何者かになりたい
山里千里が僕にノートを返してくれたのは、それから2日後の事だった。
お昼。大学の食堂で1人、どこの輪にも溶け込めずにその日の日替わり定食のメニューであったエビフライ定食を食べている時の事だった。
「ノート、助かったよ」と言いながら、山里千里が僕の隣の空いている席に座ってきた。
なんで隣にくるのだろう、こういう時は前にくるのが人のセオリーというやつなんじゃないか。そんな事を思ったが、とりあえず口に含んでいたエビフライを尻尾以外の部分を一気に食べた後、僕はノートを受け取った。
なんとなしにパラパラと受け取ったそれをめくってみれば、「ありがとう」とデカデカとした文字が最後のページにかかれているのを見つける。
「なんですかこれ」と僕が尋ねれば、「お礼」と山里千里はにんまりと口の端を持ち上げて笑った。
「お礼って、まさかこないだ言っていた『お礼』ですか」
「お気に召さなかった?」
「人のノートに勝手に落書きされて喜ぶ人間は少ないと思います」
「ノートくんは、エビフライの尻尾は残す派なんだね」
「話を聞いて下さい」
「私はね、エビフライの尻尾は食べたい派」
「貰っていい?」と山里千里が僕の皿に手を伸ばそうとしてきたので、慌ててお盆ごと皿を彼女から離した。
「やめてくださいっ」と言い返せば「冗談だよぉ」と、山里千里はケラケラと笑った。
冗談で人の皿の上にある物(しかもエビの尻尾なんて、食べ物と認定していいのかすらも謎な物をだ)を素手で食べようとするのか、この人は。なんなんだ、と僕が顔をしかめる事になったのは言うまでもない事だろう。
この日以降、なぜか山里千里は僕に話しかけてくるようになった。
講義がかぶれば「よっ、隣空いてる?」とまるで居酒屋の大将に声をかけるかのようなノリで僕の隣にやってくる。講義のない空き時間を潰す為に適当に大学敷地内にある中庭のベンチで本を読んでいれば「暇してるねぇ」と言って僕の横にやってくる。昼、食堂で1人で何を食べるか悩んでいれば、「私はこれが食べたい」と僕の隣にいつの間にか立っている。
一体、なぜこのような事になってしまったのか。しかし、僕には山里千里を追い払うだけの話術スキルがなかった。よって彼女が自分の横に立つ事を受け入れる以外の選択肢は僕にはなかった。
山里千里は何が面白いのか、僕相手に様々な話をしてきた。「今日は降水率が云パーセントらしいよ」とか、「大学の前のファミレスに期間限定メニューができたらしい」とか、「ここ『中庭』っていうけど、言うわりに地面はコンクリートだし、花壇とかがあるわけでもないし、ベンチがあるだけのただっぴろい広場でしかないよね、庭要素がまったくない」とか。
とにもかくにも雑多に、風呂敷を広げるだけ広げていく。
そうして話す事がなくなると、おもむろにポケットからスマホを取り出しては、そのままスホをいじり始める。かと思うと、ふいになにか思いついたかのようにまた、べらべらだらだらと僕に向かって話始めるのである。
もしかして僕は、彼女にとって都合のいい壁か何かだとでも思われているのだろうか。何をどんな事を言っても怒らない、好きなだけ自分の話を来てくれる壁。
それなら納得が行く。なんせ彼女がべらべらと話すのに対して、僕がしている事と言ったら、「はあ」だの「そうですね」だの「へぇ」だのという味気ない相槌だけなのだ。こんなの壁に向けて話しているのとそう変わりはない筈だ。
山里千里が僕同様に大学構内に知り合いがいない人間である事は、一緒に居る内に自然と知った。
大学構内の誰もが僕という存在を素通りして大学生活を送るように、誰もが山里千里と話をしようとしなければ、声をかけようともしなかった。皆、彼女の横を何も言わず過ぎ去っていく。
けど僕と彼女の間には1つ、決定的な違いがあった。
それは誰もが彼女の横を何も言わずに過ぎ去るが、同時に誰もが彼女の顔に驚き、振り返る事だ。
