ありがとう

 白い布が剥がれた先、そこにあったのは僕の知らない女性の遺体だった。


 茶髪のセミロングの女性。瞳の色こそ閉じられていてわからなかったが、鼻は小さく顔の形も丸みがあり、スラリとした顔つきの山里千里とは、似ても似つかない造形だった。


 唯一似ていたのは、白い血の気のない肌だけだったが、それもあの山里千里の一種の洗練されたような白とは全くもって輝きが異なった。それもそうだ。前者は死者で、後者は生者だ。同じ白でも命ある白とない白とでは、格差が生まれるに決まっている。


 下手したら『あれ』に自分もなっていたのか、と考える。でも僕は助かった。本物の山里千里と違って僕は助かった。


 その理由を述べるのならば、多分、無縁じゃなかったからだ。僕の事を知る人間が、この世に1人でも居たから僕は助かった。僕は意外にも孤独な異物ではなかったらしい。


 山里千里も、無縁でなければ助かったのだろうか。わからない。けれど、きっと、遺体の発見を早める事ぐらいはできただろう。

 誰か1人でもいいから、彼女の身を案じる何者かがいれば、彼女は腐る事無く墓の下に入る事ができたのかもしれない。


 ……実は1つだけ、山里千里の死に関して、わざと吉田に言わなかった事があった。それは、死後変化に関する事だ。


 死後、人間の身体は硬直し、最後は内部から壊れて行く形で腐敗する。

 だがその時、人間の身体から発される腐敗臭が周囲の人間が感知するまでになるには、約1週間~3週間の時間が必要なのだという。


 つまり、現場で臭っていたという臭いが本当に腐敗臭だった場合。あの時点で山里千里は、亡くなってから1週間以上の時間が経過しているという事になる。

 20時間以上も1週間以上も、結局のところはそれなりの時間が経っているという点で変わりないかもしれないが、この差のおかげで明らかになった可能性がある。


 それが、僕とあの山里千里が出会った時に、すでに本物の山里千里が死んでいた可能性だ。


 僕と山里千里が出会ったのは2週間程前のこと。もしあの時、本物の山里千里が生きていたとしたら、きっとあの山里千里は自分の事を「山里千里だ」とは名乗らなかった筈だ。

 上も下も同じ名前の人間が、同じ大学の同じ学部に通っている確率なんて、ほぼ皆無に等しいに決まっているのだから。


 たぶんきっと、あの山里千里は知っていたのだ。あの時点で、山里千里が死んでいた事を。

 それがいかのようにして、どのようにして知ったのか。僕にはわからない。けれど、彼女はそれを知っていた。


 そしてその上で、成り代わったのだ。山里千里という『何者』に。

 自分が何者かになる為に、彼女は山里千里の死を自分の存在で塗り潰したのである。


 吉田に言わなかったのは、単純に言っても伝わらないだろうと思ったからだった。彼は自分が口説いた女性が、自分が殺した女性と同じ名前である事を知らない。説明するだけ時間の無駄なのは、明らかだった。


 山里千里は何者なのか。その疑問な僕の頭の中に浮かぶ。


 警察で山里千里の遺体を見た時、僕は走った衝撃を表に出さないようにするので精一杯だった。

 そんな僕の様子を、刑事達が親しい相手の死に動揺しているものと捉えてくれた事もまた、幸いだったといえる。おかげで僕は、吐き出しそうになる本音を抑えながら、これが山里千里かと尋ねる彼らにうなずき返す事ができたのだから。


 あの時、どうして自分が、彼らにそうだと頷き返してしまったのか、僕にはわからなかった。


 違う、と。ただ一言言えばいいだけだった。

 言わなくてもいい、首を横に振ればよかった。

 それなのに、僕はあの時、そうしなかった。それはなぜか。


 多分――、気づいていたからだ。


 僕が、あの山里千里の本当の正体に、漠然とした確証を得ていたからだ。


 カコン、と音が僕の耳に届いた。

 重たい頭を起こして、音がした方を見ると、玄関ドアが目に飛び込んでくる。どうやら、郵便か何かが届いたらしい。


 ドア横、共有廊下に面するように設けられた小窓が僕の視界の隅に入り込んだ。2枚の横長の曇ガラスで出来た小窓。曇ガラスなせいで外の景色はぼんやりとしか見えない。唯一ハッキリと見えるのは、防犯の一環として取り付けられている縦面格子の姿だけだ。


