山里千里(やまさと ちさと)
最初に声をかけてきたのは、山里千里の方だった。お昼前、午前最後の講義が始まるその直前の小休憩時間。「ねぇ、」と彼女の方が僕に声をかけてきた。
「そこ、空いてる?」
そこ、と言うのは僕の隣の席のことだった。
大学の席には、決まった席は存在しない。そもそも決まったクラス自体が存在しない。僕ら学生にあるのは、自分達が所属しなければいけない学部や学科の名前だけで、授業を受ける教室だって授業の度にころころ変わるから、決まった席を決めることができないのだ。
その為、年齢性別十人十色な自由な人間性で溢れかえる学生達のように、大学の席というのは学生達の自由意思を尊重されたシステムになっている。
それでも大学生活に慣れきった頃には、大体皆、自分の定位置というものを見つけているもので。あの男子学生はこの辺り、あの女子学生グループはこの辺り、後ろの方の席は大体寝たい奴が座っている、その他エトセトラエトセトラ。とにかく大学生活も半ばになれば、大体どの新入生も皆、決まった席に腰をおろすようになっている。
かくいう僕も例外ではなく、この頃になると毎回決まった場所に席をとるようになっていた。
講義室後方のドアに近い隅っこ席。そこが、この自由空間においての僕の居場所だった。
自分に話しかけてきた女子学生を、僕は目を丸めながら見つめた。読んでいた本を手に持ったまま、女子学生を見つめ返す。
腰までの長い黒髪を持った女子学生だった。長い髪の学生は大学構内にも多くいるが、ここまで長い髪を持った女子生徒は珍しかった。染めた気配のない自然の黒もその珍しさを際立てる理由だったかもしれない。痛みの見えない、つややかな髪が講義室の天井から降り注ぐ光を帯びて、その頭部に天使の輪を作りあげている。
自分を見つめるばかりの男子学生を訝しがったのか、女子学生が不審そうに片眉を持ち上げた。
黒髪とお揃いの黒く細い眉が、ひょいっと持ち上げられる。そうして僕の隣の席を指さしながら、「席、」と女子学生は再び口を開いた。
「空いてる?」
「空いてます」
ほぼ反射的に答えてしまってから、やってしまった、と思った。これでは、隣にどうぞ、と言っているに等しい。
しかし僕の隣に人がいないのは事実だった。端っこの席というのは、どうしてか人が集まりにくい場所らしい。大半の学生は皆、真ん中の方に座っている事が多い。だから、僕の隣の席は万年空席状態にあった。
「座っていい?」と律儀に訊ねてきた女子学生に、一瞬逡巡した後、「どうぞ」と僕は隣を手でさした。「ありがとう」と笑って女子学生は僕の隣に腰を下ろした。
バクバクと心臓が鳴り出すのがわかった。机の下、膝上で握った拳の中がじんわりと汗で湿っていくのを感じる。
隣に人が座るのは、まだ何処に座るかを決めあぐねていた大学に入学したばかりの頃以来の事だった。そもそも僕がこの隅っこの席に腰を下ろす事を決めたのは、ここなら誰も来ない可能性が高いからだ。
友人も顔見知りもない孤独な僕では、人が多く集まる真ん中の席に座るという行為は非常に難しいものがあった。大学登校初日、よくもわからずにとりあえずついた席で、隣の人から話しかけられた時、上手く返答ができなかった事も起因していると思う。
まともな返事も会話もできない僕をつまらなさそうなものを見る目で見てきた、あの学生の眼差しが忘れられない。あの時、もっと上手く言葉を返す事ができていれば、きっと今頃僕の定位置はこんな隅っこではなく、真ん中の方にあったのかもしれない。
自分自身の取り柄のなさにはもう、呆れを通りこして諦めすら覚え始めてくる。僕の事を早々に見限った両親は本当に正しい選択をしたと思う。
僕も見限れるものもなら、こんな自分を見限りたかった。そんな事、できるわけはないのだけど。
何か話した方がいいのだろうか、と思った。でも何を話せばいいのかわからなかった。見知らぬ人と、それも異性相手に話せる事なんて、取り柄のない僕の中には何もなかった。
