第5話


 台詞も身に付いた。全体での稽古も一段落付いたかと思われた時、ルイは姉のリリアンから呼ばれ、楽屋裏へ入っていった。


「用は?」

「そろそろ化粧をしてみましょう。女ってのをその身体に染み込ませなさい」


 ルイは嘆息する。首を振った。


「そんなの、本番のときでいいだろ」

「ダメよ。女の生活なんか、あなたには分からないでしょ。今日からしばらく、化粧とウィッグで過ごしてもらう。もちろん衣装もドレスよ」

「過ごしてもらう? それで生活しろってことか」


 リリアンは頷いた。


「馬鹿な」

「馬鹿はあんたでしょ。金が欲しいなら私の言うことを聞きなさい。ほら、こっちに座って」


 リリアンが椅子を指差すが、ルイは従わなかった。化粧などしてたまるかと思っていたのである。そんな女々しいことしてなんになる。女の役をやるってだけでも不快なのに。


「ロール!」


 リリアンが呼ぶと、陰から妹のロールが出てきた。細い身軀を稽古用の薄い衣装に浮かべ、ルイの背後に回り込んだ。


「おい、ロール、なんだ」

「お兄ちゃん、お化粧して。お姉ちゃんの言うこと聞いて」


 ロールの押す力はなにかと強く、ルイは足蹴にすることもできないので椅子のところまで行かざるを得なかった。ロールは彼が椅子に座るのを見て満足気に頷き、近くにある椅子に行儀悪く逆に座って、背もたれに顎を乗っけた。


「ここで見てるからね」


 きらっきらの瞳が、笑顔でルイを見つめていた。彼は肩を竦める。


「ああ……もう好きにしてくれ」


 リリアンが鏡の向こうで微笑むと、手元にはいつの間にかスポンジやらブラシやらが持たれていて、絵の具のパレットみたいな容器から、次々と彼の肌になんだか分からない粉物なりを塗り始めた。


「顔だけはいいのよね」

「俺には他にもいいところがたくさんある」

「口を動かさないで。首を動かさないで。黙ってじっとしてなさい」

「じゃあ話し掛けるなよ!」

「にいに動かないで」

「…………」


 女の家庭では常に男が尻に敷かれる。男の家庭では女が尻に敷かれるのかというと、そうでもない。女は弱いふりをしてその実もっとも肝っ玉の据わった生物なのだ、というのをルイ・ベルナールは女中心の家庭で生きてきて覚えていた。最近では皇帝も女がやる時代だ。男の肩身はどんどん狭くなっていくぞ。


 どうにでもなれ。どうせもう落ちる所まで落ちた身だ。煮るなり焼くなり好きにしろ。彼は諦念の極地にいた。そして、化粧が進んで自分の表情の印象が変わっていくのを眺めながら、なんだか不意に感慨に浸った。男の自分が消え失せていく寂しさといったらよいのか、とにかく時間に自分の身が取り残される気がしたのである。だが特段焦燥はしなかった。彼の頭には、演技の台詞だけがぐるぐると回っていた。この瞬間、彼はまるでどこを取っても男ではなかった。


 脳内に回っているのは女の言葉だし、女の物語だし、身なりはどんどんと女に近付いていく。自分をいま囲んでいるのも女だ。仮に他所に意識を持っていったとしても、思い出すのは自分を追い出したパーティーのことであって、それもまた女の世界だった。


「俺はいままでどこにいたのだろう」


 リリアンは鏡に映る彼の顔を見て、その言葉に眉を下げ唇を尖らせる変な顔で応じた。


「そんなダサい台詞じゃ、脚本家は無理ね。ロールのほうがうまいこと言うわ」

「別に、そういうつもりじゃないが」

「ロール、いまの兄さんの気持ちを台詞にしてご覧なさい」


 姉に言われて、妹は首を傾げた。ルイは動くなと言われているので、目線だけをロールに寄越す。大きな丸い目が左上を向きながら、じっとどこか遠くを見ていた。


「胡蝶と化すのが、俺の夢だったのだ」


 ロールは小さな口でやがて言った。まだ幼いくせに大人の男の口調と声を真似て、低く言う。リリアンは少し手を止めて、彼女の顔をじっと見た。ロールが照れくさそうに笑う。


「さすがね」

「俺には分からん」


 ルイには分からなかった。

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