真相Ⅱ

「人間の身体は、死後2時間辺りから死後硬直が始まるそうです。最初は顎の関節、次に頭の方から順々に筋肉が硬直を始めていく。そうしておよそ20時間後、完全に全ての筋肉が固まる。その後、今度は徐々に腐敗を始めていくのです。遺体の腐敗は、身体の内部から始まります。消化器系である胃や腸内の消化液が、臓器を消化し始めるんです。さらに消化器系内にいる細菌も増殖し、その細菌と消化しだした臓器が内部で融合する事によって、腐敗ガス……、つまりは腐敗臭を生み出すんです」


 生物と書いて『せいぶつ』と読み、『なまもの』と読む。

 僕らは皆、生物で生物だ。


 生物はいつか腐る。生物もいつか腐る。ただ違うのは、『せいぶつ』は生きているから腐らない。生きている内は、腐らないように身体が自己を保存しようとする。それが生きるということ。僕らは皆、腐った生物にならないように生きている。


 そんな僕らが死んでしまったら、もう『せいぶつ』と『なまもの』としての境界線はなくなる。

『せいぶつ』だった僕らの身体は『なまもの』になり、『なまもの』になった身体は、自己を保存する為の力を失い、腐り果てていく。


 山里千里の身体は腐りかけていたのだ。その腐敗臭が、男性の鼻に届いた。


 それが臭いの正体だった。


「この話からわかるのは、人の身体が腐敗し始める時点でまず20時間の時間が必要だという事です。さらにその後も腐臭が発生する為に、消化液が臓器を消化する時間とそれらが臓器内の細胞と融合する為の時間が必要になる。となると、最低でも山里千里の遺体が発見された時点で、彼女が殺されてから20時間以上の時間が経過していなければいけない事になります」


 山里千里の遺体が見つかったのは今朝。そして、その遺体からは腐臭がしていた。

 ならば、それよりもたった数時間前でしかない前日の夜に山里千里が殺される事はありえない。せめて丸1日は前ではなければ、この殺人は成立できない。


 しかし、これでは殺人鬼Xの今までの殺害傾向と矛盾が生じてしまう。

 となると、考えられる事は限られてくる。


 この事件の犯人は、殺人鬼Xではない。これは、殺人鬼Xを模倣した、誰か他の人間の殺害であるということ。


 そしてもう1つ、……ある大きな矛盾がこの答えには含まれている。


「ここからは、完全に僕の憶測です」


 吉田が僕の言葉にたじろぐ。逃げるように一歩後ろに下がる。けれど、逃げ出す程の意思はないのか、下がるだけで止まる。


「あなたはある時、山里千里と大学構内で知り合った。声をかけたのは、あなたの方だった。理由は、単純な好奇心。聞いたところによると、あなたは女性の方遊ぶのがお好きなようですので、理由もそういった下心からだったのでしょう。その後、、何かのきっかけで、彼女と一緒に印刷博物館に行く事になった」


 

 そうして、山里千里と共に印刷博物館へ向かい、――その帰り道、この河原で殺害した。


「どのような意図があって、あなた達二人がここに来たのかはわかりません。ですが、この河原には恋人同士のそういう噂のようなものが存在している場所でもあります。もしかしたら、そういった下心で、あなたの方が彼女をここまで連れてきたのかもしれない。だけど、山里千里はあなたを拒絶した。それにカッとなったあなたは、彼女に手をあげてしまった」


 土手から突き落としたのかもしれないし、この河原まで連れててきた後に口論になり、勢いで殴りつけでもしたのかもしれない。

 しかしなんにせよ、場所が悪かった。山里千里に手をあげたここは、様々な人間達によって捨て置かれた物達で荒れる、不法投棄場だったからだ。


 吉田の立つ辺りに目を向け、想像する。この場所で誰かが死ぬ瞬間を。この荒れた場所で人の命が途絶える瞬間を。


 草地に混じり、鈍色の細長い鉄棒が地面から生えている。そんな場所で、どうすればそのような事態になるのか。どうすればそうなってしまうのか。その理由を探す。


 そして、


「我に帰ったあなたが見たのは、不法投棄された鉄棒に腹を貫かれ、意識を失っている山里千里だった。予想外の事態に焦ったあなたは、どうにかして自分のしでかした事を消そうと考えた。そこで思いついたのが、最近話題の殺人鬼Xを模倣する事だった。刃物なんて物は持っていない筈ですし、山里千里の腹を裂くのには、彼女の腹を刺した鉄棒でも使ったのでしょう。その後、念の為、投棄されたゴミ達の中に彼女の遺体を隠し、あなたは元の生活へ戻って行った」


