文学部の吉田という人物が何者であるかは、すぐに知れる事となった。

 なぜなら、山里千里と印刷博物館に行った数日後に、彼本人が直接僕のところにやってきたからである。


「お前か、あの子と一緒に博物館に行ったっていう1年は」


 そう吉田が僕に声をかけてきたのは、大学の昼休み中の事だった。昼食を食べ終えたばかりの僕は、午後の授業が始まるまでの時間を潰す為、いつもどおり中庭のベンチで本を読んでいた。山里千里は居なかった。


「誰ですか」と本から視線を外し、自分の前に立った彼に訊ねた。「吉田よしだ圭人けいと。文学部3年」とあっさりとした返事がされた。


『吉田』。覚えのある名字に、僕の心臓がどきりと音を立てた。


 吉田はよくも悪くも世間がイメージする『大学生』の風貌をした学生だった。耳周りや襟足辺りを刈り上げた爽やかなソフトツーブロックの茶髪。少しだけダボついた黒色のサマーニットシャツの上には、紺色のコーチシャツがはおられている。足も黒色のイージーズボンに紺のスニーカーが履かれており、近年よく見る『洒落た大学生』を地で行く男子学生だった。


 まるでショップのマネキンコーデをそのまま着ているかのような汎用さ。

 しかしその汎用さも着る者にそれだけの器量がなければ似合わないものだ。その汎用ささえも着こなせない僕と比べると、吉田の方が社会的地位は上であるように感じた。


「お前、彼女の何」


 吉田が口を開いた。不機嫌そうに髪色とお揃いの眉をひそめながら、ベンチに座る僕を見下ろしてくる。


「何とは」

「彼女のなんなんだって訊いてんだよ」


 僕の間抜けな返答が気に食わなかったのか、吉田が苛立たしげな声音で返してきた。

 腕を組みながら、その声音にこもった苛立ちを体現するかのように足先でトントントンと地面を叩き始める。


「他の奴らから聞いたぜ? お前、ずっと彼女と一緒に居るんだってな。授業中も昼飯ん時も一緒って話じゃねぇか。金魚のフンみたいにあの子の後ろをついて歩き回りやがってよ。ハッ、きめぇんだよ、お前。ちょっとばっかり顔がいい奴に優しくして貰えてるからって調子に乗ってんじゃねぇぞ」


 その情報は間違っている、と言いたかった。金魚のフンのように人の後をついてまわっているのは僕ではなく、山里千里の方だ。しかしそれを彼に言ったところで、話を聞いて貰えない事は明白だろうと思い黙る。


 多分、この吉田という男は、山里千里を博物館に誘えなかった事に苛立ちを覚えているのだろう。

 こっ酷く手痛くフラれ断られるならまだしも、山里千里は彼からのそれをただの見知らぬ人からの善意として受け取り、彼ではなく僕の方を誘って博物館に行ったのだ。そりゃあ八つ当たりの1つでもしたくなるというのが、人間の心理だろう。


 幸いな事にも僕は他者からの苦言、非難というものには慣れていた。幼い頃から「取り柄がない」と言われ育てられ続けた結果生まれた、僕の数少ない取り柄のようなものだった。

 言いたいだけ言わせれば去っていくだろう、とそんな事をぼんやりと考えながら、僕は吉田の言葉を聞き続けた。


 何も言わない僕をどう受け取ったのか、吉田は僕の反応など気にした様子もなく、言葉を続けていく。「ずっと周りをうろつかれてる彼女の気持ちも考えろよな」「彼女もよくこんな辛気臭ぇ奴と一緒に居られるぜ」「お前みたいな奴が周りをウロついてるから、あの子も気ぃ遣って他の奴らと遊びに行けねぇんだろうが」「気づけよ」「迷惑なんだよ、お前」――。


