それだけでいい

「ノートくん、居た」と、僕を発見した山里千里がこちらに駆け寄ってきたのは、吉田が去ってからしばらくした後の事だった。


 吉田に殴られた頬をさすりながら、僕はベンチの背もたれに預けていた身体を起こした。周囲を見回してみると、山里千里以外の学生は誰もいなかった。

 どうやらいつの間にか、午後の授業が始まる時間になっていたらしい。意識は飛ばさなかったが、初めて感じる頬の痛みに負けて、ずっとベンチでうだっている内に思った以上の時間を浪費してしまっていたようだった。


 僕の頬を見た山里千里が、僕の方へ向けた足を止める。

 だが、それも一瞬ばかりの事で、次の瞬間にはまた歩きだして、当然のように僕の隣に腰をかけてきた。


「どうしたの、それ」

「……殴られました」


 シンプルに、簡潔に、訊かれた事にだけ答える。

 山里千里が何かを探るかのように、僕の傷跡を見た。じっ、と無言で、闇色の瞳を僕の頬に向けてくる。

 しかし追求するつもりはないのか、それとも深入りするつもりはないのか、「そっか」とだけ言うと、ふっとその目を僕から逸らした。


 ――瞬間、その彼女の言動に、激しいムカつきが僕の腹の中にわきあがってきた。


 脳裏にいつかの山里千里の言葉が蘇る。

『何者かになりたい』と言った山里千里。僕の『友達になりたい』と言った、彼女の言葉が、セミもまだあまり鳴き響かない中庭の中で、僕の脳裏にだけ木霊する。


『友達になりたい』と、『何者かになりたい』とあの時、君は確かに言ったのに。なぜどうして、山里千里は僕の怪我の理由を訊ねないのだろう。

 友達というものが、どういうものなのか、僕のような孤独な人間が説くべきではないのだろうが、しかしこういう場面で、相手に何も問わない友達がいるのだろうか。


 今にして思えば、山里千里はいつも自分の話はするが、友達になりたい相手である筈の僕の話は聞こうとしてこない。本の話の時もそうだ。本を読む理由を曖昧に濁し僕に対して、彼女は何も追求してこなかった。


 腹の中のモヤが増すのを感じる。吐きそうだと思った。食べた昼食は、まだ胃の中で消化されている頃だろう。吐くには頃合いだ。けど、そうじゃないと思った。吐きそうだけど、そうじゃない。

 この腹の中で渦巻くモヤは、たぶんきっと食べ物だなんて、そんなわかりやすい形をしたものでは吐き出しきれない。


「冷やす?」と山里千里が問いかけてきた。彼女の僕よりも細い首がかしげられる。

 そんな彼女の動きにあわせて、ツン、とした香りが僕の方へ飛んでくる。その香りがまた、僕の中の吐き気を増幅させた。


 僕は首を横に振り返した。身体を前に倒し、膝で両手を組み、うつむく。山里千里の瞳には敵わない薄暗い自分の影が、人工的な中庭の地面に陰りを作る。


 その陰りを目にした瞬間、ついにそれが吐き出た。


「居なくなってくれ」

「え?」


 山里千里が間抜けな声をあげる。間抜けな返事をするのは、いつも僕の役目だったので、立場が逆転しているな、と思った。ちらりと顔をあげた先、見えたのは黒い双眼を見開く山里千里の姿だった。


「ずっと言いたかった。どうして君は僕に構うんだ。たかがノートを1冊貸してやっただけの相手に、いつまで君は構い続けるんだ。君は『友達になりたい』と言ったけど、それは別に僕じゃなくてもいい筈だろ。僕はなんの取り柄もない人間なんだ。頭が良い人間じゃなければ、君のように顔がいい人間でもない。事務的な返事や挨拶はできても、何かを話しかけられた時に話し返す事ができるコミュニケーション能力はない。洒落た店に飾られているマネキンコーデを着こなせるセンスもなければ、それを着こなそうとする勇気も気概もない。そんな人間にどうして君は構うんだよ。君が隣に居ると、僕という人間の取り柄のなさだけが浮き彫りになる。君と一緒に居るだけで、皆、君と僕を見比べるんだ。君より劣っている僕の姿を見て、皆が僕を嗤うんだ。僕はただ、君と一緒に居るだけだって言うのに。こんな生活、いい加減もう、うんざりなんだよ」