彼女の顔にはその場にいる人目を全てかき集める事ができる美貌が備わっていた。
長くはっきりとしたまつ毛に彩られた二重瞼の大きな目に、綺麗な勾配で作り上げられたスラリと高い鼻。白い肌はシミも若者特有のニキビもなく、まるで一面雪化粧の白銀世界のような美しい表面を保っていた。その白銀の地の横で揺れる漆黒色の長い黒髪は、まるで白銀の地を覆う深い闇夜のようだった。ただの人間では決して触れられない、神秘的な何かに似たものがそこにはあった。
誰もが山里千里の美貌に目を奪われた。山里千里が自身の真横を通った瞬間、まるで滅多にお目にかかれない国宝級の美術品を目にしたかのような、驚きと感動が入り混じった眼差しを彼女に向ける。
そうして彼女が過ぎ去った後、コソコソと今しがた歩き去っていった生きた芸術品の美しさについて評論を始める。彼女は知り合いこそ居なかったが、その生き様は正真正銘の孤独のみで形成された僕とは違うものがあった。
ある日、気になって山里千里に訊いてみた。「どうして話しかけてくるんですか」と。
すると僕から質問されるとは思っていなかったのか、山里千里は驚いたようにその目を見開いた。
元から大きな目がさらに大きくなり、なんだか顔からこぼれ落ちそうだな、と思った。彼女の瞳は、その髪にそっくりな深淵の闇を思わせる瞳だった。1ミリの光も感じられない黒い双眼をまじまじと見つめながら、僕はその日、自分が初めて彼女と目を合わせて話をした事に気がついた。
山里千里はしばらくの間、目を丸くし続けていたが、その内元の大きさに戻すと僕から目を逸らして、口を開いた。
「何者かになりたいんだ、私はね」
「何者か」
なんだそれは、と僕の顔がしかめられた。と、途端頭の中に、一昔前に発売されて映画化された文学小説のタイトルが横切っていった。確か、就活を題材に扱った人間ドラマだった筈だ。
「どこの小説のタイトルですか」と思ったままに言葉を返せば、「そういうつもりはなかった」と山里千里は苦笑した。
「私の言う何者かってのはね、相手にどういった人間に見られるかってことだよ」
「『視点転換』っていうやつですか。物事を見る時に、一人称視点から第三者視点に切り替える事で、見えてくるものが変わるっていう」
「おや、難しい言葉を知っている」
「本を読んでいたら知りました」
「そういえば1人で居る時によく読んでいるね」
「……読む事は嫌いじゃないので」
「ふぅん」と山里千里が相槌を打ち返してきた。下手に追求されなかった事にホッと胸をなでおろす。本好きなのか、と問われたら答えに窮してしまう事が明白だったからだ。孤独なせいであり余り過ぎた人生の時間を消化する為に読んでいる、なんてそんな理由を返せるわけがなかった。
「人間というのはね、ノートくん。いつだって誰かの『何か』として生きている生き物なんだよ。例えば、私達には父や母と呼ぶべき存在がいるでしょう? でもその人達が父や母であるのは、あくまでも私達視点で見た時のお話なんだよ。例えば彼らの友人から見れば、彼らは私達の父や母ではなく、自分達の『友人』でしかない。その瞬間、私達の父や母は『私達の父や母』という人間から、彼らの『友人』という人間に成り代わるんだ。逆に全くなんの顔見知りでもない人間からすれば、彼らは名前も性格もよくわからない第三者になるんだ。人間というのはね、そうやって自分を見てくる相手の視点によって、その都度自分が『何者であるか』を変えて生きている生き物なんだよ」
「すみません。言っている意味がよくわからないので、わかる言語で話して下さい」
「君の友だちになりたい」
あっさりと返された言葉に、今度は僕が驚き目を丸める番だった。
そんな僕の様子に山里千里がしてやったりというように、闇色の目を愉快そうに細めて笑った。
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