世界は意外と孤独でできている
ひとまず隣人については黙認する事に決めた。
第一に、もし殺人鬼Xだったとして、通報したのが僕だとバレた場合、報復される可能性も否めない。通報したからと言って、直ぐに警察がその場にやってこれるわけじゃないのだ。その間に殺される可能性もある。
警察がやってきても逃げられたりしたら、同様の事が起こるかもしれない。
触らぬ神になんとやらだ。そう心の中で呟きながら、僕は隣人の存在を黙認する事にした。
通報をしない事を決めたからと言って、僕の生活が何か大きく変わるわけではなかった。孤独に家で起きては、孤独に大学で過ごし、誰も居ない部屋で孤独に寝て1日を終わらす。いつも通りの日々だった。
けれど、1つだけ変わった事があった。それは、隣に人が居る事を意識して生活するようになった点だ。
大学生が1人暮らしで借りるようなアパートというのは、正直言ってそんなに立派な作りのものではない。時々の単発バイトでお金を稼いで、なんとか凌いでいる僕のような学生の場合は、特にだ。
そしてその作りの弱さというのは大抵、壁に出る。というわけで、うちのアパートの壁は非情に薄い。どれくらい薄いかと言うと、隣の部屋のさらに隣の部屋の住人の鼻歌が聞こえるぐらいだ。
毎晩決まった時間に聞こえてくる歌声は、多分お風呂にでも入りながら歌っているのだろうな、と思うぐらいには自分に浸っている事がわかる歌声だった。
それ以外にも床に転がっていると下の住人のものと思われる生活音が聞こえてくる。深夜であるにも関わらず、ガサゴソとうるさく立てる音は、毎夜布団で眠りに着く僕の耳にダイレクトに届く。
だからと言って、それを下の住人に伝えに行く勇気は僕にはなく、耳を塞ぎながら寝るのが僕の日課だった。
そんな感じなので、隣人に迷惑をかけない為にも夜遅くの行動はなるべく控えるようにした。今までは、夜だろうと関係なく、スマホで動画を見たり、音楽をかけたりしていたのだが、うるさいという理由で隣人が僕を殺しにきたら困る。
死因が、うるさかったから、だなんてそんな理由での殺害だなんて。そんな間抜けな死に方はごめんだった。
夜のゴミ出しも控えるようにした。その分、就寝時間を早めて、朝に早く起きられるように頑張る事にした。
相変わらず朝は苦手だったが、死ぬよりはマシだと自分の身体を鞭打って起こし、ゴミ出しに向かう。
夜と違って朝のゴミ出しは、人とすれ違う事が多かった。すれ違う人々は、大抵が僕と同じようにゴミを出しに来たアパートの住人達だった。
住人達は老若男女様々で、僕と同じぐらいな年頃だろうと思われるスーツを着た女性の場合もあれば、よれよれのシャツを来て、頭が禿かけているおじさんのときもあった。子供と二人で一緒にゴミ出しをしている親子もいたりして、思わず自分の部屋の狭さを振り返ったりなんかもした。
うちのアパートにはこんなにも色んな人が住んでいたのか、と驚かされた。
まるで子供のおもちゃ箱のようだ。子供の独自のセンスと偏見で集められた、姿形も用途も全く違うおもちゃ達が詰め込まれた箱。そんな印象を抱くぐらいに、すれ違う人達にはまとまりがなく、共通点が存在していなかった。
しかし共通点のない人々は、僕の姿を認めると必ず皆、挨拶をしてきた。
「おはよう」時々「こんにちは」、機嫌と余裕がある時は「今日はいい天気ですね」。そんな風に名前も知らない筈の住人に向かって、ただ同じアパートから出てきた人、というそれだけの共通点で、彼らは僕に話しかけてきた。
最初の頃は戸惑った。人からまともに挨拶をされるなんて、小学時代の朝の会の時ぐらいじゃないだろうか。でもそれもクラス全員に向けてのもので、僕個人に向けられたものではない。僕という人間に対してのみされる挨拶は、はたしていつぶりなのか。思い出す事さえできなかった。
