思索
「送りましょうか」と僕を気遣う刑事に首を横に振り返し、震える声でなんとかお礼を述べた後、僕は警察署を出た。
夏独特のやけに眩しく濃い橙色の空の下、自分のアパートへ向けて歩く。車で10分程ある距離を歩いて一度大学まで戻り、そこから歩き慣れた道を歩いてアパートへ帰宅した。
おかげでアパートに着く頃には、すでに日が半分ほど落ちかけている状態だった。
薄暗い室内の電気をつけると、ベランダに干しっぱなしになっていた洗濯物達が目についた。あぁ、そういえば干していたな、と思いながらベランダに向かい、窓を開けて洗濯物達を取り込んでいく。
身体の動きとは別に、脳裏に警察署で見た光景がよみがえってきた。瞬間、それに引っ張られたかのように、今まで山里千里と過ごしてきた日々が僕の頭の中を駆け抜けていく。
初めて声をかけられた時、貸したノートに書かれた「ありがとう」の文字、当たり前のように僕の隣に居座り、ごく自然なように僕の隣で話を続けるその横顔、印刷博物館に行く時に見たポニーテールとキャップ帽、一つ一つが僕の脳裏によみがえっては過ぎ去る時間の流れのように、どこか記憶の彼方へと運ばれ消えていく。
どうして、と思った。
どうして彼女だったのか、と。
洗濯物を抱えたまま、窓を閉め、部屋に戻る。そうして、ふと目についた隣人との壁に向かい、寄り掛かる。耳をくっつけ、隣の部屋の音を探る。
物音は相変わらず聞こえなかった。昨日からずっとこの調子だ。いつもならかすかに聞こえる隣人の物音が、昨日から聞こえないままでいる。
もしかしたらもう、この壁の向こうに隣人はいないのかもしれない。そんな考えがふと浮かんだ。
かつて読んだ殺人鬼Xの記事を思い出す。
それらによれば、殺人鬼Xの殺人現場をいつだって異なる場所だった。山里千里の遺体が発見された今、きっと隣人は次なる居場所を求めて、ここを出ていってしまったのだ。そう考えるのが自然の摂理だろう。
警察署を出る寸前、「今夜中にはニュースになると思いますが」という前置きと共に、男性刑事が殺人鬼Xの捜索範囲を広げる事が正式に決まった事を僕に教えてくれた。
僕らの住むこの地域も捜索範囲に含まれるようになるらしい。「しばらくの間はこの辺りも多くの警察が巡回する事になる予定です」との事だ。
「必ずや、犯人を逮捕する事をお約束します」と眉間にしわを刻んだまま、男性刑事は言葉を続けた。いい人だな、と思った。きっと彼のような人間が、この部屋に住んでいれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。
僕のような、たかがお礼1つを言われただけでそこに犯罪者が住む事を許容してしまう人間じゃなければ、今回の悲劇は起こらなかったのかもしれない。
結局、僕は誰かの傍に居ていい人間ではなかったのだ。誰かの『何者か』になんて、僕のような取り柄のない人間になる事はできないのだ。
僕はきっと一生、誰かの『何者』にもなれず、孤独に1人で、こっそりと世の中の異物として暮らし続けるのだろう。
壁に寄りかかりながら洗濯物をたたむ。ふとたたんでいたズボンのポケットから、何かがこぼれ落ちた。白い塊だった。何かがくしゃくしゃに丸まってできたものらしいと悟り、広げてみる。
手の平よりも数回り小さくなった、名刺のような紙が姿を現す。あの印刷博物館で、山里千里と作った活版印刷のカードだった。
そういえば、ズボンのポッケにしまったんだったな、と思い出す。どうやらいれっぱなしで洗濯をしてしまったらしい。
僕の名前を刻んでいた筈の黒いインクが、にじみ、文字には見えない配列をしわしわになった紙の上に刻んでいた。それをぼんやりと眺めている内に、ふいにあの日の山里千里の言葉が僕の脳裏によみがえった。
『Xってさ、☓マークみたいだよね』
言いながら、Xの文字が刻まれた小さな活版を手にする山里千里。
まるでそう遠くない未来に訪れる結末を吟味しようとするかのように、黒い双眼が、小さなXの文字を眺める。
彼女は、どうしてあんな事を思いついたのだろう。そしてそれを僕に言ったのか。答えの得られない疑問が僕の中に浮かび、僕の頭は得られない答えを探すように思考を続ける。
カードを横によけ、洗濯物を片付ける。
その後はする事もないので、スマホをいじって時間を潰した。ないテレビの代わりに、スマホを使って世の中の情報を収集する。
そうして思う。隣人は今、どこにいるのだろう、と。
わからない。わからないが。
ただ会わなければいけないと思った。
山里千里を殺した彼に、会わなければと。
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