第4話


「なに、不満?」

「不満もなにもあるか。男がどうやって女の役をやるんだ」

「できると思うわよ。私の化粧技術を舐めないでよね。あんた割かし中性的な顔をしてるし、声もまあまあなんとかなるでしょう。練習したらどうにでもなるわ。とにかく私に任せなさいな。劇団をここまで盛り上げてきた実績がある。大船に乗ったつもりでね」


 ルイはもうなにも言うまいと思った。大船はたしかに小舟よりマシだが、しかしそのぶん、転覆するとき、豪快に沈むのだ。とはいえ、もう姉に頼るしか他に道はなかったのである。


・・・・・


 ルイ・ベルナールはそれなりな要領の良さも持ち合わせていた。急に主役級の台本を渡されても、台詞を覚えたり役に入り切ることは苦労の要る作業ではなかった。彼は数週間、貯金を切り崩しながら稼ぎもないまま公演の日に備えた。


 姉のやる気と妹の嬉しそうな表情だけが、彼の原動力だった。大体の仕事は金のためであり、金が入らないと分かった途端、やり甲斐やらなんやらは形ばかりの精神論となる。しかしそういう意味でいえば、家族のいる場で働ける役者稼業はそれと気づかず彼に向いていた。


 あとは公演の成功だ。これが不評に終わればギャラなどろくには入ってこない。ルイ・ベルナールは生まれて初めて努力らしい努力に手を染めていた。それで首を洗っていたと言ってもいいかもしれない。


 他者になり切るなど無意味どころか時間の無駄だと思っていたが、ルイ・ベルナールはある程度の心地良さを感じていた。いや、感じるような人間になったというのが適切かもしれない。彼はいままで自分のことになんら不満を持っていなかったし、他人もまた自分のことを快く承認してくれているものだと思っていた。だが思い出されるのは追い出されたパーティーの女たちの態度、自分を捨てた女、一銭の信頼も置いてくれなかった友人である。自らがいかに周りからよく見えていないかということを知ったばかりだった。


 それゆえ、演技によって逃避ができた。自分以外のものになっている時、自分のことだけは簡単に忘れられる。自身の悩みは登場人物の悩みで掻き消され、頭の中に不安が浮かんだ途端、台詞の暗記に思考を変えるだけで目を逸らすことができた。


 演技は彼にとって当面体のいい瞑想行為となった。この短い期間でぐず折れた自尊心と自信、他人に折られたそういう物を思い出すのは苦痛だったのである。


「そうだわ……店にいても売れないなら、売りに行ったらいいじゃない……」


 彼は、ほんの少し前までは胸を張って街を闊歩していたのに、今となっては惨めに肩を丸めながら椅子に座り、なけなしのキャンドルで机を照らし、帳簿をつける、寂しい男だった。言ったのは、立志する女の主人公が、序幕で言うセリフだ。


 彼女は仮面舞踏会用の仮面を作る職人だったが、あまりの単調な趣向に人気が出ず、ほとんど売れなかった。世間では仮面舞踏会の風紀の乱れに不快感が吐露されるようになった時期で、彼女はそれならいっそ、仮面舞踏会そのものをより清潔なものにしてしまおうと考えたのである。だがそんなご時世でもそのような舞踏会に行く人間に、淡白さなど受け入られるはずもなかった。


 しかし、彼女は自信の才能を信じていた。だから、自らがその仮面を付けて、舞踏会に行くことにしたのだ。


 ルイの役はそのマスク職人の女だった。簡素な格好だが目を引く身長で、綺麗な身なりをしている。実際、煌びやかな彼女が付ければどんな豪奢な仮面も、その簡素なマスクの輝きの影となる。そういう、恵まれているのに商売ができない女の役だった。


「俺ならもっと上手くやる。舞踏会に乗り込んだってマスクが売れるわけじゃない」


 彼はそう呟いたが、ではどう売るのかと聞かれれば、答えはなかった。ルイ・ベルナール。口だけは達者な男だった。

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