第6話


 完成された自分の顔を見て、ルイは柄にもなく口元を手で抑えた。手元を口で抑えるというひ弱な驚き方を、ルイ・ベルナールはこれまでしたことがなかった。目の前で起こった大抵のことには、冷静さを装ってなにも言わないという態度をとるのが、男らしいと思っていたのである。


 しかしここ数週間で身に付いた演技による女の所作が、彼をそうした。実際、彼の目には、女そのものが映っていた。姉に化粧を施され、ウィッグを被らされると、もう自分はどこにもおらず、そこには名前も知らない女がいるのみだった。


 ルイ・ベルナールは男に生まれたことを心底恵まれたと思っていた。身体的にも精神的にも、男と女では大きな差がある。妊娠も出産も彼はしたくなかったし、生理など以ての外だった。男に養ってもらうのも、家に篭もって家事をやるのも、彼には我慢ならなかった。常に自分の意志で自立していられるのを男の特権だと思っている。


 だから彼はパーティーでは仕事が終わるとメンバーの女にお茶を出させたし、自分が働いたその分だけ施してもらおうとしていた。彼女たちはある程度それに従っていて、それを見る度、自分が頼んだにも関わらず、こんなことをするなんてどうかしていると思った。


 だがいまの自分はどこからどこまでも女だ。装いも女なら仕草まで女になってしまった。そこにはルイ・ベルナールとしての信条や生涯などなく、ただいま生まれたばかりの女性性があるのみだった。なにがまかり間違えば、こういうことが起きるのだろうと、不可解に思った。男としての自尊心に包まれた人生が、女に覆われて、急に色を帯びないものとなってしまったのである。


 鏡に映る自分は、よもや女として美しかった。彼は自分の容姿がもちろん好きだったが、同時にこの女が好きだと思った。恋に似た感情を抱いたのである。自分なのに自分とは思えなかった。彼はロールが修飾した自分の言葉を思い出す。胡蝶と化すのが俺の夢だったのだ。ルイは首を振ってその考えを追い出した。あまりに化粧が上手くいったから、感心してるだけだ。


「公演まであと二週間もないわ、ルイ。とにかく女として過ごして。自分が男だと気付かれたらその時点で公演は失敗だと思いなさい。とりあえず、そうね……お小遣いをあげるから、街で食事でもしてきなさい。店員に女装だと思われたら終いよ。声なんか大した問題じゃない。女と男の話し方の差は抑揚にある。それを常に意識して。頭ではなく胸で喋って。いいわね」


 姉の要求がどれだけ難儀でも、ルイにそれを断る道はなかった。


・・・・・


 ルイは恥じらいながら街に出た。だが特に態度自体を変えることはなかった。演じる役の女がそもそもルイ・ベルナールに似て自尊心に満ち溢れた人物だったからだ。要は、女ルイにさえなればよかった。所作と話し方、話す声色、考え方、それを女に染め上げる。


 じろじろと周りから見られるのが、女装趣味の男だとバレているからなのか、女として好意的に見られているのかは分からなかった。じろじろ見られるのに慣れているルイもこれには弱った。男とバレたら公演は失敗――姉の言うのは正しい。やるのは女装した男の演技ではない。身も心も女の演技だ。元々は女がやる予定だった役の代わりだ。


 とりあえず、しばらく酒を呑めてなかったので貰った小遣いでバーに入った。バーというのは大抵照明が薄暗いから、バレる心配も減るだろうという目論みもまたあった。


 カウンター席に座る。場末のバーは、店内に人がまばらで、格式の高めな店であるということもあってかそれほど騒がしさはなかった。みんなしっとりと夜の酒を楽しんでいる。葉巻のにおいと、穏やかな酒のにおい。カウンターの向こうに並ぶ酒瓶から、なにを入れてもらおうかと思った。


 バーに来てビールという選択肢はないな。そしたらブランデーでも頼むかとルイは思って、店員を呼ぼうとしたが、しかし不意に自分の意志がそれを止めた。注文一発目にブランデーを頼む女がどれくらいいる?


 ルイは目線だけでマスターを見た。彼はそれに気が付くと、鷹揚な態度でルイに近付く。


「レディー、ご注文は?」


 ルイは内心ひやひやしていたが、ほっと胸を撫で下ろしたくなった。バレてない。初対面の人間にレディーと呼ばれているということは、とりあえず容姿じゃ完璧だ。


「あ、あの、おすすめの、甘いのを――」


 声が意識される。容姿さえ完璧なら、そこからどんな声が出たってそれほど問題じゃないと姉は言っていた。大事なのは女らしさと抑揚。バーのマスターはじっとルイを見た。その目がいやにじめっぽかったので、ルイは今度こそ女装が暴かれたかと思った。


「お客さん」

「……はい」

「素敵なドレスだね」


 乗り切った! ルイは拳をテーブルの下で握った。大丈夫だ。俺は女をやれている。姉の出した課題は無事達成されたのだ。


「貴女にちなんだカクテルを、拵えましょうかね」

「素敵ですね。お願いします」


 マスターは頷いて、ウインクするみたいに首を傾げた。ルイ・ベルナールの初陣は成功した。


 ……成功した。成功してしまった。ルイは同時に様々な思考が浮かんで、取り留めないそれをいかに掴もうかと難儀した。疑いようのないはずだった自分の人生が、新たな色に傷をつけられそうになっている。傷跡は紅くはなく、極彩色だった。


 そして、彼はふととある思考の極地にたどり着いて、自分で戦慄した。目の前でカクテルを混ぜる音がする。耳を破裂させるような氷のぶつかり合う音が。金属の中で暴れる酷く冷たい氷雪を、肌に感じた気がした。


 もし、もし男だと言う理由で、あのパーティーを追い出されたのだとしたら――いまの自分は、あそこに戻れるのではないか。

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ドレスアップ・ドレスダウン 小佐内 美星 @AyaneLDK

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