けどそんな僕の内心になど、女子学生は気づいた様子はなかった。席に着くと同時に、その洋服のポケットからスマホを取り出し、いじり始める。そうして僕の方など一切振り返る気配も見せないまま、チャイムが鳴るまでスマホをいじり続けた。
彼女が僕の隣にやってきて数分も経たずにチャイムと教授が教室にやってきた。出席を取らないタイプの教授なので、入ってきて早々に、声高らかに本日の弁舌が始まる。
僕は、教授が黒板に書き出す内容を必死でノートに書き写した。何かをしてないと隣りにいる人間の事を意識してしまいそうになるからだ。
どうして彼女は僕の隣になんかやってきたのだろう、いつもは何処に座っているのだろう、なんで今日はここなんだろう、隣に座っている僕の事をどう思っているんだろう、どう思われてしまっているんだろう、嫌だな、変なやつの隣に座ってしまったとか思われてたら。お喋りの1つもまともにできないコミュ障野郎だと思われていたらどうしようか。いや、十割正解ではあるんだけど。
だが、そんな僕のぐるぐると回る思考を余所に、彼女は講義が始まって10分もしない内に眠りについてしまった。
長い髪を豪快に机上に広げ、縁から床下にむかってたれ落ちるのも気にせずに眠りこける女子学生。講義中に居眠りをする学生というのは少なからず居るものだが、ここまで豪快に居眠りをする学生というのは、はたしてどれだけ居るのだろうか。
隠す気もない豪快な寝姿に、僕はあ然となった。
結局、彼女が起きたのは、講義が終わってからの事だった。チャイムが講義室内に響き渡り、「今日はここまで」と教授が述べると同時に、講義室内が学生達のざわめきで賑わい始める。
その賑わいに誘われるかのようにして、「ん~っ」と女子学生は身体を伸ばしながら目を覚ました。
「寝てた……」彼女が豪快な寝姿でボサボサになった髪を手ぐしで整えながら言った。
「私、寝てた?」となぜか彼女が、僕の方に振り向き訊ねてきた。
「寝てましたね」と反射的に返す。
とりあえず訊かれた事には言葉を返さなければいけないと思った。コミュニケーションスキルの低い人間でも、簡単な質疑応答ぐらいならば答えられるものである。
「あ~っ、やっちゃった~」と彼女が声を荒げた。「ノート取り忘れた~っ」と手ぐしで整えたばかりの筈の髪を、再び乱暴にかき乱し始める。
なんだなんだ、と僕は彼女の挙動に混乱した。情緒が不安定過ぎないか、この人、と思わず引いた目で彼女を見る。先程の緊張とは違う意味の緊張の2文字が、警戒心という言葉と共に僕の中でわきあがってくる。
だが、僕の警戒心など気づいた様子もなく、彼女はあっけからんとした声で「あ、そうだ」と言葉を続けながら、再び僕の方を振り返ってきた。
「ねぇ、ノート、コピーさせてくれない?」
「もちろん、なにかお礼はするからさ、ね、いいでしょ? ね?」と彼女がずいっと僕の方に顔を寄せてくる。
瞬間、ふわりとなにかの香りが僕の鼻に届いた。ツン、とするその匂いは、駅地下の香水ショップからする匂いに似ていた。
あまり得意ではない匂いに思わず顔をそらしそうになった。だが「ダメ?」と彼女が寄ってくる度にその香りが強くなったので、新手の拷問か、と心の中で唸り声をあげる事となった。
結局、匂いと彼女の勢いに押された僕は「いいですよ」と返事をする羽目になった。
ノートぐらい何冊でも貸してやるから、早く離れてくれ、と心の中で文句を述べる。
そんな僕に気づいた様子はなく「やっりぃ」と彼女は笑いながら指を鳴らして、僕の傍から離れていった。
「私、山里千里っていうの。よろしくね、ノートくん」
「ノートくん」
「君のあだ名。面白いでしょ?」
「人間、仲良くなるにはあだ名が1番手っ取り早いと思うんだ」、そう言って彼女――山里千里は、ニカッと白い歯を見せながら僕に向かって笑いかけてきたのだった。
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