「お願いだから消えてくれ」そう、僕の言葉がしめくくられた。


 自分の口から言っているのに、まるで他人事のような感覚がした。全く見知らぬ他人が、自分とは全く違う誰かが、僕の口を使って喋っている。それを自分は遠くから眺めている。自分はここに居る筈なのに。まるで映画のワンシーンを眺め、あれこれ感想を述べるお客のような勝手さで、冷たく自分を見下ろしている自分が居る。


 無言の間が、僕と山里千里の間に広がる。視線はいつの間にか地面の方へ戻っていた。

顔はあげられなかった。山里千里がどんな顔をしているのか、それを見る勇気は僕にはなかった。


「わかった」


 ふいに山里千里がそう言った。次の瞬間、それまで隣に感じられていた人の気配がなくなる。


 タッタッタッ、と軽やかに駆けていくような足音がその場に響き、数秒後、僕の周囲は再び無言の世界になった。

 


 激しい後悔に襲われたのは、アパートに帰ってきてからの事だ。言ってしまった、そう数時間遅れでやってきた後悔に、僕は自分以外誰もいない孤独な部屋の中で頭を抱え、のたうち回った。


 なんて事を言ってしまったんだ。確かに僕は彼女が自分に構う理由がわからなかった。そこは嘘ではない。でもだからと言って、あそこまで言うつもりはなかった。あんな風に、彼女の事を否定するつもりはなかったのに――。


 どうして僕はこうなのだろう。なぜ他者と上手く生きられないんだろう。

「取り柄がない」と僕の事を呆れた目で見てきた両親の姿が、「何かあったら帰ってきていいからね」と僕を気遣う弟の声が、つまらなさそうな物を見る目で僕を見てきた入学初日の見知らぬ学生の目が、僕と山里千里が隣合う事を理解できないように見つめる名も知らぬ学生達の目が、僕を「金魚のフン」と罵った吉田の姿が、次々と僕の脳裏を横切る。


 世界中から責められているようだった。本当に否定されるべき存在は山里千里ではなく、お前の方なのだと。お前こそが、僕こそが、この世界の異物なのだと。他人と交わる事のできない、他人に嫌な思いをさせる事しかできない僕こそが、この世からは消えるべき存在なのだと――。


 でも、それならば、なぜ、僕は僕なのだろう。


 他者に嫌な思いしかさせられない存在ならば、どうして僕はこの世に生まれてしまったのだろう。世界の異物だというのなら、どうして僕はそうなるような存在で、この世に生まれてしまったのだろう。この世の命は全て神が作り上げたものだと言ったのは誰だったか。それならば何故、僕のような異物を作り上げたんだ。誰かが嫌な思いをすることが明確にわかっているのに、どうして僕みたいな存在を作ったんだ。


 この世界に生きているのに、この世界に馴染めない。皆と同じ存在に生まれた筈なのに。皆と同じようになれない。


 僕は何者なんだ。僕はなんなんだ。どうすれば僕は何者になれるんだ。僕は、誰かに何者だと知って貰えるんだ。


 誰でもいいから言ってくれ。傍に居ていいと。必要だと。君は孤独でもなんでもないと。君だけが皆と違うわけじゃないと。安っぽい言葉でいいから。チンケな言葉でいいから。薄っぺらい言葉でいいから。


 それだけでいいから。


 ふと、部屋の壁が目に入った。ベージュ色の飾りっ気のない、引越し当初から何も変わらない部屋の壁。その向こうには、世間を騒がせている人物がいる。


 僕が異物だというのなら、きっと人の存在そのものを脅かす彼は、僕以上の異物なのかもしれない。でもそうして異物である彼は、世間では『殺人鬼』という肩書きを与えられている。


 ビジュアル・コミュニケーションという言葉が脳裏を横切っていった。有史以来、言葉という手法を持たなかった人類が作り上げた、特殊なコミュニケーション方法。


 もしかしたら殺人鬼Xの殺人は、彼が唯一できるコミュニケーション方法なのかもしれない。

 人を刺し、腹を裂き、その生命を亡き者にする。そうする事で、殺人鬼Xは自分の存在をこの世界に知らしめるのかもしれない。自分は何者であるのかを、この世界に向かって伝えているのだ。


 なんて馬鹿げた考えだろう。でもそういう事もあるかもしれないとも思った。


 だってきっと、世界に馴染めない異物な存在である僕らは、そうでもしなければ何者にもなれない。誰かの『何者か』になるには、僕らはあまりにも他者と違い過ぎる。


 壁に寄り掛かる。耳をくっつけてみるが、物音は聞こえなかった。代わりに、アパートの中を満たす孤独の音達が僕の耳に届く。


 けれどその音が、いつものように僕の孤独を満たしてくれる事はなかった。

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