 幸いにも山里千里には、両親はおろか彼女の身を心配する親戚のような相手もいなかった。それをいいことに、吉田は何食わぬ顔で大学生活を送り続けたのだろう。


 山里千里の居なくなった世界で、山里千里が死んだ事など知らないという風に。周囲の人々が誰も居なくなった彼女の事を気づかずに居るのと同じように、普段どおりに過ごし続けた。


 そうして、そんな日々の中で、彼は出会ったのだ。僕が知る山里千里に。


 そして印刷博物館に興味を示していた彼女を見て、こう声をかけた。「ここ、面白いところだよ」と。本物の山里千里と共に、行った事があるその時の記憶をひっぱり出しながら。


 今にして思えば吉田と出会った時に、気づくべきだったと、そう思う。


 吉田は僕に「彼女の何」と訊ねてきた。「彼女のなんなんだ」と。そうしてこうも言った。「あの子の後ろばかりついて歩き周りやがって」、「ずっと周りをうろつかれてる彼女の気持ちも考えろ」――。


 吉田はただの一度も山里千里の事を『山里千里』と呼ばなかった。彼女、あの子、とそう山里千里の事を呼び続けた。


 それは単純に彼が彼女の名前を知らなかったからだろう。彼女を口説く事に失敗した彼には、山里千里の名前を知る機会がなかったのだ。だから、彼女、あの子、とそう呼ぶしかなかったのだ。


 そもそも知っていたらきっと、彼は彼女の事を口説こうだなんて思わなかった筈だ。

 だって、目の前の相手から自分が殺した筈の相手の名前が出てきたりなんかしたら、誰だって恐怖に駆られる筈だから。


 それも、その殺した筈の相手とはの口から告げられたら。


 その恐怖は一入ひとしおだろう。


「山里千里が殺人鬼Xの新たな被害者として名をあげられた時、あなたは安堵すると同時に不安にかられた。山里千里の遺体が発見されたという事は、自分が彼女を殺した現場が捜査されるという事だ。もし自分が気づかないところで何か証拠を残してしまっていたらどうしようか。その時、あなたは山里千里が持っている筈の印刷博物館のチケットの事を思い出した。チケットには、館に訪れた日が印字されている。もしそれが警察に見つかったりでもしたら? その情報をもとに、警察が自分の事を突き止めたら? そう考えると急に恐ろしくなったのではないですか」


『犯人は現場に戻る』。数刻前、脳裏をチラついた言葉が再び僕の脳裏に浮かびあがる。


 怖くなった吉田は、警察が現場から居なくなるのを待ってチケットを探す事にしたのだろう。

 それが、ここに吉田が戻ってきた理由。吉田は本当に、かの名言通りに、犯人として現場に戻ってきたのである。


 そしてそこに僕が現れた。探している筈のチケットを持っているという僕が。そして事件の真相を知っているという僕が、やってきたのだ。


 吉田は顔をあげない。

 夏の生ぬるい風だけが僕達の間をゆるりと、ぬめりと流れていく。


「僕の考えは以上です」


 吉田は黙っていた。うつむき、無言でその地面を見ている。彼のくるりと毛先が跳ねた前髪が、彼の顔を僕の前から覆い隠す。


「僕がここに来たのは、自分の考えに確信が欲しかったからです。山里千里を殺した犯人が、殺人鬼Xではないという証拠が欲しかった。ただそれだけです」


 吉田はまだ無言だ。しかし、なぜか一歩だけ前に出る。後ろに下げていた筈の足をなぜか前に出し、ゆらりとその身体を揺らす。


「吉田さん。どうか、自首をして下さい。山里千里を殺した事を、その罪を認めて下さい。山里千里を殺したのは殺人鬼Xではないと、そう警察のもとへ行って欲しいのです。もちろん、あなたがそうしたくない事はわかっています。ですが、どうかその罪を認めてほしいんです。もし行かないと仰るのなら、代わりに僕が警察に行きます。このチケットを持って、あなたの代わりにあなたがした事を話ま」


 ガツン、と覚えのある痛みが僕の頭を襲った。

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