夜、河原

 夜、アパートを出る。部屋の鍵を閉め、階段を降りようとしたら、下から上がってきた住人とすれ違った。頭が禿かけたスーツ姿の男性だった。


 覚えのある姿に頭を下げると、向こうも僕に気づいたらしく「おや」と頭を下げ返してくれた。


「でかけるのかい」

「……ちょっと川の方まで。散歩に」


 少しだけなんて返すか悩んだ後にボソボソと返した。僕の態度が気になったのか、男性が少しだけ不思議そうに首を傾げた。が、特段問いただそうとは思わなかったようで、「気をつけてね」と優しい言葉を返してくれた。


「近頃、物騒だから」と続けられた言葉に、「そうですね」と頷き返す。そうして「ありがとうございます」と小さく頭を下げて男性と別れ、僕はアパートを後にした。


 夏の暑い空気と夜の涼やかな空気が入り混じった、生ぬるい空気が僕の頬を撫でていく。ギーギー、とコンクリートだらけのこの世界の中、一体どこに潜んでいるのかわからないコガタが鳴く声が聞こえる。

 均等に並んだ街頭が地面を照らす闇夜の中、僕は男性に述べた通りに川の方へと向かって歩みを進める。目的地は山里千里の遺体が発見されたという場所だった。


「犯人は現場に戻る」そう言ったのは、はたして誰だったか。いつの間にか、言葉ばかりが先行して世間に流れてしまったこの言葉だが、実はこれには心理的確証があるとされている。


 犯罪者の大半は、己の罪から逃げる為の方法を模索する。しかし、どれだけ逃げる方法があったとしても、現場に致命的な証拠を残してしまっていれば、その全てがパァになる。

 その為、証拠の隠滅、または確認をする為に、一度現場へ戻ってくる可能性が高い、というのが、この言葉が持つ本当の意味なのだという。


 いつか読んだ本に記載されていた、にわかの心理知識。けれど、なんの取り柄も頼れる人脈もない僕では、こういったものに縋る以外に、山里千里を殺した彼と会う方法が見つけられなかった。

 たとえその心理的確証が間違いであったとしても、もうその場所へ向かう以外、僕には選択肢が残されていない。


 それに確信はあった。彼は多分、あそこへ戻ってくる。山里千里を殺した彼は、必ずあそこへ戻る。


 否。


 戻ってこなければいけない筈だ。

 僕が彼に会わなければいけないように。彼もあそこに戻ってこなければいけない筈なのだ。僕の考えが正しいのであれば、だけど。


 ポケットの中に手を入れ、その中にある物を確認する。かさりと、乾いた紙の感触に僕の指の腹が触れた。それに触れ続けながら、僕は川を目指して歩く。


 たどり着いた土手は、日中の時にはない夜独特の静けさだけが満ちていた。周囲の住宅達の明かりはまちまちで、遠く下流の方に鉄道橋が見える。その上を電車が走り去っていった。耳をすまさずとも、ガタンゴトン、と忙しない車輪の音が僕の耳に届いた。


 橋に背を向けて、上流の方を目指して歩く。しばらく歩いていると、河原に降りる階段を見つけたので、それを使い河原の方へ降りる。


 山里千里の遺体が見つかったと思われる工事現場は直ぐに見つかった。

 遠くからでもわかるぐらいの大きな重機達が、川の流れに沿うようにして川辺に並べられていた。


 さら地にされた場所にいくつもの小山ができているのが目につく。周囲の草地とはあからさまに違う空間。それをさらに浮き彫りにするかのように、『KEEP OUT』の文字が羅列された黄色いテープがはられている。


 けれど、そこへ辿りつく前に僕の足は止まった。暗がりの中に誰かが居るのに気づいたからだ。工事現場よりもっと手前の河原。まだ刈り取られていない草地達がのびのびと、夏のぬるい風に揺られている。そんな草草の合間には、不法投棄と思われるゴミ達が静かに佇んでおり、草草と共に静かに夜風にあたっている。


 自然と人工廃棄物、相反する存在が混ざりあった空間。そんな場所に、はいた。


 ガサガサ、と草をかきわけながら。何かを探しているかのように。――を探しているように。


 その姿を見て、僕は安堵した。自分の考えが正しい事を知り、心の底から安堵する。


 そうして、


「こんばんは」


 声をかけた瞬間、ハッとしたようにその人物がこちらに振り返った。驚いたように目を丸めた双眼が僕を見つめてくる。


 そんな彼に向かって、僕はポッケにいれていたを取り出し、見せつける。

 そうして「探しているのはこれですか」と尋ね続ける。


「吉田圭人さん」


 闇夜に溶けきれぬ茶色い吉田圭人の双眼が、なぜお前がここに居るのか、と問いかけるように僕を真っすぐに見返してきた。

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