 不穏な空気が僕らの間に流れている事に気づいたのか、周囲の学生達が僕らから距離を取り始めていく。と同時に、「ねぇ、あの人、文学部の」、「あれ吉田くんじゃん」、「また女関係か?」とコソコソとした話声が僕の耳に飛び込んでくる。


 後で知ったところによると、どうやらこの吉田という人物は、それなりに大学では有名な『遊び人』だったらしい。特に女関係では、これまで何度かこじらせ、問題を起こしているという。

 それでも懲りずに、色んな相手、特に何も知らない新入生相手には良い顔をして近寄っているとの話だった。山里千里に彼が近づこうとしたのも、そういう良からぬ理由からだろう事は、想像に難くなかった。


 僕らから離れる人々をちらりと視界の隅で確認しながら、僕は先程、吉田に言われた言葉の意味を考える。


『お前、彼女の何』


 ――何。


 僕は山里千里の、彼女の、なんなのだろう。


 印刷博物館に行ったあの日以降、僕は山里千里を避けるようになっていた。

 講義ではこれまで座っていた席には座らないようにした。今までは避けてきた真ん中近くに座るようにし、なるべく近くの席が全て人で埋まっている席に座る。講義室自体にも講義が始まるギリギリまでには行かないように努め、たとえ教室で山里千里と遭遇しても決して隣同士に席を取る余裕ができないように徹底した。


 昼食も学食で食べるのをやめ、大学近くのファミレスで取るようにした。出費は多少痛いが、そこまでする理由はあると思った。中庭での読書もなるべく控えるようにした。どうしても行く宛がない時、たとえば今日のように、昼食を取って戻ってきたはいいものの、急に授業がなくなり時間が空いてしまった時とか、そういう時だけここに来るようにした。


 それもこれも、全部、あの日の帰り道に自分の中に走ってしまった動揺が原因だ。

 あの日、自分以外にも山里千里の何者かになれる人間がいると気づいたその時、僕の中で膨れ上がった何かが、彼女と会いたくない、という衝動を僕の中に生み出していた。


 なぜ自分がこんなにも動揺しているのかが、わからなかった。彼女に自分以外の『何者』かになれる人間がいるなんて、そんな事、あったっておかしい事ではない筈なのに。何もこの世の中に居る人間は、僕と山里千里だけじゃないのだ。僕以外の人間が山里千里の『何者』かになる事だって、普通にありえる事だろう。


 なのに、僕はその現実を前に動揺した。山里千里に僕のような『何者』かができるところを想像した瞬間、息ができなくなるような感覚に襲われた。


 もし山里千里に僕のような『何者か』ができたら、僕はその相手の事をどう捉えるのだろう。

 いや、それ以前にその『何者か』の方は僕の事をどう捉えるのだろう。この目の前の吉田という男が言うような「山里千里の周りをうろつく金魚のフン」に見られるのだろうか。それともそれ以外の『何者か』に見られるのだろうか。それはどんな姿だろうか。


 その『何者か』が山里千里の前に現れた時、山里千里は僕の事をどう見るようになるのだろう。


「おい。黙ってねぇで、なんとか言ったらどうだ」


 何を言っても何も言い返さない僕に苛立ちが限界に達したのか、吉田が僕の胸倉を掴んだ。

 突然の事に対応できなかった僕の身体が、無抵抗に宙に浮き、力の抜けた手から読みかけの本がバサリと音を立てて地に落ちる。


 怒りに満ちた吉田の瞳が僕を見つめる。どこか茶色が混ざっていりように見える黒い瞳が、僕を怒りの矛先を向ける対象として認識し、睨みつける。


 僕は何者になるんだろう。

 僕は一体何者なんだろう。

 僕は――、山里千里は――、僕らは、


 一体何者になる事ができるんだろう。


『お前、彼女の何』


「……なんなんでしょうね」


 そんなの僕が訊きたかった。


 ゴッと鈍い音が、僕の頬辺りに鈍い痛みを伴いながらその場に響き渡ったのは、次の瞬間の出来事だった。

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