初めてのこと
夜。大学の帰り間際、コンビニで買ってきたカップラーメンを食べながら、僕は自分のスマホを使って『殺人鬼X』にまつわるニュースを調べた。
ネット曰く、殺人鬼Xによる事件が起こるようになったのは、今から数ヶ月前からの事だという。
「3月○日、C県I市内の住宅街にて男性の死体が発見された。住宅内のゴミ捨て場に遺棄されていたのをゴミ捨てに来た、近隣の住民が発見。死体解剖保の結果、死亡推定時刻△日深夜から○日未明にかけての事が判明。腹部が裂かれており、この傷による失血死が死因だと思われる。遺体の状況から警察は殺人事件と断定。近隣の住民達への聞き込み等の捜査を行っていく予定だという」
これが最初の事件のニュース。この事件以降、殺人鬼Xは、同様の事件を定期的に、C県域を中心に繰り返していくようになる。
被害者は老若男女関係なし。事件現場も毎回てんでばらばら。強いて共通点を述べるならば、全て人通りの少ない場所――たとえば誰も寄り付かなそうな廃工場付近や、誰もが寝静まった住宅街等――皆、夜中になんらかの理由で人気のない通りを歩いていたと思われる者達で、死亡時刻は必ず発見される数時間前、そうして全員ものの見事にX型に腹をさかれているというぐらいだろう。捜査のなんの進展にもならなそうな共通点だった。
『殺人鬼X』という名も、犯人自身が名乗っているのではなく、世間が勝手に名付けたものらしい。その理由が、X型の傷跡にあるだろう事は明白だった。
スマホをスワイプし、ニュースサイトに公開されている殺人鬼X関連の記事を読み続ける。その内、記事の日時が本日付けのものにたどり着いた。「殺人鬼Xの被害者、ついに10人目」脳裏に、講義室で聞いた学生グループの会話が脳裏をかけていく。
やはり警察に通報すべきなのだろう。そっとスマホの電源を落とした。
隣人がもし本当に殺人鬼Xだったならば、僕は一般的な常識の範囲で生きる人間として警察に通報するべきだ。そうでなかったとしても、やはり勝手に空部屋に住み着いてる時点でやってる事は不法侵入と一緒なのだ、警察に通報した方がいいに決まっている。
だが、なんとなく110番を押そうと思えなかったのは、目の前に広げられているレポート用紙のせいだと思う。
「ありがとう」と書かれたレポート用紙。それを1人暮らし用の狭い1Rのど真ん中を陣取っているローテーブルの上に広げながら、僕は考える。このメッセージをわざわざ隣人の何者かがいれてきたその意味を。
綺麗に折りたたまれる形でいれられていたそれは、昨晩僕が隣人に宛てて書いたレポート用紙の裏に書かれたものだった。綺麗な再利用術だな、と思った。わざわざ新しいものを用意して書かなかったのは、足がつく可能性がある物を残す事を極力避ける為だろうか。隣人を例の殺人鬼、と仮定するならば、の話だけど。
でも本当に足がつくものを残したくないのなら、まずこんなお礼のメッセージを書き入れるだろうか。それも手書きで、だ。
何かで聞いた話だと、字というものには人間個々のクセというものが存在しているらしい。どれだけ似ている文字でも、全く全てが同じという事は少なく、実際に、その些細な差を使って誘拐犯などの犯人を逮捕した事があるという事例も世の中にはあるという話だ。
要するに、世の中の警察は、こんなたった5文字のありきたりな言葉から、隣人が何者であるかを特定可能だということ。
事実、隣人が送ってきた文字の形は、あきらかなまでのクセ字で、丸字の上位互換のような丸い形で構成されていた。「あ」なんて、丸すぎて「め」にも見えなくもない形になっている。これじゃあ、警察じゃなくても見る人が見れば、誰の文字かすぐにわかってしまうのではないか、とそんな事を考える。
なぜ隣人は、僕にこの手紙を送ってきたのだろう。
どうしてわざわざ「ありがとう」だなんて、そんな言葉を僕に送ってきたのか。
別にお礼なんて言わずに無視する、という方法だって取れただろうに。
「ありがとう」と書かれた表面をなぞる。僕以外の誰かが書いた僕のものではない文字を、1文字1文字、指でなぞってみる。
そういえば、とふいに思う。誰かに「ありがとう」だなんて言われたのはこれが初めてのことかもしれない、と。
結局その夜、僕の指が110番の数字を押す事はなかった。
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