 まるで檻に閉じ込められているかのうような光景だと思った。

 今頃、吉田が見ているのも同じような光景なのだろうか、とそんな事を考えた時だった。


 その曇った世界の向こう側を誰かが通っていくのが見えた。


 ふわりと、長い馬のしっぽのような髪を揺らしながら、歩き去っていくその覚えのある輪郭を見た瞬間、僕は反射的に立ち上がった。


 ドタドタと、下の階の事も考えずに走り、玄関ドアへ駆け寄る。

 かけていたチェーンを外そうとして、上手く外せず数回失敗する。それでも、なんとかチェーンを外し、鍵を開けて外に出た。


 しかし廊下には誰もいなかった。靴を履いて、階段の方まで出てみる。けれど誰も居なかった。周囲を見渡してみたが、静かな日中の住宅街の光景だけが広がっていた。


 気のせいだったのだろうか、と小さく息をつく。居なくなった相手の幻を見て、追いかけるだなんて随分末期な脳みそだ、と頭を横に振って部屋の方へ戻る。


 やっぱり疲れているのだ、もう今日は寝よう。そう考えながら自室のドアを開けようとした時だった。


 郵便受けに差し込まれているそれが、僕の目に飛び込んできたのは。


 縦長の白い紙だった。それが郵便受けからひょっこりと身体半分を飛び出しながら、投函口に挟まれていた。


 抜き取ってみると、三つ折りにされた紙である事が判明した。郵便受けに挟まれ、ちょっとくしゃりと曲がってしまったそれを開くと、瞬間、見覚えのある文字と言葉が目に飛び込んできた。


『ありがとう』


「……」


 くしゃりと、僕の手が持つ部分が潰れた。何か苦い味が口の中に広がる。


 誰からのものかなど、そんなものは考えるまでも明白だった。受け取った手紙を手に、僕は部屋の中に戻る。


 手紙を部屋の真ん中にあるテーブルの上に乗せる。それから、いつぞやからずっとテーブルの上に置きっぱなしにしてあった、かつて隣人から届いた手紙を広げ、今しがたの手紙の横に置く。双子のようにそっくりな文字が、テーブルの上に並んだ。


 一体、どこまで知っているのだろうか、と思った。隣人はどこまで知っているのかと。


 山里千里殺しの犯人が吉田であった事を、その事を僕が突き止めた事を、そして僕と対峙した吉田が今警察署にいる事を。もしかしたら全て知っているのかもしれない。僕はニュースをわざわざ見ないから知らないけど、もし吉田の事がすでにニュースで取り上げられているのなら、きっと隣人の目には飛び込んでいる筈だ。


 話す事がなくなると、人の隣で平然とスマホをいじり始める人間であったなら。


 きっとこの話題は、既にその目に飛び込んでいる筈だ。


 布団と同じように、部屋の隅に置きっぱなしにしていたリュックをこちらに引き寄せる。そうして、中に入っているノートを取り出す。いつぞや彼女に貸したノートだった。


 それをパラパラとめくり、あるページを開く。でかでかと「ありがとう」と書かれたそのページを開き、テーブルの上に他の手紙と共に並べた。


 そっくりな文字が2つから3つに。双子から三つ子に。丸く歪んだ「あ」の字が特徴的なその文面が、机上に並んだ。


 多分きっと、彼女が僕に近づいてきた本当の理由は、僕と友達になりたいなんて、そんな理由じゃなかったのだろう。

 彼女の存在に気づいてしまった僕を監視する為だったのかもしれない。僕がどのような行動を取るかどうか、ずっと見張り続けていたのだ。彼女が、必要以上に僕について何かを訊ねたりしなかったのも、僕と必要以上に仲良くなるつもりがなかったから、と考えれば納得がいく。


 そういえば、とふいに思い出す。

 彼女は一度も僕の名前を呼ばなかったなと。僕も一度も彼女の名前を呼んだ事がなかったなと。


 開いたノートの上の文字をなぞる。僕は生きている。僕は死ななかった。無縁でなかった僕は、この世界に居続ける事を許された。


 一体これから先、僕は何者になるのだろう。アパートの人達の姿や弟の姿が脳裏に浮かぶ。僕は彼らにとって何者に見えるんだろう。何者になる事ができるんだろう。


 わからない。でも多分、何者にでもなれるのかもしれないと思った。


 誰かに存在を認めて貰う事で何者かになる事ができるというのなら、自分を知る人間が1人でもいる時点で、人は誰かの何者かになっているのだ。

 傍にはいなくても、同じ時間を共有する事はなくても、今耳をすませば、自分と同じ場所に住んでいる誰かの存在を知れるように。きっと人は、自分のあずかり知らぬところで、誰かの何者かになっていたりするのだろう。


 ――ただきっと、


 僕はもう彼女の何者かになる事はないのだろうなと、そう思う。


 ノートくん、と僕を呼ぶ何者かの声が聞こえた気がした。


【END】

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