった男子は逃げ出したのだ。

 宝を授け不幸を遠ざける、まさにカラスは綾乃にとって瑞鳥だった。


 綾乃の人生はカラスと共にあると言っても過言ではない。カラスの鳴き声を聞くことで、綾乃は人生の転機の訪れを知る。

 綾乃にとって最初の人生の転機は中学受験だった。地元の中学校にそのまま進学するものだと思っていた綾乃に、母親はしきりに中学受験を薦めた。高校受験に有利だという母親の言は理解できたものの、友達と離れてまで遠くの中学校には通いたくはない。迷う綾乃に向かって、電線に止まっていたカラスがカァと鳴いた。その声に背中を押されて、綾乃は地元の中学校への進学を決めた。

 次の転機は高校受験の時だった。第一志望とした高校は、綾乃の学力では合格は難しいとおもわれた。担任の教師も、両親も、綾乃でさえ受かるとは思っていなかった。受験の当日、試験会場である高校の校門をくぐる直前、近くの木に止まっていたカラスがカァと鳴いた。不思議と綾乃の頭は冴え、合格通知が届いたのはそれからすぐのことだった。


 大学に進学して暫くしてから再び転機が訪れた。地元から離れた大学に進学して親元を出て、初めての一人暮らしにも慣れてきた頃のことである。同級生の男に告白をされた。恋愛にさして興味のなかった綾乃はその告白を断わるつもりだったが、そこでカラスがカァと鳴いた。それに吉兆を見た綾乃は告白を受け、恋人としての二人の付き合いが始まった。

 最初こそぎこちなかったものの、付き合い始めて三年が経つ頃には、共にあるのが自然になった。その頃には一人暮らしのアパートを引き払い、二人で家賃を出し合って広めの部屋を借りて同棲をしていた。互いの両親への挨拶も済ませ、ゆくゆくは結婚するものだと本人たちも周囲も思っていた。

 綾乃が一人で街を歩いている時、街行く人々の向こうに恋人の姿を認めた。声を掛けようとして、綾乃の足は止まった。恋人の隣に見知らぬ女が並んでいたからである。二人は何事か話しながら雑踏の中に紛れていった。綾乃には二人の距離が殊更近く見え、甚だ親密なように思えた。綾乃の中に暗く重い靄が渦を巻く。思わず街路樹に止まっていたカラスを見上げると、カラスは綾乃をじっと見やってカァと鳴いた。神の声を聞き、綾乃の中の暗い靄はその方向を定めたのだった。

 男が帰宅した時、室内にいた綾乃は無言で男に近づいた。右手に逆手に包丁を持って。男が事態を理解した時、綾乃が振り下ろした包丁は男の左胸の下に刺さっていた。叫び声を上げる男を無視して包丁を引き抜いた綾乃は、再び包丁を振り下ろす。今度は男が振り回した右手を切り裂いた。三度目の包丁は逃げようとした男の背中に突き立つ。何度も何度も綾乃は包丁を振り下ろす。部屋には男の絶叫と肉を断つ音、濃い血の匂いが充満していく。

 綾乃が我に返った時、部屋の中は赤黒く染まっていた。綾乃自身も、その黒髪が赤黒く艶めいている。綾乃の下には不幸が横たわっている。辺りにはパトカーのサイレンの音が響き渡っていた。ドアを激しく叩く警官の声が聞こえる。もういくらもしない内に、室内に踏み込んで来るだろう。

 綾乃は窓の外を見た。ベランダに一羽のカラスが止まっている。カラスは綾乃をじっと見つめてカァと鳴いた。神が綾乃に瑞兆を告げる。窓まで歩いていき、綾乃はガラリと窓を開けた。カラスがベランダから飛び立つ。


「ああ、私の瑞鳥、私のカラス」


翼を広げて、綾乃は六階のベランダから飛び立った。



 綾乃にとってカラスは瑞鳥だった。

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