はたして
世界が反転したような気がした。
ぐるりと反転して、またぐるりと元に戻る。脳みそが揺れたのがわかった。
僕の取り柄のない脳みそが、僕の頭の中で揺れる。そんな脳みそに合わせるかのように視界も揺れ、反転して反転した世界がブレる。
そのどれもが一瞬で起きた。永遠にも感じるような長い一瞬。しかしその一瞬で何が起きたのかを理解する前に、僕の頭は次の衝撃をぶつけられる。
ガツンガツンガツンっ、と理不尽な連続性の痛み。それが僕の頭を顔を、殴り続けていく。
「お、俺は何も悪くないっ」
吉田が声を張り上げた。ガツンガツンっ、と僕の頭部を殴り続けながら。
いつの間にか、吉田は僕の前に居た。いや、前じゃない。これは上だ。
地面に倒れている僕の上に吉田が居るのだ。
地面の上に為す術もなく倒れてしまった僕を、吉田が抑えつけるようにその腹の上に跨ぎ乗り、拳を振り下ろしている。
「あいつが、あの女が、俺を拒絶したから悪いんだっ。アイツが行きたいって言いやがるからっ、だからあんなクソつまらねぇ場所にも付き合ってやったのに、俺がやりてぇ事やろうとしたら、断りやがってっ。なんだよっ、俺はお前のやりたい事やってやったんだぜ、それなのに見返りはないとか、ふざけてんのかっ。誰かに何かして貰ったらし返す、そんなの常識だろ⁉ 挨拶したら挨拶し返せって言うじゃねぇかっ。それと一緒だっ、ギブアンドテイクだよ、して貰ったらし返す、誰もがやってるっ、簡単な事だろう⁉」
「それなのに、あの女、そんなつもりじゃなかった、なんて、言いやがってっ」ガツンガツン、と鳴る音に交じるように聞こえる吉田の声。しかしそれに僕の口が何かを返す余裕はない。
音を発する前に、吉田の拳が先に僕の口を顔ごと殴りつけて黙らせる。
吉田がここまで激昂するとは思っていなかった。けれど、思えば彼は昨日の昼間も僕を殴りつけてきた。その短気さを鑑みるに、こうなる可能性は十分にあり得た事の筈なのだ。これはもう、それを考慮しなかった自分が悪いだろう。
僕は死ぬんだろうか。激しい痛みで揺れる世界を眺めながら、ぼんやりと考える。
結局、最後の最後まで、僕は取り柄のない人間だった。考えが足りなかった自分のせいで、僕は死ぬ。僕が死んだら、両親は僕の事をどう思うだろうか。
弟は、きっと悲しむだろう。それに関しては申し訳ないな、と思う。けれど、弟は僕がいなくても充分生きられる人間だ。きっとすぐに立ち直るだろう。アパートの人達は驚くだろうか。あの刑事2人も、話を聞いたばかりの僕が殺されていたら驚くだろうな。
世間の人々は僕をどう見るだろうか。山里千里に続いて、立て続けに同じ場所で殺された僕を。一体どういう風に捉えるのだろう。どういう『者』として、僕を見てくるのだろう。
僕は『何者』になるんだろう。『何者』になれたんだろう。
僕は――、はたして僕は、
一体『何者』に、なりたかったんだろうなぁ。
力の入らなくなった手から、ひらりとチケットが落ちた。しまった、と瞬時に思う。
吉田がチケットに気づき拾い上げた。と同時にその目を見開き「てめぇ」とその瞳に怒りの炎を燃えたぎらせた。
「騙したな」
そう言って、吉田がチケットをぐしゃりと握り潰した。僕の持っていたそれを――、僕とあの山里千里が共に博物館に訪れた日の日付が書かれたチケットを、ぐしゃぐしゃに丸めた。
一か八かのハッタリだった。そもそも本物の山里千里が持っていたチケットなんて、僕が手に入られるわけがないのだ。本当にそのような物があるのかだって、僕の憶測の域でしかないわけだし。
それでも吉田が僕らと同じ博物館に行った事があるのなら、もしかしたら騙されてくれるかもしれないと思った。話を聞き出して、上手い事行けば警察へ出頭させる事も出来るかもと、そう思ったのだ。
結果はまぁ、ご覧の通り、という感じなのだけども。
吉田がチケットを投げ捨て、僕の胸倉を掴んだ。そうして無理やり僕の上半身を持ち起こすと、「あぁ、そうだ。いいことを思いついた」と、へらりとその顔に笑みを浮かべた。
「お前の腹もあの女と同じようにしやるよ。1人、2人増えたところで殺人鬼野郎の罪が変わるわけじゃねぇだろうしな。綺麗なXを書いてやるから、あの世であの女によろしく言ってくれや」
しまる首に、ぐぅ、と僕の喉が音を鳴らす。上手く吸えない息に、肺がじわじわと活動の限界を訴えてくる。
もう何も考えたくなかった。このまま意識を失ってしまえば、きっと楽に死ねるんだろうな、と思った。だが、吉田の言葉を聞いた瞬間、それはだめだ、と思い直した。
言わないといけない。たとえこれが最後の言葉になったとしても。
この間違いだけは訂正しないといけない。以前の時のように、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「……Xじゃ、ないですよ」
「あ?」
「☓……、です。あれは、Xじゃなくって……、☓、なんですよ」
吉田が目を見開いた。言われた意味がわからない、と言いたげな表情だった。
しかし徐々にその目の色が変わっていく。疑問から困惑へ、困惑から戸惑いへ、戸惑いから恐怖へ。得体の知れない何かを見るかのような眼差しで、僕を見る。
「なんなんだよ」と吉田が口を開いた。死にそうなのは僕の方の筈なのに、彼の方が今にも死んでしまいそうな、弱々しく震えた声音だった。
「なんなんだよ、お前。さっきから、ずっと……、なんでそんな事、お前にわかるんだよ、きめぇよ、意味わかんねぇよ、何者なんだよ、お前」
「……さぁ」
「『何者』なんでしょうね」そう僕が答えた直後、「お前達っ、そこで何をしているっ」という大声と共に、眩しいライトの光が僕ら2人を照らした。
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