けれど、夜のゴミ出しと一緒で、しばらくすると戸惑いは消え、僕も「こんにちは」と軽い挨拶ぐらいなら返せるようになった。
慣れとは恐ろしいものだな、と思いつつ、挨拶に挨拶を返せる事自体は悪い事には思えなかった。
隣人は僕に何かをするつもりはないのか、それとも様子を伺っているのか、依然静かなままだった。でも居なくなったわけではないらしく、時折、壁の向こうからガサ、ごと、と何かが動いたり、置かれたりする音がするので、どうやらそれなりに生活をしているらしい事が感じられた。
夜も遅くにはドアが開けられるような音がする事もあるので、もしかしたら外になにか買いに行ったりしているのかもしれない。
ある時、ふと思った。これじゃあ、まるで本当に、ただの隣人同士ではないか、と。
同じアパートに住みながらも隣の部屋に住む者が何者かも知らず、しかしそれでも皆、お互いにそこに住んでいる事だけは知っていて。顔を合わせば挨拶も交わすけれど、それ以外はどの住人とも自分の時間を共有せずに、生活を続けていく。
それは多分、このアパートだけの事ではない筈だ。この世の集合体住居に住む人なら皆、似たような暮らしをしているものなのではないだろうか。
夜、大学から帰宅した僕は部屋の電気を点ける。パチン、と電気を点けると誰も居ない静かな家具だけが鎮座する1Rが僕を出迎える。今までとなんら変わりない光景だ。
でも今までと違って、僕の隣の部屋には殺人鬼が住んでいる。
壁1枚を挟んだ向こう側には、人を殺した事があるかもしれない人間が――住んでいる。
それは異様な光景で、異様な空間で、異様な出来事の筈なのに、なぜか僕は普段通りの(少しは差があるけれど)の暮らし方で生活を続けている。
隣に上に下に、人が居ようが居まいが、自分達の生活を続けるアパートの人々のように。僕もまた、隣が誰であろうと自分の生活を続ける。
誰も彼も、挨拶はしてもそこに住む人達がどんな人なのかは気にしない。
それはきっと、誰も彼もが自分の暮らしをするだけで精一杯だからなのだろう。皆、それぞれの理由で今日を生きるのに精一杯なのだ。
隣人の殺人鬼もそうなんだろうか、と考える。警察に追われる身である以上、きっとこのアパートの中で誰よりも生きるのに必死なのかもしれない。今日を無事にこのアパートで暮らせた彼は、一体今、何を思って、僕の隣で暮らしているのだろう。
もちろん、そんな事を考えても答えは出ない。僕は僕で今日を暮らすし、隣人は隣人で今日を暮らす。そして他のアパートの住人達も、皆それぞれの今日を暮らす。それを分かち合う事は、例え同じ場所に住んでいたとしても僕らはできないし、しようともしないのだろう。
そう考えるとなんだか酷く皆、孤独な存在に見えてきた気がした。
挨拶をする程度には知り合いなのに、僕らはそれ以上の仲には決してなろうとしない。
同じ場所に住む人々。僕らは互いにそれ以上の人間にもなれないし、それ以下の人間にもなれない。
それは、なんて酷く無意味で寂しい関係なのだろうか。世界というのは、意外と孤独で構成されている場所なのかもしれない、とそんな馬鹿げた事を考える。
でもなぜだろうか。この孤独が悪いとは、どうしても思えなかった。
壁に寄りかかってみる。どこからか、大声で気持ちよさげに歌う声が聴こえる。笑い声が、何かをぶつけてしまう物音が、水を使っているらしい音が、薄っすらと聴こえてくる。
この壁の向こうに、部屋の外に誰かが居る。決して僕には理解できない概念と生活と時間を過ごす人間が。
その事実がなんとなく、嫌いにはなれなかった。
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